MusiCinema
エヴァンゲリオン
新世紀エヴァンゲリオン

文=香沢真矢

「エヴァ」論をこねくり回すのも面倒だし、「エヴァ」にクラシック音楽という切り口から迫るつもりもないし、「エヴァ」に関してほとんど白紙の状態で観たし、単なる駄文である。だけど、日頃クラシックは聴いてるけどアニメは観ないそこのあなたも、観てみたらどうでしょう。ぐっと来たり腹立ったり、とにかく忙しいアニメでした。【参考:GAINAXによる作品紹介

 さて「新世紀エヴァンゲリオン」である(私が見たのはテレビ版再放送)。「鉄腕アトム」や「サイボーグ009」で育ち、元祖「機動戦士ガンダム」にのめりこみ、「鎧伝サムライトルーパー」の同人誌作りをしていた友達から全話のビデオと劇場版ビデオ、あらゆる同人誌を借りて読み、落ち込んだときに「銀河英雄伝説」のビデオを観て活力を得ていた私も(ってこれじゃほんとにアニメオタクみたいじゃない。しかし私の世代ならこれが普通じゃないの?)、ここ数年ちょっとアニメにご無沙汰であった。別に意識していたわけでもないのだが。先ごろTVKで深夜再放送していた「機動戦士Zガンダム」も、少し観たけどイマイチだったなあ。というわけで、「エヴァ」も完全な出遅れである。ちなみに私的アニメベスト1は文句なく「装甲騎兵ボトムズ」である。

 で、エヴァで使われているクラシック。少なくともテレビ版では、はっきりしているのはバッハの無伴奏チェロ組曲第1番、ハレルヤコーラス、及びベートーヴェンの第九から「歓喜の歌」の3曲。それぞれかなり印象的な箇所に使われているといっていいのでは。まずバッハの無伴奏チェロ組曲について。主人公碇シンジがチェロで弾いている(第壱五話後半)。これがオーケストラのチェロのソロパートだったりしたらやはりこの場合ヘンであろう。ピアノ伴奏つきすら不自然。なにせシンジ君はとーっても内向的な少年なのである。合奏なんてとんでもなかろうから、チェロ一本で弾けるものといったらこれだ。

 主人公碇シンジは、14歳の少年。この年齢の、ナイーブで内向的で、人とうまくコミュニケーションできなくて、ぐらぐら揺れている混沌状態というのが実に細やかに描かれている。この時期を「自分は誰で、なぜ生きているのか」という自問なしに通過する人間がいるだろうか。また、「自分は、人生は生きる価値がある」=「ここにいていい」という承認を得たいという気持ちがなしに。というわけで私も完全に感情移入してしまった。どうも不思議に思うのだが、おとなって、おとなになると、まるで生まれた時からおとなみたいに、コドモが全然わかんないみたいに、最近ときどき言っていることがあるのだけれど、どうなってるんだろう? それとも5歳の私、10歳の私、14歳の私にすぐに戻れる私のほうがおかしいのだろうか?(ちなみに私は立派なおとなである、年齢的には)。などと書いているときりもなく話がそれるからもとへ戻って、シンジはエヴァンゲリオン初号機のパイロットである。

エヴァ初号機 ここで「エヴァンゲリオンとはなんぞや」を簡単に説明すると、人造人間で、神経組織も持っていて、切れば血も出るが、見た目はちょっちグロな巨大ロボット(このデザインがデモニッシュでなかなかよろしい)、時々「暴走」し、最大稼働時間は5分、「シンクロ」するパイロット(あるいはその思考パターンを組み込んだパイロットのダミー)でなければ動かすことは出来ず、シンクロするのは「チルドレン」と呼ばれる14歳(限定)の少年少女だけである、というものである(14歳、ああこの微妙な年齢。自我が不分明な「あどけない瞳」の「残酷な天使」にしか、エヴァンゲリオンが同調しないとは、設定として面白すぎる)。こんなんでおわかりいただけただろうか? ついでにエヴァンゲリオンとは、エヴァンゲルが「福音」、エヴァンゲリストが「福音伝達者」、ついでに「バッハ 魂のエヴァンゲリスト」なんて書籍もあるが、そこから作った言葉と思われる。さらに、略して「エヴァ」と言う時には当然アダムのお連れさまとしての意味、「アダムの肋骨から造られた」の意味も兼ねている。

