ヴィスコンティとクラシック音楽●ヴィスコンティ・ディ・モドローネ、1906年11月2日、モドローネ公爵ジュゼッペ・ヴィスコンティとカルラ・エルバの間に、ミラノにて生まれる。ヴィスコンティ家は14世紀末にミラノ公の称号を得た家柄。ルドヴィーコ・イル・モーロ時代のレオナルド・ダ・ヴィンチを庇護、芸術家擁護の伝統は後まで伝えられ、ルキノの祖父グイドはスカラ座のパトロンとして、トスカニーニを起用した。ヴィスコンティ家は、スカラ座に桟敷席を所有していたという。ルキノ自身も幼少からチェロを習い、ミラノ音楽院に進み、13歳のときに音楽院のコンサートでソロを披露している。'54年にはマリア・カラス主演の「ラ・ヴェスターレ」の演出をし、スカラ座にデビュー。この後三年間、カラスの「夢遊病の女」「椿姫」他の舞台を演出し、スカラ座の黄金時代を築く。'60年代には、オペラで国際的に活躍し、彼の演出するヴェルディ、シュトラウスの舞台はローマ、ロンドン、モスクワ、ウィーンにも登場。'72年には、「ニーベルングの指環」をスカラ座で演出しようとするが、「ルートヴィヒ」の撮影後に血栓症の発作に倒れた後だったため、医者に止められる。'73年「マノン・レスコー」の演出で復帰。'76年3月17日死去、その日の昼の大部分を、ブラームスの交響曲第2番を聴いて過ごしたという。
「若者のすべて」〜チャイコフスキー/交響曲第4番第1楽章
1960年のルキノ・ヴィスコンティ作品。なぜ今までこの映画を見損ねてきたかはいささか自分でも不思議ではある。それで、見終わった第一声は、「地獄に堕ちた勇者ども」の「あらま、トーマス・マンだ」に続き、「あらま、ドストエフスキーだ」。
……実際、この映画には、労働者がイタリア南部の(比較的貧しい)農村から(比較的裕福な)北部に移住し、ひとつの価値観が崩壊していったという時代背景があるわけで、だからこそこの映画はヴィスコンティの「ネオ・リアリズム」時代の作品たりえるわけだが、1999年の日本に生きる私がこれを観るとき、その価値観に共感できるのはイタリア北部の社会に溶け込んで成功する四男チーロであって、彼だけが現実的、リアリスティックな人物に見え、他の兄弟たち−−特に、物語の中枢となる三男ロッコ、次男シモーネ(レナート・サルバトーリ)、そして二人に愛されるナディア(アニー・ジラルド)は、物語的人物、ことにドストエフスキー的な、狂熱的で劇的な人物に見える。
原題「Rocco e i suoi fratelli(ロッコとその兄弟)」のロッコ役を演じるのは、当時二十四、五歳のアラン・ドロンである。同年のルネ・クレマンの「太陽がいっぱい」−−花のような美貌と才気以外に何も持たないチンピラが、胸いっぱいの野心の末に破滅するこの作品が、若いドロンをスターにした。この映画では、ドロンは限りなく赦し、受け入れる、チーロいわく「聖人」のようなロッコである。クレマンとヴィスコンティは、アラン・ドロンを美の器にして、その悪魔性と聖性を引き出して見せた。どちらかというと前者のほうがイメージが強いけれども、この映画の彼はとてもいい。悪魔性と聖性が容易にひっくり返るものだと示してもくれる。
で、まあ、ロッコも面白いのだけれど、「あんたが触れるとすべてが穢れてしまう」といわれる次男シモーネもシンボリックでなかなか魔術的な役どころだ。彼はロッコの犠牲の上に生きているように見えて、実は家族の生贄であり、闖入者ナディアの浄化役を演じてもいる。こうしてロッコとシモーネを中心に、ナディアが加わって起こる家族の崩壊の物語に、既に家庭を持っている長男ヴィンチェンツォは日和見を決め込むが、四男チーロがきっちりと現実的なケリをつけてくれる。未だ幼い末っ子ルーカは未来を象徴しているが、その姿はミラノの街に消えていき、よく見えなくなる。
