ズラウスキー「狂気の愛」〜バッハ/パルティータ第6番

 人を食った映画が好きな私は、アンジェイ・ズラウスキーの『狂気の愛』のような映画も好きである。これは、いっしょに観ていた人間は途中でピラフを炒めに台所へ行っちゃうし、貸した人間は「最後まで観れなかった」とのたもうた、というくらい、みょうちきりんな映画である。なにせ、登場人物には誰一人としてまともな人間がいない。まともな台詞がない。これが面白ければ、あなたもビョーキの仲間入りである。

 映画は、ミッキー・マウスやドナルド・ダックなんかの面を着けた連中が銀行強盗をするところから始まる。ドナルドの面の男が「クワックワッ」とわめくので、何事かと思うと「coin,coin!」、つまり「隅だ、隅!」と言っているのである。この冒頭で、既に楽しくなってしまう。だが、言っておきますが、間違っても楽しい映画じゃありませんからね。強盗の首領、主人公のミッケーは、ユダヤ人のギャングである。彼はマフィアのボスの情婦、マリーを愛しているが、このマリーを演じているのが『ラ・ブーム』でデビューした、ソフィー・マルソーである。あのぴちぴちのアイドル女優だったマルソーが、この映画では全く違う顔を見せる。やっぱりヨーロッパ映画、フランス人の女優だなあ。これがもしハリウッド・スターだったら、マルソーは今頃シャロン・ストーンみたいな役をやっていたかもしれない。

 さて、ミッケーは常に躁状態で、わめくわ料理が乗った机の上にひっくり返るはだし、マリーは虚言癖があり、部屋の中を縄跳びで走りまわるし、その二人に絡むハンガリーの公爵の息子、レオンはまるきり無気力のうえにどうも不能らしい。それに何しろ、誰もまともなことは話さない。全くシュールな台詞のやり取りと、狂ったような大騒ぎのうちに話は進んで行く。度々鳴るロックが、無秩序といらだちを表わしている。クラシック好きの人間によると、「あの、後ろで鳴ってる安っぽいエレキ・ギターは何だ?」てなことになる。

 これは不親切な映画だ。観ている人間がわかるように説明してくれることは一切ない。劇中劇である意味不明な舞台劇、レオンの最後の独白「この映画の最後で、このあと自分はどうも自殺するらしい」といった台詞(そのくせ線路の上に置いた椅子の上で呆然としているレオンのアップで映画は終わる)、解釈されることを拒んでいるみたいで、観ていて退屈するのも当たり前。だが、映画監督というものは、自分でもわけのわからん映画なんか作るものではない。で、無理矢理解釈すると、ハンガリー公爵の息子、レオンは支配者、ブルジョワジーなんかの象徴で、「やあ、白痴の公爵」と言われるように、無気力で不能である。ユダヤ人のギャング、ミッケーは迫害される側、抵抗者、あるいは無秩序の象徴である。すると二人に愛される、刑事の父親を恨んでいてヒステリックで虚言癖のあるマリーはなんだろうか? どう見ても19世紀末といった感じの、ヴェーデキントの戯曲(ベルクの『ルル』の原作)の映画化の「パンドラの箱」のルルのような髪型とファッションのマリー。世紀末的「ファム・ファタール」(運命の女、男にとっては要注意である)であることを示唆しているようでもあるし。あるいはこの際名前から聖母マリアかな? ミッケーは最後はレオンが訪れると、警察に追い詰められて共に白い布をまとったマリーと立てこもり、マリーを殺して自分は蜂の巣になって死ぬ。レオンは最後まで何も、しない。

 とまあ、奇怪な映画なのだが、流れているのはいつもそのロック。ただ一ヶ所だけ、マリーの父親がピアノを弾く場面がある。まるで淫売宿に置いてありそうなこもった音のピアノで、バッハのパルティータ第6番を弾くのである。ほんの一節だけであるが、非常に宗教的に響く。……そうか、やはりミッケーはキリストだったのだ!……多分。(96/03/23)