 もひとつついでに、オープニングで歌われる歌詞が「残酷な天使のように」とか「少年よ神話になれ」。しかもここでバックになぜかカバラがばらばら出る(カバラとは。辞書でひくと「ユダヤ教神秘主義の一。古来より伝えられた神秘的聖書解釈及び密議の伝統。元来ヘブライ語で伝承の意」となっているが非常に複雑で面白いので、関心のある方は自分で調べてください)。「生命の樹」がばーん、マルドゥクという機関名(たしか)が出て来るが、これもカバラの用語である。エヴァには聖書の「神秘的解釈」の感があるもんなあ。しかも「エヴァ」が戦うのは、「使徒」と呼ばれる正体不明の敵である。この名前がまた御念が入っていて、「〜エル」がほとんどなのだな。これはキリスト教の大天使系の名前で、ラファエル、ミカエル、ガブリエル、ウリエル、カマエル、大天使たちはみんなこんな名前なのだ。「使徒」自体、「キリストの福音を伝えるために遣わされた者」の意味である。

 いつでも、優れた物語は、解釈を拒絶するものである。あるいは、無数の解釈が可能なものである。「エヴァ」がかくも人気があるのも、さまざまな角度と切り口で解釈できるからだと思うので、ここから独断と偏見で一つのテーマに絞って突っ走るわけだが、やはり「エヴァ」にはクラシックが似つかわしい。なぜだろうか? 答えは簡単である。「エヴァ」は古い物語、荘厳な物語、伝統と格式ある物語、クラシックがもっともふさわしい物語だからだ。実は、上記のようにこれでもかとばかりにちりばめられた宗教的な言葉、キーワードとしてのそれらも、これが神の息吹が通う物語だからではないだろうか。別にキリスト教的な神ではない。ここで言う神とは、ほんとうの自分の個性であり、本来の自然発露的な力のことである。人間は誰でも自分のうちに一人の神を持っている、これは別に宗教的な意味ではない(通俗的かもしれないけどさ)。しかし、シンジはエヴァ初号機との高度なシンクロ率、つまり「エヴァのパイロットであること」にしか自分の価値を見いだせず(実はそれすらもいろいろと怪しいが)、押さえこまれた自我のなかで苦しむ存在である。その力を見失いかけている主人公だから、それこそが自分にとって最も尊い、神の力に近いものになり得るのである。それは、祈りに近い感覚である。それゆえに、逆算的に宗教的な色合いを帯びるのではないか。

 また一方で、ここではやはりヴィスコンティの「地獄に落ちた勇者ども」に顕れるような、悪神も登場する。それは絶えず主人公を脅かし続ける「僕はここにいていいのだろうか?」=「生きる価値のある存在なのだろうか」という問いかけである。彼はこれを乗り越え、その回答を見つけねばならず、したがって「エヴァ」は悪神との壮絶な戦いの物語でもあるのだ。これを「自我の獲得」と見れば、それは思春期に誰もが戦う通過儀礼でもある。それゆえにこれは古い物語である。
 そしてシンジにとってもうひとりの悪神は、父、碇ゲンドウでもある。父に認められ、愛されることが、シンジにとっての自分の価値とイコールになっているところがある(本来そうではないことに早く気づけ!)。そして、多分、ゲンドウは、シンジの癒されなかった姿なのだろう。ゲンドウはシンジにとってのみならず、なぜか実力者が女性ばかり(冬月除く)のNervという世界においての残酷な悪神でもある。

 この物語は、神話である。シンジは、『自分には生きる価値がない』という刷り込まれた物語をいったん組みなおし、『自分は固有の優れた存在である』という物語に自ら書き換える作業を必要としている。「ここにいてはいけないかもしれない」自分が、「ここにいてもいいのだ」と悟ったときに、世界は両腕を広げてその存在を迎え入れる。そして、その書き換えられた物語は、彼にとってひとつの「神話」たり得るからだ。それは、世界が自分を受け入れ、自分が世界を受け入れるという、長く書き続けられて来た神話としての物語にほかならないからである。