「若者のすべて」を観ると、ヴィスコンティが描いたのは、スタイルは少しずつ変化していても、一貫して一つの世界、一つの生活、一つの夢、一つの家族の崩壊と破滅だったと確認することになる。次作「山猫」で貴族の没落のリアリズムがのちの官能的な耽美趣味と結合し、「熊座の淡き星影」「異邦人」を経て(このあたりで「ネオ・リアリズム」作家と捉えられていたヴィスコンティは、衰退したとまで言われた)、69年の「地獄に堕ちた勇者ども」で圧倒的なヴィスコンティ・パワー(?)が炸裂し、後年の絢爛たる作品群へとつながっていくわけである。
ところで、ヴィスコンティの作品のうち、音楽がクラシックやオペラを中心に構成されているのは「ヴェニスに死す」以降の四作品と「夏の嵐」で、ニーノ・ロータによるオリジナルが「白夜」「ボッカチオ'70」「山猫」、それにこの「若者のすべて」である。よって、この映画では常に場面にふさわしい「映画音楽」が流れているわけだが、クラシックが使われているのが一箇所だけよくわかった場面があった。シモーネがナディアと共に自堕落な生活をしている部屋にチーロが来たときにかかっている、チャイコフスキーの交響曲四番(第一楽章)である。この音楽は、野獣のようなシモーネに潜んでいるものが、また救いがたいシモーネとナディアの関係が、どこか崇高で悲劇的なものであることを端的に示している。(99/10/03:初出はMayazine)
「家族の肖像」〜モーツァルト/「おお神よ! お打ち明けしたいのですが」他
さて、『家族の肖像』である。これは公開されたときに「ヴィスコンティの遺作となるか……?」の思いで、見に行った覚えがある。この映画の撮影に入る前にヴィスコンティは病に倒れ、車椅子で臨んだという話が伝わっていたのだ(しかし、結局そのあとで撮った『イノセント』が彼の遺作となった)。ヴィスコンティ自身、死を意識していたに違いない。最後の2作には、死の匂いが濃く立ちこめているからである。公開当時、若さと美貌ならず馬鹿さと貧乏しかなかったませガキの私には、この映画がよくわからなかったのであったが……。
撮影は全編が室内のセット。閉じられた世界、窓から見られるローマの風景すら、実は大道具のセットという、完全に人工的に作られた世界。これは映画というより戯曲だ。あふれる言葉で交わされ、常に裏がある登場人物たちの会話、その登場と退場のしかた、すべてが偶然=必然の戯曲的世界である。そしてその世界の背景に「家族の肖像」Conversation piece(18世紀によく描かれた家庭の食卓での団欒を描いた絵画)がかかっている、そういう映画だ。フランコ・マンニーノによる荘厳なテーマ音楽も美しい。主演は『山猫』に続きバート・ランカスターだが、実はヴィスコンティ自身は『山猫』のサリーナ公爵の役をマーロン・ブランドに演じさせたかったという(『夏の嵐』のフランツ・マーラー中尉の役にも彼を希望していた)。マーロン・ブランドの出演した映画でもっとも人口に膾炙しているのは『ゴッド・ファーザーPART1』、それに『地獄の黙示録』であろう。スーパーマンの父親役をやっていて驚いたこともあるが、印象的なのは『ラストタンゴ・イン・パリ』だ。サディスティックかつエロティックで、そのくせ厳格な父親像も演じられる。確かにヴィスコンティが語る「とても複雑な性格で、あるときは専制的で乱暴で激しく、あるときはロマンティックで善良で物分かりがよく、そして時として愚かでさえある」サリーナ公爵像を体現できただろう。