ケン・ラッセル「チャイコフスキー」〜交響曲第6番「悲愴」他

 音楽家がテーマの映画はたくさんある。ケン・ラッセルは特に作曲家を主人公にするのがお好きなようだ。最も有名なのはおそらく『マーラー』だろう。『ヴェニスに死す』では、本来作家であるグスタフ・アッシェンバッハを、ヴィスコンティはマーラーをモデルに作曲家にしたが、ケン・ラッセルはこのヴィスコンティの名作の海岸の場面を盛り込んでいる。ヴィスコンティへのオマージュというより、人を食った映画を作るラッセルのお遊びだろう。ボンデージ・ファッションのサディスティックなアルマ。神経を病むマーラー。音楽はもちろん、マーラーだ。また、同じラッセルの『リスト・マニア』は、フランツ・リストが主人公。同時代の貴婦人がその演奏を聞いて失神し、彼の喫った煙草の吸殻を争って求めたというリストを、現代の人気ロック歌手に置き換えた映画である。いささか色情狂的なマリー・ダグー。リストの音楽はロック調にアレンジされて鳴っている。この映画はちとおふざけが過ぎて、見終った後疲労感を覚えるが、もしリストの生涯を真面目に映画にしたら、かなり嫌味なものになるかもしれない。

 ケン・ラッセルの作曲家映画の中でお薦めは、『チャイコフスキー』である。だが、これは既にビデオが絶版になっていて、私が観たのも随分前である。映画は、観た時の心理状態や誰と観たかによってもかなり受ける印象が違うものだが、この映画を観たときはサイテーの心理状態だったので、かなり心に来るものがあった。「いやー、クラシックって、ほんとーにいいもんですねー」と馬鹿な映画解説者状態だった。タイトル・ロールはリチャード・チェンバレンだったと思う。彼は新作のピアノ協奏曲第1番を自演するが評価は散々。あんなに美しい曲なのに! と現代の我々は思っても、当時の人間はそうではなかった。いつでも新しいものは一度はぶったたかれる。自分がよく知っているもの、予測のつくものが好きな人が多いのは、『水戸黄門』が根強く人気があるのでもわかるじゃありませんか。それで落ち込んで、自殺しようと川に入れば、膝までの深さしかない。間抜けだが、本人は深刻である。そこに届いたのが、後に妻になるサーシャの手紙である。彼女は、まあ、いわば、ロマンチストである。作曲家でありピアニストであるチャイコフスキーの妻になりたくて、手紙で彼に近付いたわけだ。チャイコフスキーはパトロンヌであるフォン・メック夫人とも手紙のやり取りだけで遂に一度も会わなかったというくらいで、これまたロマンチストなので、彼の音楽に感動したという彼女の手紙にすっかり嬉しくなって、結婚することになるが、この夫妻は全然上手く行かない。妻のロマンチシズムは要するに自己顕示欲とナルシシズムのごった煮なので、チャイコフスキーは結婚早々に神経を参らせてしまい、彼女から逃げ出し、家に寄り付かなくなってしまう。それでもちゃんと死ぬまで離婚せずに送金しつづけ、妻は欲求不満から遂に娼婦まがいのことを始める。この妻の狂っていく過程にはかなり鬼気迫るものがある。

 映画では、コレラで死んだ母のことがチャイコフスキーの脳裏に常にある。ここ数年すっかり有名になったチャイコフスキー同性愛者説の布石で、つまり、彼はいくらかマザコンぎみだったということになっている。妻と違って自分に理解と愛情と金を与えてくれていたフォン・メック夫人も、彼に迫ってはねつけられた若い音楽家(男)の密告によって、彼への送金を止めて去って行く。いいじゃないのさ、同性愛だって。フォン・メック夫人も狭量だ。というより、結局彼女も妻と同じく、彼の「作品」を本当に評価し、愛していたわけではなかったということだろう。この辺りからチャイコフスキーは作曲家として名を成し、「悲愴」を自分で振ったりしている。だが、自分の生涯は悲愴そのものだったと追憶しつつ。ここで鳴る「悲愴」は感動的である。そして、彼もまた母と同じ病気で死ぬ。一方、妻は、遂に精神病院に入れられる。この時代の精神病院に入れられたら普通の人でも狂ってしまいそうだ。チャイコフスキーの死の場面にオーバー・ラップする、狂った妻と患者たちの場面のラストは壮絶である。

 作曲家にしろ作家にしろ、私に関心があるのは作品であって、その本人ではないから、書いた人間がスカトロジー大好きだろうと同性愛だろうと梅毒だろうとどうでもいいことである。だから作曲家映画もさほど好きではない。だが、ケン・ラッセルの映画には芸がある。ただし、どれもあくどいから、好き嫌いは分かれるだろう。 (96/03/11)


