1) ピーター・コンラッド(富士川義之訳):オペラを読む(白水社)1979、211頁。
2) 最新名曲解説全集(音楽之友社)1980、第20巻〈歌劇〉、135頁。
3) カール・ベーム(井本皓司訳):私の音楽を支えたもの ―― リヒャルト・シュトラウスとの出会い ―― (シンフォニア)1982、33頁。
4) 「補償行為」という表現には非常に問題が多い。『影のない女』についても、この問題も含めて別途考察した小論文があるので、いずれ発表したい。
5) Schuh, Willi: Arabella. In: Bayerische Staatsoper Muenschen. Programmheft zur Wiederaufnahme ARABELLA von Richard Strauss am 25. Dezember 1983 im Nationaltheater. S.35.
 尚、『クリスティーナの帰郷』は、『ばらの騎士』と同時期に書かれたホーフマンスタールの戯曲。この作品についてホーフマンスタールはシュトラウスに宛てた手紙の中で次のように述べている。
「《クリスティーナの帰郷》は散文で書かれたもので、《冒険者》とは程遠く、熟慮 や考察は一行もなく、また詩的形象や比喩も殆どありません。それは生き生きとした筋の進行とパントマイムの舞台劇で、《セビリャの理髪師》に大変近く、恐らく、まずは良い喜劇であり、そして良いオペラでもあるという点で《セビリャ》と共通の性質を持っていると思われます。」 ( Strauss, Richard/ Hofmannsthal, Hugo von: Briefwechsel. Hrsg. von Willi Schuh. Atlantis Musikbuch-Verlag. 1952, S.43f. )
6) Hofmannsthal, Hugo von: Lucidor. In: Gesammelte Werke in Einzelausgaben. Frankfurt a.M. ( S. Fischer ) 1959, Bd. 3: Die Erzaehlungen, S.105.
7)「昼のアラベラArabella des Tages 」「夜のアラベラArabella der Nacht」という表現は小説『ルツィドール』で使われているだけであり、オペラ『アラベラ』では使われていない。この「昼のアラベラ」「夜のアラベラ」に言及している作品論は時折見かけるものの、その殆どがこれをさほど重要視していない。しかし、Praeexistenzの問題もからめて、この「昼」と「夜」の概念は作品のテーマを追うための重要なポイントと思われるため、本稿では敢えてこの表現をオペラの分析に使うことにしたものである。
8) Hofmannsthal, Hugo von: Arabella. In: Gesammelte Werke in zehn Einzelbaenden. Hrsg. von Bernd Schoeller. Frankfurt a.M.( Fischer )1979, Dramen V, S.524.
9) Ebd.
10) エーミール・シュタイガー(芦津丈夫訳):音楽と文学(白水社)1979、183頁。
11) Dramnen V, a.a.O., S.525.
12) Ebd. S.527.
13) Ebd. S.528.
14) Vgl. Roesch, Ewald: Komoedien Hofmannsthals. Die Entfaltung ihrer Sinnstruktur aus dem Thema der Daseinsstufen. Marburg(N.G.Elwert)1963, S.203.
15) Dramen V, a.a.O., S.530f.
16) Ebd. S.527.
17) Ebd. S.543.
18) Ebd. S.552.
19) Ebd. S.547.
20) Ebd. S.551f.
21) Ebd. S.556ff.
22) ミリの役はコロラトゥーラ・ソプラノによって演じられるためか、しばしば『ナクソス島のアリアドネ』のツェルビネッタと対比されるが、ツェルビネッタは自分の意志を持った能動的人物であり、従ってこの意味で、単にコロラトゥーラ・ソプラノという観点からのみ両者を比較することは無意味である。『アラベラ』において、ミリはFiakerballの雰囲気を醸し出す存在として以上の意義は付与されていない。本来彼はマンドリーカとアラベラのカップルとは対置されるべきキャラクターでありながら、マンドリーカの相手役を務め、その上主役の座まで奪うというところが、本文で言及した齟齬・矛盾といったものを如実に表わしていると思われるのである。尚、Roesch, a.a.O., S.213も参照されたい。
23) Dramen V, a.a.O., S.576f.
24) Ebd. S. 577.
25) Vgl. Roesch, a.a.O., S.210.
26) マンドリーカとマッテオは、登場から終幕まで本質的に変わっていない。マンドリーカは一貫してder rinfache Menschであり続ける。第二幕での混乱も彼のeinfachな面を反映しているだけで、試練−浄化(あるいは還元)の系列に連なる要素としては希薄であると言わざるを得ない。また、「夜のアラベラ」がツデンカであることを知るや否や、マッテオが、それまであれほどアラベラを熱愛していたのにツデンカと恋仲になるというのは如何にも不自然だとする説があるのももっともであるが( Schaefer, Rudolf H.: Hugo von Hofmannsthals ARABELLA. Bern[ Herbert Lang & Cie AG ] 1967, S.138 )、マッテオとアラベラが接点を持っていたのはvorbei、つまりすでに過去のことであり、実際に舞台上で進行している物語の時点では、マッテオはツデンカである「夜のアラベラ」を通してツデンカ自身をも愛していたわけで、理屈の上からは納得できない状況ではない。ただし、ホーフマンスタール自身も小説『ルツィドール』の最後で、以下のような疑問を呈しているのである。
 「ヴラディーミル〔=マッテオ〕が〔ルツィーレ=ツデンカの〕これだけの献身を受けるに充分値する男であったかどうかは甚だ疑わしい。しかしいずれにせよ、このように奇妙な事情でもなければ、ルツィーレのような無条件に献身的な心の持ち主の完璧なまでの美しさというものは明らかにならなかったであろう」( Die Erzaehlungen, a.a.O., S.110 )
27) Kohler, Stefan: Der Zauberring der Operette ―― Marginalien zum Kompositionsstil der 〈Arabella〉.In: Profgrammheft, a.a.O., S.10.