しかし、スケジュールの都合で彼は無理、ということになって、代わりに配給元の20世紀フォックスから提示されたのがスペンサー・トレイシー、アンソニー・クイン、それにバート・ランカスターであった(アンソニー・クインのサリーナ公爵というのもすごそう……)。ヴィスコンティはランカスターを選んだ。ニューヨーク体育大学を中退し、サーカスの空中アクロバットのスター出身の彼は、「ニューヨークの一市民である自分に、シチリアの貴族の役ができるのか?」と悩んだものの、見事に公爵を演じた。ヴィスコンティも満足し、この『家族の肖像』の「教授」役にも起用した。この役に名前はなく、ただ「Professor」とのみ呼ばれる。
ほとんど世捨て人同然に孤独に暮らす老教授の家に、突然入り込む饒舌な闖入者たち。古色蒼然たる絵画の中の人物か歴史上の人物のような教授に対する、非常に現代的な色鮮やかな彼ら。彼らが教授の許可なしに行なった部屋の模様替えは、それを端的にあらわしている。実際に教授の家の二階に越してきたのはコンラッド・ヒューベル、ブルモンティ侯爵夫人の愛人らしい彼に初めて会ったとき、教授は目を見張る。老教授の心すら動かした美貌のコンラッドを演じているのは、あのヘルムート・バーガーである。この俳優自身の「肉体的宿命」によって、汚辱と崇高、下品さと高貴さ、背反する要素が見事に一身にあらわされている。バーガーの魅力を完璧に引き出したのはヴィスコンティのみで、ほかに観るに堪えるのは『雨のエトランゼ('70年仏・伊。セルジオ・ゴッビ監督。原題:Un beau monstre、美しき野獣。原作:ドミニク・ファーブル)』くらいである。侯爵夫人はまたシルヴァーナ・マンガーノ(ヴィスコンティはオードリー・ヘップバーンと交渉したが流れた)。その娘のリエッタを演じる15歳の女優クラウディア・マルサーニの容貌は『ヴェニスに死す』のタジオ役、ビョルン・アンドレセンに似ている。
教授は偏屈で内向的で人付き合いをほとんどしない人物で、絵画と書物に囲まれ、家政婦に世話をされつつ暮らしている。彼の脳裏にはしばしば美しかった母(ドミニク・サンダ)、不幸な別れかたをした妻(クラウディア・カルディナーレ)の記憶の断片がよぎる。ヴィスコンティ自身の姿がかなり投影された主人公であるとはいえ、「反ファシスト被害者救済委員会」の任につき、一度は逮捕されて銃殺刑を宣告された「赤い侯爵」に対し、教授はあきれるほどノンポリである。その証拠に、闖入者たちのいさかいやその周囲に起こる事件について理解できない。絵画の中の人物とともに、書物と過去の記憶、愛の追憶とのなかに生きているのだ。
物語の流れは、2曲のモーツァルトによって変わる。最初から好戦的で不快な態度をとるコンラッドに、教授はよい感情を持たない。迷惑でしかなかった彼の存在が、色合いを変えはじめるきっかけとなって鳴るのが、モーツァルトのアリア「おお神よ! お打ち明けしたいのですが」である。コンラッドはこの曲を知っていて、モーツァルト自身のような天真爛漫な表情を浮かべて聞き入る。壁にかけられた絵画に対してもちゃんと独自の意見を披露する。彼が美に対する繊細な感覚と知識とをちゃんと持っている、とわかったところで、教授の中では美しいだけで粗暴な青年と思っていた彼自身の美が再び輝きはじめるのである。こうして、教授の古びた家の二階には、美が棲みはじめた。