「ラスト・アクション・ヒーロー」〜モーツァルト/交響曲第40番他

 実は私はアーノルド・シュワルツェネッガーが好きである。ヴィスコンティ、カヴァーニと来て、なんでシュワルツェネッガーかと言われても困るが、好きなんである。同じムキムキでも、スタローンは息子型の男を演じることが多いが、シュワルツェネッガーは父親型の男を演じることが多い。それは『ターミネーター2』や『コマンドー』に端的に現れている。俳優は肉体的宿命によって生き、作家は内面的宿命によって生きている、よって、俳優と作家は対照的であると書いたのは三島だが、シュワルツェネッガーがその「肉体的宿命」(それが実は人工的なものであるのはシュワちゃんも、後の三島も同じなのだが)とのアンバランスをネタにコメディーにした『キンダーガードン・コップ』や『ツインズ』、タイトルは忘れたが彼が妊娠する映画、を演じても、私はあんまり面白くない。やはり彼は暴れまわったりマシンガンぶっぱなしたりしてナンボのキャラなのだ。シュワルツェネッガー主演の映画は近所のビデオ屋にあるのはほとんど見たが、本当に面白かったのは『ターミネーター1』、同じく『2』、それにP・K・ディック原作の『トータル・リコール』の3本だった。

 ところで、シュワルツェネッガーとクラシックでは、コーヒーと羊羹ほど合わない。当然、彼の大抵の主演映画ではロック、あるいはロックもどき、といった感じの音楽が流れている。有名なのは『ターミネーター2』の音楽で、民放のオウム報道のバックでも年中流れていた。……だが、待てよ。ひとつだけ、ある。『ラスト・アクション・ヒーロー』である。この映画はコメディーで、映画好きなら楽しめるだろう。ただし、クラシックが流れるのは2ヶ所だけである。

 主人公の少年、ダニーは、学校をサボっても映画館に入り浸るほどの映画好きである。彼は特に、『ダーティー・ハリー』を明るくしたようなアクション映画、『ジャック・スレイター』のシリーズがお気に入りで、新作を仲良しの映画館主が特別に深夜に封切りの前に見せてくれると言うので、喜んで出かける。ところが、ひょんなことから彼は映画の中に飛び込んでしまうのだ。映画中映画はシリーズ4作目の『ジャック・スレイター4』。タイトル・ロールを演じているのは、もちろんシュワルツェネッガーだが、映画の中には、スレイターを演じているシュワルツェネッガー自身が登場する。つまり、『ラスト・アメリカン・ヒーロー』のなかで、『ジャック・スレイター4』を演じているシュワルツェネッガーを、シュワルツェネッガー自身が演じているわけで、その演じられたシュワルツェネッガーと、シュワルツェネッガー自身が演じるスレイターとが、スレイターが映画中映画の中から出てきてしまったために、現実の世界(つまり映画の世界)で出会ったりする。ああ、ややこしい。わざとややこしく書いてるんだけど。この辺りのめまいの感覚が面白い。スレイターには、自分が「シュワルツェネッガーに演じられた、架空の人物」であるという認識がないから、ダニーの母に「こんばんは、アーノルド・ブラウンシュワイガーです」と自己紹介したりする。そして、不思議なことにシュワルツェネッガーの映画を見慣れている観客の目には、彼によって演じられたシュワルツェネッガー自身よりも、彼によって演じられたスレイターの方が、よりシュワルツェネッガーらしいような感じを与えるのだ。彼の素顔を知っているアメリカ人観客はそうは思わないかもしれないけど。

 さて、問題の箇所の1番目は、映画中映画の世界にダニーが入ってしまったときのことだ。M.エイブラハムが登場する。ダニーは、彼を見るなり叫ぶ。「あっ、モーツァルトを殺した人だ!」……そう、彼は、『アマデウス』でサリエリを演じた俳優である。彼はダニーが「カーネギー・ホールへ行くには?(字幕には「一流の演奏家への近道は?」と出る)」と訊ねると「プラクティス」と応える。今回も悪役で、プラクティスという名前だ。ここで、モーツァルトの40番がミョーにずっこけたアレンジでちらりと流れる。その後、スレイターが現実の世界に現れてダニーの母と楽しげに話していると(ダニーは「ジャックをただのオジンにしたな!」と母に怒る。『午後の曳航』の主人公の素質がある)、ロックしか聞かない彼は、ラジオから流れている音楽にふと気を取られる。「これはなに?」……「モーツァルトよ」とダニーの母。スレイターはダニーに、「プラクティスが殺した奴か?」と訊ねる。この映画で唯一のちょっとロマンチックなその場面に流れるのが、「フィガロの結婚」である。