28) 音楽之友社 前掲書『歌劇』、148頁。
29) ここで例に挙げたライトモチーフの類型はWilliam Mannの著書 " Richard Strauss. A Critical Study of the Operas " ( Cassel & Company LTD, 1964 )中のものを採用した。
30) Strauss, Richard: Arabella. Orchester-Partitur. ( Boosy & Hawkes ) S.498のtranqullo以降。
31) Ebd. S.527ff. の練習番号153以降。
32) もっとも、声楽部とオーケストラの音量バランスは、演奏者やその時々の演奏状況によって異なるので、一概に断言することは甚だ危険である。このようなことは、音楽記号学をも視野に入れて論じられるべき問題であり、ここでは深入りできない。
33) 安益泰・八木浩:R.シュトラウス 大音楽家人と作品23(音楽之友社)1983、171頁。
34) シュトラウスとホーフマンスタールの共同作業研究の受容史におけるホーフマンスタール偏重主義の弊害について、シュテファン・コーラーが " Musikalische Struktur und sprachliche Bewusstsein " ( Richard Strauss 96日本リヒャルト・シュトラウス協会年誌 所収)の中で指摘している。これについては他日考察の機会を得たいと考えている。
35) 川村二郎氏は「ホーフマンスタールと音楽」の中で、一つの興味深い見解を述べている。「主題を含む矛盾、ないし謎を、余す所なく表現し解決するためには、言葉以外の何物かが必要だと、そこで作者は信じていたにちがいない。その何物かは、もちろん実際、シュトラウスの音楽にほかならなかった。(…)ただその場合、台本作者が作曲家に対して必ずしも満足していない、どころか、時にはあからさまな苛立ちを叩きつけることすらあった。(…)しかしそれでは、シュトラウス以外の作曲家ならばホーフマンスタールを完全に満足させることができたろうか。それは想像すらされ得ない。いわゆるドイツ流の重々しさを避け、軽く明るく澄んだ音を、ホーフマンスタールは自分の言葉のために求めたのだが、その要求に『職人』シュトラウスよりほかの近代ドイツの作曲家が、応え得たとは全く考えられないからである。端的にいって、ホーフマンスタールは現実には存在しない音を求めたのだ。彼にとって音楽の至上の理念は、沈黙に等しいのだ。言葉はどこまで行っても意味の重荷を振り捨てることができず、それ故に真の純粋透明に到達することができない。ただ、言葉を超えた言葉、あるいは言葉の終わる所で始まる言葉としての音楽が、言葉を包み込むことによって初めて、言葉は意味の重荷から解放され、あこがれた純粋の状態を実現することを許される。ウォルター・ペイターが『すべての芸術は音楽の状態にあこがれる』といった、その文脈での、形式と内容の霊妙な一致という理想の象徴としての音楽。ホーフマンスタールが要請したのはまさにその音楽にほかならないので、この理念に対して現実のすべての音楽があきたらなく思えるのは、当然すぎるほど当然のことである。しかしほかならぬこのラディカルな音楽の理念化にもとづいているからこそ、彼の歌劇の言葉の、言葉でありながらたえず自分より高いものを求め、その懐に包みこまれて言葉を超えたいとあこがれるかのような、独特の謎に満ちた身ぶりが生まれるのである。」(『白夜の回廊 世紀末文学逍遥』岩波書店1988、166〜168頁)


●参考文献一覧(上記の註に挙げたものを除く)

Deppisch, Walter: Richard Strauss. (Rowohlt) 1968.
Hofmannsthal, Hugo von: Aufzeichnungen u. Lustspiele IV. In: Gesammelte Werke, a.a.O.
Knaus, Jakob: Hofmannsthals Weg zur Oper ' Die Frau ohne Schatten ' . Ruecksichten und Einfluesse auf die Musik. ( Walter de Gruyter ) 1971.
Strauss, Richard: Betrachtungen und Erinnerungen. ( Atlantis ) 1949.
Volke, Werner: Hugo von hofmannsthal. ( Rowohlt ) 1967.
D. J. クラウト(服部幸三・戸口幸策訳):西洋音楽史(音楽之友社)1969〜‘71
フーゴー・フォン・ホーフマンスタール撰集(河出書房新社)1973
篠田一士・諸井誠:往復書簡 世紀末芸術と音楽(音楽之友社)1983