ある日、コンラッドは誰かの襲撃を受けて、血みどろになって現われる。教授はわけがわからぬまま書棚の奥の小部屋にかくまう。コンラッドが回復した後、教授は眠る前にやはりモーツァルトの「ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲」を聴いていた。ところがヴァイオリンに絡みつくように、カンツォーネが聞こえる。不審に思って二階へ行くと、コンラッド、リエッタ、ステファーノ(リエッタの婚約者)が音楽をかけながらハッシシを喫い、乱交パーティ(死語)をしている。薄暗い照明にたなびくハッシシの薄紫の煙のあいだに、コンラッドの金髪がほの明るく見える。カメラは教授の目となって彼を追う。
そして偽りの「家族」である教授、コンラッド、ブルモンティ侯爵夫人、リエッタ、ステファーノが食卓にそろった「肖像」から最後のいさかいが始まり、物語は終焉に向かう。病に倒れた教授のまえで、二種類の「真実」を語って去る、ブルモンティ侯爵夫人とリエッタ。だが、いまはいずれの真実にも意味はない。教授の家の無人だった二階には、美が、血の匂いが、さらに官能が棲みつき、ほとんど生ける屍であった教授を蘇らせたが、今は再び誰もいなくなった。彼の耳には、最後に棲みついたものの足音が静かにこだまする……。(97/03/31)
「地獄に落ちた勇者ども」〜バッハ/無伴奏チェロ組曲第5番から「サラバンド」他
『地獄に落ちた勇者ども』(1969)、この作品に、『ヴェニスに死す』(1971)、『ルートヴィヒ 神々の黄昏』(1972)を加えて、ヴィスコンティの「ドイツ三部作」が完成する。
この映画はナチス・ドイツの台頭してきた1930年代、ドイツの工業地ルール地方の鉄鋼王エッセンベックの一族の没落を描く。構想がトーマス・マンの『ブッテンブローク家の人々』によく似ている。繁栄を誇った一族の没落を三代にわたって描き、頑健な体質は虚弱に、現実的な考え方は次第に夢想的になり、有能な商売人気質は芸術家気質となってゆく……トーマス・マンが26歳のときに書いて後にノーベル賞を授賞した長編小説だ。もっとも、ヴィスコンティ自身は「成り立ちが異なった一族であり、エピソードであり、時期が異なっている」と語っている。物語はエッセンベック製鉄会社の所有者ヨアヒム・フォン・エッセンベック男爵の誕生日パーティから始まる。一族全員が揃っており、登場人物が手際良く紹介されていく。孫の一人、ギュンター(ルノー・ヴェルレー)はチェロを披露するが、このとき彼が弾いているのはバッハの無伴奏チェロ組曲第5番「サラバンド」である。ギュンターはエッセンベック家の良心と無垢を体現する人物で、『ブッテンブローク家の人々』で言えば三代目のヨハン(ハノー)の役どころである。一方、もう一人の孫、マルチンは女装をし、『嘆きの天使』(マレーネ・デートリッヒ主演)の主題歌、『陽気なローラ』を歌う。ヘルムート・バーガーのヴィスコンティ映画での衝撃的なデビューシーンである。マルチンは、愛人のフリードリヒ・ブルックマン(ダーク・ボガード)と共にエッセンベック製鉄会社を乗っ取ろうと試みる母のゾフィー(イングリット・チューリン)に完全に取り込まれているが、このゾフィーという女はマルチンのみならず、フリードリヒも製鉄会社もなにもかも呑み込もうとする「恐ろしい母」を具現化したような人物である。
そのほかにエッセンベック家の人々には、ヨアヒムの息子でギュンターの父、ナチスの突撃隊に所属する現実的なコンスタンチン(ルネ・コルデホフ)、ヨアヒムの甥ヘルベルト・タルマン(ウンベルト・オルシーニ)、その妻エリザベート(シャーロット・ランプリング)、同じく甥のアッシェンバッハ親衛隊大佐(ヘルムート・グリーム)がいる。タルマン夫妻もギュンターと同じく良心を現すキャラクターである。ではアッシェンバッハは?