 この映画は、映画のご都合主義を暴いたり、ほかの映画のパロディーを盛り込んだりしていて、なかなか凝っている。なぜダニーが映画の世界に飛び込むことになり、また、スレイターが彼を演じる俳優と出会うことになるか、などなどは自分の目で確かめてみてください。最後に、シュワルツェネッガーには年取ったら、ヴィスコンティの『山猫』や『家族の肖像』に出演したバート・ランカスターみたいになって欲しい。老いたシュワルツェネッガーにも、多分、威厳ある老貴族や老教授の悲哀が似合うだろう。ただのジジイになってもらっちゃ、ダニー同様、怒るぞ。例えば、間違っても『マディソン郡の橋』で老いらくの恋を演じたりして欲しくないもんだ(独断と偏見でした)。 (96/03/01)


「ルートヴィヒ 神々の黄昏」〜ワーグナー/「ジークフリート牧歌」他

 こうなったらやはり「ルートヴィヒ 神々の黄昏」、参りましょう。で、ワーグナー好き必見の、またルキノ・ヴィスコンティ作品である。これはバイエルン公国最後の王、ルートヴィヒ二世の伝記映画ともいえるものだから、当然主役はルートヴィヒで、ワーグナーもルートヴィヒ側、ないしはバイエルン公国側から描かれている。ワーグナーの音楽は特に好きではないし、彼自身がどういう人物だったのかもよく知らない、という人が観たら、ワーグナーという人間が嫌いになること請け合いの映画である。しかしルートヴィヒは主に「リヒャルト・ワーグナーの最大のパトロン」として名を残し、ワーグナーはあまたの作品がいまでも世界中で演奏され、愛されている。この映画を観ると思うのは「人生は短く、芸術は永し」色即是空、空即是色、合掌、である。

 映画は18歳でルートヴィヒが即位してから、41歳で湖で謎の変死を遂げるまでの生涯を描いている。ルートヴィヒは「地獄に堕ちた勇者ども」で強烈な印象を残したヴィスコンティ最後の恋人、ヘルムート・バーガーの一世一代の名演で、これで真っ白に燃え尽きたかと思ったら「家族の肖像」にも出ている。金髪を黒髪に染め、あのウランちゃんかサリーちゃんのパパみたいな髪型にして、実にルートヴィヒに似ている。ワーグナー夫妻は、コージマは前に書いたとおりS・マンガーノ。般若面がよく似ている。しかし、それ以上にどーしちゃったんだと思うほどそっくりなのが、御大リヒャルト役のトレヴァー・ハワードである。これは一見の価値がある。ルートヴィヒの従姉でオーストリア皇帝妃のエリーザベトにはロミー・シュナイダー、ルートヴィヒの愛人で馬丁のホルニヒには「イノセント」のマルク・ポレル。その他の配役も、同じ俳優を好んで使いたがった監督ゆえ、「あ、あの人「ヴェニスに死す」にも出てたノーラ・リッチだ、あの人は「地獄に落ちた勇者ども」のヘルムート・グリームだ」と指差し確認したくなるほどヴィスコンティ・ファミリーで占められている。

 余談だが(余談しかしてないか)この映画、台詞は英語をイタリア語に吹き替えていて、ルートヴィヒは「イノセント」のジャンカルロ・ジャンニーニなのだが、やっぱりドイツ語が良かったんじゃなかろうか。

 この映画のクラシックは、当然、これもワーグナー、あれもワーグナー、みんな ワーグナー、きっと、よくわかんないぶんもワーグナー、だ、と思うのだが、実は即位したてのルートヴィヒがエリーザベトと散策しつつ会話する場面にはシューマンの「子供の情景」から「異国より」が使われていたりして、油断ならない。コージマが誕生日にワーグナーの子ジークフリートを抱いて、階段にずらりと並んだ楽団員の「ジークフリート牧歌」を聴く場面。ワーグナーからの誕生日プレゼントがこの新曲だったというわけで、かなり羨ましい話である。コージマはご承知の通りフランツ・リストの娘だが、父の美貌も才能も受け継がなかったが長命は受け継ぎ、ワーグナーの死後も長くバイロイト音楽祭を牛耳った。相当すごい女だったと思われる。お近づきになりたくないタイプである。ルートヴィヒが婚約者・エリーザベトの妹ゾフィーの「ローエングリン」の「エルザの夢」をピアノで弾きつつ歌うのを、うんざりし果てた顔で聞く場面(聴くに堪えぬヘタクソ)。16歳のルートヴィヒが宮廷劇場で観て感激したのがこの歌劇だったから、いささか彼に同情したくもある。