 それにしても、最後にネタばらし兼ねた文句を言わずにはいられない。このアニメ、とにかく不消化だし、バランスが悪い! 前半の後ろのほう、エヴァの弐号機パイロット、アスカが登場したあたりで完全にだれる(失礼)し、最終2話、なんでここまで哲学・観念・心理的方面行くかなーと思いました。「あーあ、アッチのほーへ行っちゃったよ〜」。上に書いたようなことがエヴァのテーマの一つと私は解釈したが、提示の仕方が最終2話のお蔭で説明的すぎ、こんなに直截にやるのは野暮だ。(ところで最終回のアレが「人類補完計画」って解釈もあって、おったまげた。そ、そうなの? あれがそれじゃまるでカウンセリングじゃん。シンジがカウンセリング受けて心の傷を癒しましたってオチか〜、しかも父親がその「計画」を実行したってか〜。それも皮肉で楽しいかも)
 着想はうならせるところが多々あって、最後のほうで登場するあるキャラクターなんか、実にいい。彼の正体及びシンジにとっての彼の存在は出色なのだが、これも描き方が足りない。最後5話くらいはなんだかめちゃくちゃに詰め込んだような感があって、ああ、素材とか着想とか面白いのに、やっぱりどう考えても消化不良である。
 第一、色々な謎をきれいさっぱり解けとは言わないが、いくらなんでも説明不足のままに残ったことが多すぎる。物語のお約束ってものがあるでしょうが。それに物語としての語法を最後の2話で全然別のものにする、っていうのはちょっと横紙破りっつうか、それ、ないんじゃない? 最後までエヴァンゲリオンと使徒と戦いと葛藤と成長と、という語法で描いて欲しかった。特に、シンジの葛藤&成長のほうはこのままでいいから、エヴァンゲリオンとか使徒のほうをもっと掘り下げて欲しかったんですけど。なかなか斬新だったんで。

 最後まで破綻なく物語を描ききり、ボトムズというメカも描ききり、予告編に至るまでスタイルを持ち、隅々まで丁寧に作られていた(音楽もとても良かった)「装甲騎兵ボトムズ」はやはり傑作だったが、エヴァンゲリオンほど人気は出なかった。ストーリー上コドモは完全にターゲット外にし、多数ウケを無視し、難解なテーマを持って来たせいもあるだろう。巨大ロボットものとして、ボトムズは完成されている。そこへ行くとエヴァはあちこちボロが出ているのに、粗削りなパワーがある。私としては解釈を拒絶するほど優れた物語だとは思わないが、様々な角度からの解釈が可能であるのは確かだ。

 そういえば落ち込んだアスカがSEGAのゲームをしていました。アニメとゲーム。いずれも日本が世界に誇れる数少ないものなのに、いろいろと制約も多いらしくて、先ごろプレイしたSEGAの「テラ・ファンタスティカ」もシナリオを3分の1にしたと言う。お蔭でやっぱり物足りなくて、物語として破綻している部分が出て来てしまった。一遍、作り手に好きなようにやらせてあげたらどうですか。でも、ものすごい傑作かとんでもない駄作になるっていうリスクはあるだろうし、いずれにせよ多数の支持を受ける(アニメなら視聴率及び関連グッズの売れ行きとか、ゲームなら発売本数及び続編の有無とか)ためにはどうしてもっていうことがあるだろうし、そう簡単には行かないか。エヴァの結末がそういう色々な制約に関るとしても、真のエンディングは劇場版ということだとしても、テレビ版はほんとに時間が足りなかったとしても(このへんはみんな私が事実を確認していない「噂」と「推測」にすぎません)、出来上がってるものは出来上がってるものなのであり、作り手は確信犯的に最終2話をああ持って行ってるわけで、私としてはテレビ版を見て、これはこれで完成したものとして駄文を書いてみました。

 結局クラシックのことはほとんど書かなかったけれど、ハレルヤと第九に関しては、ストーリー上重要な場面に使われていて、ネタバレにもなるので簡単に。ハレルヤは、第弐壱話で使徒にアスカが精神汚染を受ける時、つまり使徒=新たな神の人間への干渉を象徴していると思われる。また、第弐四、弐五話の第九の「歓喜の歌」は、人間が好むと好まざるとに関らず新たな神を滅ぼす、あるいは打ち勝つことの予感と象徴として使われているようだ。ただしこれも一つの解釈にすぎない。(97/08/12)

ネタバレ思いっきりありの「キャラクター考察編」へ。


本ページに使用した「新世紀エヴァンゲリオン」の画像は(株)ガイナックスにより掲載許諾を受けたものです。配布や再掲載は禁止されています。


[HOME]