まず起こるのはお約束の「父殺し」である。葬式にはショパンの葬送行進曲。ひとりの人物が権力を横取りし、独占しようとしたこの殺人を皮切りに、次々に人が死んでいく。大人の女を愛せないマルチンが通う娼婦の家の近くの少女(彼はその馴染みの娼婦より、少女のほうをずっと愛しているのだ)の死を予言する、ブルックナーの交響曲第8番。突撃隊員のコンスタンチンは、忍び寄る死の影に気づかず、『イゾルデの愛の死』を陽気に歌う。また、ホルスト・ヴェッセルの突撃隊の隊歌を歌う突撃隊員たち。早暁、響いてくる物音に半裸の若い突撃隊員が耳をすます場面が美しい、と書いていたのは三島由紀夫である。彼らの血みどろの青春に、更に血なまぐさい幕を下ろすものの足音が響いてきたのだ。この親衛隊員による突撃隊員の大虐殺のシーンは圧巻である。
エッセンベック製鉄会社は誰のものになるのか? もちろん生き残った者の。フリードリヒ、そのはずだったが彼はしかし度胸が足りない。子供のようにゾフィーにすがる。ヘルベルトは片付いた。マルチン、若すぎる変質者。純粋なギュンターは父の死の真相を知って、彼には無縁だった「憎悪」を手に入れる。これらを統べるのは精妙な「人形遣い」である、アッシェンバッハである。彼はギュンターをじわじわと洗脳し、一方マルチンに目をつける。すべては整い、彼の思いどおりになった。この映画はドイツ語のタイトルは『神々の黄昏』となっている(邦題では『ルートヴィヒ』のほうにつけられた)。ヴィスコンティは「頽廃と汚辱が避けられなかった時代、ドイツにおける1933年から1934年の間という時代に、この一族の没落と崩壊を設定した」と書いている。エッセンベック一族が憎悪と諍い、罵り合いの大混乱に陥る劇的な山場で、余裕たっぷりにマスカットを食べているアッシェンバッハに、残酷な悪神の横顔が垣間見える。(97/03/31)
「ルートヴィヒ 神々の黄昏」〜ワーグナー/「ジークフリート牧歌」他
お次は「ルートヴィヒ 神々の黄昏」、参りましょう。ワーグナー好き必見の、ルキノ・ヴィスコンティ作品である。これはバイエルン公国最後の王、ルートヴィヒ二世の伝記映画ともいえるものだから、当然主役はルートヴィヒで、ワーグナーもルートヴィヒ側、ないしはバイエルン公国側から描かれている。ワーグナーの音楽は特に好きではないし、彼自身がどういう人物だったのかもよく知らない、という人が観たら、ワーグナーという人間が嫌いになること請け合いの映画である。しかしルートヴィヒは主に「リヒャルト・ワーグナーの最大のパトロン」として名を残し、ワーグナーはあまたの作品がいまでも世界中で演奏され、愛されている。この映画を観ると思うのは「人生は短く、芸術は永し」色即是空、空即是色、合掌、である。映画は18歳でルートヴィヒが即位してから、41歳で湖で謎の変死を遂げるまでの生涯を描いている。ルートヴィヒは「地獄に堕ちた勇者ども」で強烈な印象を残したヴィスコンティ最後の恋人、ヘルムート・バーガーの一世一代の名演で、これで真っ白に燃え尽きたかと思ったら「家族の肖像」にも出ている。金髪を黒髪に染め、あのウランちゃんかサリーちゃんのパパみたいな髪型にして、実にルートヴィヒに似ている。ワーグナー夫妻は、コージマは前に書いたとおりS・マンガーノ。般若面がよく似ている。しかし、それ以上にどーしちゃったんだと思うほどそっくりなのが、御大リヒャルト役のトレヴァー・ハワードである。これは一見の価値がある。ルートヴィヒの従姉でオーストリア皇帝妃のエリーザベトにはロミー・シュナイダー、ルートヴィヒの愛人で馬丁のホルニヒには「イノセント」のマルク・ポレル。その他の配役も、同じ俳優を好んで使いたがった監督ゆえ、「あ、あの人『ヴェニスに死す』にも出てたノーラ・リッチだ、あの人は『地獄に落ちた勇者ども』のヘルムート・グリームだ」と指差し確認したくなるほどヴィスコンティ・ファミリーで占められている。
余談だが(余談しかしてないか)この映画、台詞は英語をイタリア語に吹き替えていて、ルートヴィヒは「イノセント」のジャンカルロ・ジャンニーニなのだが、やっぱりドイツ語が良かったんじゃなかろうか。