 さてルートヴィヒは、彼を「血迷った坊や、狂った家系の最後の王」と評しつつ、コージマと組んで莫大な金を彼から引き出した「横領者」ワーグナーとも国家評議会に迫られて手を切り、ゾフィーとの婚約破棄は司祭に止められたのでそのまま結婚を延期し(この時期に金髪碧眼の美形の馬丁、ホルニヒに出会ったせいもある)、弟オットーは発狂し、ますます自室に引きこもり人に会わなくなる。その間趣味に走りすぎて建築様式を無視したリンダーホフ、ノイシュヴァンシュタイン、ヘレンキームゼーの3つの城を造ることに情熱を傾け、男色の道へ溺れていく。気に入った俳優を指輪や懐中時計で釣ってあちこち引きずり回し、男の従者と乱痴気騒ぎをする場面などはほとんどコミカルだ。正直言って、金と暇があれば、ちょっとこうした生活がしてみたいと思わんでもないひとは大勢いるだろう……同性愛はさておき……と思う。

 実際、ルートヴィヒがもし国王ではなく地方貴族程度の身分なら、こういったことをもう少し小規模にやっていればそれほど騒ぎにはならなかっただろう。似たようなことをしていて芸術家の擁護者としてサロンに名を馳せた貴婦人も大勢いる。だが度を越した濫費、国王の義務の放擲、そして時代ゆえにそれは許されなかった。ルートヴィヒは近代国家への歴史の車輪に轢き殺され、また、自らそれを選びもした。バイエルンはドイツ国王の王冠をプロシアに譲り渡した。ルートヴィヒは「バカ殿様」(いや失礼)ではあったが、ビスマルクが歴史に名を残したのとは全く別の方向で、その名を残したのである。 (96/02/07)


「愛の嵐」〜モーツァルト/「魔笛」他

 さてお次は同じイタリアのリリアーナ・カヴァーニ監督の「愛の嵐」である(もう趣味丸出し)。これは原題は"The Night Porter"であるから、邦題も「夜警」にするとかして欲しかった。これでは昼の連ドラみたいだ。うちの近くのビデオ屋は、この映画を「カルト」に分類していて、隣にディバインの「ピンク・フラミンゴ」が並んでいたりする。「愛の嵐」はカルト・ムービーだったのだ(嘘だろ)。

 この映画ではクラシックは2ヶ所に使われているだけであるが、どちらも強く印象に残る。主人公のナチスの残党(あの制服は親衛隊ではなく突撃隊だ)のマックスことマクシミリアン・アドルファー(またダーク・ボガードの名演)はウィーンのホテルの夜警をしている。そのホテルに昔収容所にいたユダヤ人の美少女エリカ、本名はルチア(シャーロット・ランプリング)が夫とともに宿泊する。ルチアは今では過去は忘れたつもりで、指揮者の夫がいる(ホテルの前に貼ってあるポスターにVolksoperとあるから、彼はシュターツオーパーではなく、フォルクスオーパーの指揮者だろう)。マックスは、歌劇場に赴く。夫の真後ろに座っているルチアは後方の座席のマックスに気付き、不安に何度も振り返る。この時、舞台では「魔笛」を上演している。鳥刺しパパゲーノが陽気に舞台に現れる。舞台の下では、マックスとルチアの視線の攻防が繰り広げられている。舞台の上と下で行われていることのあまりの食い違いが面白い。

 もう一ヶ所は、幾つか織り込まれた回想場面の中のひとつで、同じくナチスの残党で、マックスのホテルに住んでいるらしいベルト(アメディオ・アモディオ)が、収容所で踊るバレエの場面である。アメディオ・アモディオという人はほんとにバレリーノで、バレエ映画「赤い靴」にも出ている。この時の音楽はグルックの「オルフェオとエウリディーチェ」。かなり長い場面で、おそらくエウリディーチェの死を弔う最初のバレエだと思うが、実はこのオペラを聴いたことがないからわからないのだった。ベルトは同性愛者で、マックスに惚れているようだが、結局最後は……どうなるかは観てのお楽しみにしておこう。

 しかし、この映画では、実はクラシックではない2つの音楽の方がもっと印象的なのである。ひとつはオーボエのソロとピアノ伴奏のテーマ・ミュージックで、オーボエの哀愁を含んだ音色が、全体に色調を抑えた画面に実に合っている。これがフルートとか、ましてやトランペットでは台無しだ。もう一ヶ所は、この映画の中で最も有名な場面、ルチアがナチスの制帽をかぶり、裸の上半身にサスペンダーとズボンだけを身に着けて歌うマレーネ・ディートリッヒの「何が望みかと訊かれたら」である。