この映画のクラシックは、当然、これもワーグナー、あれもワーグナー、みんな ワーグナー、きっと、よくわかんないぶんもワーグナー、だ、と思うのだが、実は即位したてのルートヴィヒがエリーザベトと散策しつつ会話する場面にはシューマンの「子供の情景」から「異国より」が使われていたりして、油断ならない。コージマが誕生日にワーグナーの子ジークフリートを抱いて、階段にずらりと並んだ楽団員の「ジークフリート牧歌」を聴く場面。ワーグナーからの誕生日プレゼントがこの新曲だったというわけで、かなり羨ましい話である。コージマはご承知の通りフランツ・リストの娘だが、父の美貌も才能も受け継がなかったが長命は受け継ぎ、ワーグナーの死後も長くバイロイト音楽祭を牛耳った。相当すごい女だったと思われる。お近づきになりたくないタイプである。ルートヴィヒが婚約者・エリーザベトの妹ゾフィーの「ローエングリン」の「エルザの夢」をピアノで弾きつつ歌うのを、うんざりし果てた顔で聞く場面(聴くに堪えぬヘタクソ)。16歳のルートヴィヒが宮廷劇場で観て感激したのがこの歌劇だったから、いささか彼に同情したくもある。
さてルートヴィヒは、彼を「血迷った坊や、狂った家系の最後の王」と評しつつ、コージマと組んで莫大な金を彼から引き出した「横領者」ワーグナーとも国家評議会に迫られて手を切り、ゾフィーとの婚約破棄は司祭に止められたのでそのまま結婚を延期し(この時期に金髪碧眼の美形の馬丁、ホルニヒに出会ったせいもある)、弟オットーは発狂し、ますます自室に引きこもり人に会わなくなる。その間趣味に走りすぎて建築様式を無視したリンダーホフ、ノイシュヴァンシュタイン、ヘレンキームゼーの3つの城を造ることに情熱を傾け、男色の道へ溺れていく。気に入った俳優を指輪や懐中時計で釣ってあちこち引きずり回し、男の従者と乱痴気騒ぎをする場面などはほとんどコミカルだ。正直言って、金と暇があれば、ちょっとこうした生活がしてみたいと思わんでもないひとは大勢いるだろう……同性愛はさておき……と思う。
実際、ルートヴィヒがもし国王ではなく地方貴族程度の身分なら、こういったことをもう少し小規模にやっていればそれほど騒ぎにはならなかっただろう。似たようなことをしていて芸術家の擁護者としてサロンに名を馳せた貴婦人も大勢いる。だが度を越した濫費、国王の義務の放擲、そして時代ゆえにそれは許されなかった。ルートヴィヒは近代国家への歴史の車輪に轢き殺され、また、自らそれを選びもした。バイエルンはドイツ国王の王冠をプロシアに譲り渡した。ルートヴィヒは「バカ殿様」(いや失礼)ではあったが、ビスマルクが歴史に名を残したのとは全く別の方向で、その名を残したのである。
「ヴェニスに死す」〜マーラー/交響曲第5番よりアダージェット
「20世紀フォックスの社長は、なんとトーマス・マンを知っていたんですよ!」というヴィスコンティの科白にはヨーロッパ貴族のアメリカの映画会社に対する偏見が丸出しでなかなか面白いが、彼がその20世紀フォックスの出資で撮った「ヴェニスに死す」を、8回目までは覚えているが、その後何度見たかはすでに忘れた。ヴィスコンティがヨーロッパ中探しまわって見つけたスウェーデン人ビョルン・アンドレセンが、ポーランド人の美少年、タジオ役を演じているアレである。マーラーをモデルにしたといわれる主人公グスタフ・アッシェンバッハ(ダーク・ボガードの名演)が、海辺でタジオを見つつ霊感に搏たれて五線紙を引っ張り出す場面、タジオを見失い、情けなさに泣き出す場面。「ルートヴィヒ 神々の黄昏」でコージマ・ワーグナーを演じたシルヴァーナ・マンガーノの演じるタジオの母親は、ほとんど台詞なしで貴族らしい薫りをふりまき、シェーンベルクがモデルとおぼしきアッシェンバッハの憎たらしい弟子が彼に言い放つ「あなたの作品の根底にあるものは……凡庸だ (mediocrityという単語をこれで覚えた)」……など数々の場面とともに実に印象的なのが、マーラーの交響曲第5番第4楽章のアダージェットなのである。ヴィスコンティはこの映画の全篇にこれを流している。
そのほかに、タジオがホテルのロビーで弾くピアノに重ねてアッシェンバッハが回想する、同じ曲を弾いていた娼婦エスメラルダ(これはトーマス・マンの「ファウストゥス博士」に出て来る娼婦の名を取ったようだ)の場面。この曲は「エリーゼのために」。この娼婦、タジオと容貌が似ている。アッシェンバッハのタジオへの視線が情欲的なものを含んでいることを暗示する大事な場面だが、タジオ役のアンドレセンが本当に弾いているこれ、ちょっとお粗末ではある。タジオが登場する場面に「メリー・ウィドウ」、アッシェンバッハの娘が死ぬ場面に「亡き子を偲ぶ歌」、シェーンベルク(?)がピアノで弾いて彼を嘲弄するマーラー「交響曲第4番」なども使われているが、異国での官能のうねりをばっちりと支えているのはやはりマーラーのアダージェットだ。ヴィスコンティはカミュの「異邦人」はうまく映画化できなかった(と思う)。しかし「ヴェニスに死す」は成功した。それにはこの曲が一役買っている。ビデオでも出ているので興味のある方はどうぞ。最後に。この映画がやはり大好きな私の友達は、普段はロックしか聴かない。ある日私が彼女のところへ遊びに行くと、ステレオのそばにカラヤン/ベルリン・フィルのマーラーの5番が置いてある。あれ? 珍しいもの持ってんじゃない、ははあん、アレが聞きたくて買ったな、と頭出しして第4楽章をかけると、お茶を淹れてくれていた彼女がダイニングからすっ飛んできた。いわく、「それ、どこに入ってたっ!?」……いくら聞いていても、あの美しいメロディが出てこなかったそうである……。
(「ルートヴィヒ」および「ヴェニスに死す」の項は、バックナンバーより転載しました。)
ルキノ・ヴィスコンティ作品リスト■郵便配達は二度ベルを鳴らす(1942) OSSESSIONE
主演:クララ・カラマイ、マッシモ・ジロッティ
(原作:ジェームズ・ケイン)
■揺れる大地(1948) LA TERRA TREMA
■ベリッシマ(1951) BELLISSIMA
主演:アンナ・マニャーニ、ワルテル・キアーリ
■われら女性(1953) SIAMO DONNE
主演:アンナ・マニャーニ
■夏の嵐(1954) SENSO
主演:アリダ・ヴァリ、ファーリー・グレンジャー
■白夜(1957) LE NOTTI BLANCHE
主演:マリア・シェル、マルチェロ・マストロヤンニ、ジャン・マレエ
(原作:ドストエフスキー)
■若者のすべて(1960) ROCCO E I SUOI FRATELLI
主演:アラン・ドロン、アニー・ジラルド
■ボッカチオ'70 (1961) BOCCACCIO '70
主演:ロミー・シュナイダー、トーマス・ミリアン
■山猫(1963) IL GATTOPARDO
主演:バート・ランカスター、アラン・ドロン、クラウディア・カルディナーレ
■熊座の淡き星影(1965) VAGHE STELLE DELLE'ORSA
主演:クラウディア・カルディナーレ、ジャン・ソレル
■華やかな魔女たち(1966) LE STREGHE
主演:シルヴァーナ・マンガーノ、アニー・ジラルド
■異邦人(1967) LO STRANIERO
主演:マルチェロ・マストロヤンニ、アンナ・カリーナ
(原作:アルベール・カミュ)
■地獄に落ちた勇者ども(1969) LA CADUTA DEGLI DEI
主演:ダーク・ボガード、ヘルムート・バーガー
■ヴェニスに死す(1971) MORTE A VENEZIA
主演:ダーク・ボガード、シルヴァーナ・マンガーノ、ビョルン・アンドレセン
(原作:トーマス・マン)
■ルートヴィヒ 神々の黄昏(1972) LUDWIG
主演:ヘルムート・バーガー、ロミー・シュナイダー
■家族の肖像(1974) GRUPPO DI FAMIGLIA IN UN INTERNO
主演:バート・ランカスター、ヘルムート・バーガー、シルヴァーナ・マンガーノ
■イノセント(1976) L'INNOCENTE
主演:ジャンカルロ・ジャンニーニ、ラウラ・アントネッリ、ジェニファー・オニール
(原作:ガブリエーレ・ダヌンツィオ)