 ランプリングという女優は、イギリスのハード・ボイルド作家のH・チェイス原作のフィルム・ノアール「蘭の肉体」や同じくハード・ボイルドのチャンドラーの「さらば、愛しき女よ」などに、硬質な悪女の役で出ているが、痩せぎすな容姿に少女っぽさと知的な大人の女の両極端な要素を持っていて、非常に低くハスキーな声が老婆のようでもあり、色気もある。ヴィスコンティが「悲劇的な目」と言ったまなざしも魅力的だ。

 死とエロティシズムは分かち難く結びついていると言ったのはバタイユだが、実に官能的な映画である。 (96/01/28)


「ヴェニスに死す」〜マーラー/交響曲第5番よりアダージェット

 今回はヴィスコンティのことを少し。「オペラに乗っ取られた作家たち」に「スペードの女王」を書いてくれ、という家主の催促は取り敢えず保留。

 さて、クラシック音楽好きであればヴィスコンティといえば横浜マリノス、という人はいない……と思う。ルキノ・ヴィスコンティである。すでに亡くなって20年近く経つイタリアの映画監督である。「20世紀フォックスの社長は、なんとトーマス・マンを知っていたんですよ!」というヴィスコンティの科白にはヨーロッパ貴族のアメリカの映画会社に対する偏見が丸出しでなかなか面白いが、彼がその20世紀フォックスの出資で撮った「ヴェニスに死す」を、8回目までは覚えているが、その後何度見たかはすでに忘れた。ヴィスコンティがヨーロッパ中探しまわって見つけたスウェーデン人ビョルン・アンドレセンが、ポーランド人の美少年、タジオ役を演じているアレである。

 マーラーをモデルにしたといわれる主人公グスタフ・アッシェンバッハ(ダーク・ボガードの名演)が、海辺でタジオを見つつ霊感に搏たれて五線紙を引っ張り出す場面、タジオを見失い、情けなさに泣き出す場面。「ルートヴィヒ 神々の黄昏」でコージマ・ワーグナーを演じたシルヴァーナ・マンガーノの演じるタジオの母親は、ほとんど台詞なしで貴族らしい薫りをふりまき、シェーンベルクがモデルとおぼしきアッシェンバッハの憎たらしい弟子が彼に言い放つ「あなたの作品の根底にあるものは……凡庸だ (mediocrityという単語をこれで覚えた)」……など数々の場面とともに実に印象的なのが、マーラーの交響曲第5番第4楽章のアダージェットなのである。ヴィスコンティはこの映画の全篇にこれを流している。
 そのほかに、タジオがホテルのロビーで弾くピアノに重ねてアッシェンバッハが回想する、同じ曲を弾いていた娼婦エスメラルダ(これはトーマス・マンの「ファウストゥス博士」に出て来る娼婦の名を取ったようだ)の場面。この曲は「エリーゼのために」。この娼婦、タジオと容貌が似ている。アッシェンバッハのタジオへの視線が情欲的なものを含んでいることを暗示する大事な場面だが、タジオ役のアンドレセンが本当に弾いているこれ、ちょっとお粗末ではある。タジオが登場する場面に「メリー・ウィドウ」、アッシェンバッハの娘が死ぬ場面に「亡き子を偲ぶ歌」、シェーンベルク(?)がピアノで弾いて彼を嘲弄するマーラー「交響曲第4番」なども使われているが、異国での官能のうねりをばっちりと支えているのはやはりマーラーのアダージェットだ。ヴィスコンティはカミュの「異邦人」はうまく映画化できなかった(と思う)。しかし「ヴェニスに死す」は成功した。それにはこの曲が一役買っている。ビデオでも出ているので興味のある方はどうぞ。

 最後に。この映画がやはり大好きな私の友達は、普段はロックしか聴かない。ある日私が彼女のところへ遊びに行くと、ステレオのそばにカラヤン/ベルリン・フィルのマーラーの5番が置いてある。あれ? 珍しいもの持ってんじゃない、ははあん、アレが聞きたくて買ったな、と頭出しして第4楽章をかけると、お茶を淹れてくれていた彼女がダイニングからすっ飛んできた。いわく、「それ、どこに入ってたっ!?」……いくら聞いていても、あの美しいメロディが出てこなかったそうである……。 (96/01/23)