ペーター・シャモニ『哀愁のトロイメライ』〜シューマン/交響曲第1番「春」
BSを消音してつけっぱなしにしていたら(騒音が苦手なのでよくテレビを音を消してつけている)、『哀愁のトロイメライ』('83 東独・西独/ペーター・シャモニ監督)という深夜映画を始めた。おやまあ、ギドン・クレーメルが長髪でヴァイオリンを弾いている。どうやらパガニーニ役を演じているらしい。面白そうかな、と音量を上げた。そのうちシューマン(ヘルベルト・グリューネマイヤー)とクララ(少女役)が出て来たので、ははーん、「芸術家映画」ってのかな、それにしてもこの邦題はないだろう、などと思いつつぼけーと観ていた。もちろんパピヨン、交響的練習曲、ソナタ、ピアノ協奏曲、交響曲第1番「春」、トロイメライほか、シューマンの音楽はかなり使われていた。クレジットにはディートリヒ・フィッシャー=ディスカウ、ヴィルヘルム・ケンプ、イーヴォ・ポゴレリッチの名が。
シューマンのピアノ曲は好きなので、こりゃMusiCinemaのネタになるかも、とか貧乏根性を出しはじめたのだが、どうも観ているとシューマンの描写も出て来るが、彼が主役というよりクララ(成人役:ナスターシャ・キンスキー)側の物語だ。クララの父「ヴィーク先生」がいかにクララを慈しみ、ピアニストとして育てることに情熱を傾けているかを丁寧に描いている。シューマンと駆け落ち同然に家出したクララに、父のヴィークは、自分といれば世界的なピアニストになれる、また一緒にやり直そう、彼は自分の無名をおまえの才能で隠そうとしているだけだ、とまで言う。断固として二人の結婚に賛成しないクララの父相手に法廷で争い、ようやく二人は結婚し、クララの父はライプツィヒを去ってしまう。
シューマンの交響曲が書きあがり、演奏会となる。さあ、これから、色々起こるぞ、ブラームスは出て来るのかな? と楽しみにしていたら、いきなりクレジット。なんだなんだ、ここで終わりか? それはないんじゃないの……と思っていたら、クララは心の中で、ある夫の言葉を反芻している。要するにこれ、クララを挟んでのシューマンとクララの父の確執の物語なのだった。ありきたりの芸術家映画とはちょっと違う。
娘というものは、これ程の愛情と手間(!)をかけて育てた父親も裏切って、愛する男を選ぶものであるが、一方で父の愛情を犠牲にしたことも手痛く感じていて、夫の失言を一生忘れないだろう、ということか。そしてクララの名がクララ・「シューマン」として残っていることなんぞ考えると、シューマンを主役にした芸術家映画よりむしろ面白い切り口だったかもしれない。なかなか辛口の映画である。(99/01/25)
ルイス・ブニュエル『欲望のあいまいな対象』〜ワーグナー/トリスタンとイゾルデ
ヴィスコンティ、ブニュエル、ルコント(個人的年代順)がわが心の映画監督であると前に書いたが、おお、ベネックスを忘れていたではないか。で、今回はルイス・ブニュエルである(ずりっ)。ほんとのところ、ブニュエルが最も私にはぴたりと来る監督だ。幻想と毒、美に不可欠な二つの要素がふんだんに盛り込まれたブニュエルの映画はどれを観ても失望させないが、幻想味の強いシリアスな『昼顔』『悲しみのトリスターナ』(いずれもカトリーヌ・ドヌーヴの美の絶頂期である)も傑作だし、シュールで毒の強い『自由の幻想』『ブルジョワジーの密かな愉しみ』もいいし、靴フェチであまりに有名な『小間使いの日記』も捨て難いし、『赤いブーツの女』も好きだし、『銀河』をみのがしたのは痛恨だし、『アンダルシアの犬』を観ていないのはどうにも死んだ方がいいような気もするし。おすましのヴィスコンティと違って、ブニュエルには笑いがある。それもやはり毒のある笑い。
というわけで、ルイス・ブニュエル監督『欲望のあいまいな対象』。ブニュエルの遺作だが、『昼顔』や『ブルジョワジー』があまりに有名なのでちょっとマイナー気味か? 原作が『ビリティスの歌』のピエール・ルイス『女と人形』。もちろん“人形”とは男である。15歳の美少女コンチータ(あるいはコンチャ)ことコンセプシオンに散々振り回されても懲りない男マテオの物語だ。原作にはいくらかファム・ファタール小説的な趣もあるが、ブニュエルはこれにブニュエルらしい味付けをあちこちに施した。幻想あり、毒のある笑いたっぷりあり、で、大好きな映画である。主演はマチュー(映画ではフランス人なのでMatteoはMathieuとなる)に、ブニュエル映画の主役常連のフェルナンド・レイ。インテリで厳格、しかつめらしい表情の金持ちの男が似合う彼は、一方で好色、情けなさ、弱さ、滑稽さも持ち、サディスティックな男にも可愛い男にもなれ、若くはないが、ブニュエルが気に入っているだけあって変幻自在である。役になりきるタイプではなく、なんの役をやっていてもフェルナンド・レイ、というタイプだと思うが、素材が既に多色だからいい。コンチータには……ここがミソなのだが、私がこの映画を観た時、コンチータの印象が全然一定しなかった。で、映画の半ばでやっと気づいたと話して友達にエラく笑われ、しかしとうとう気づかなかった人もいた。というわけで、誰がコンチータを演じているかは伏せておく。知らずに観た方がいいだろう。このキャスティングの仕掛けもブニュエルらしく、マチューの「欲望」の「対象」は、実に「あいまい」なのである。
布の上で男の人形を弄ぶ女たちのゴヤの絵にクレジットが流れて、物語は始まる。初老の弁護士のマチューは、パリ行きの汽車に乗り込もうとした少女に水をかける。それを不審に思った同じコンパートメントに乗り合わせた乗客達に、彼は語りはじめる……マチューは18歳の小間使いコンチータを一目で気に入り、なんとか手に入れようとする。貧しいコンチータの母親に「娘さんを愛している」と言って金を握らせかきくどくが、その話の最中にばたん!と音がして、ねずみ取りにかかった鼠が潰れてみたり、結局コンチータに逃げられて検事の友達に「それでも愛している」と話している最中にグラスに蝿が落っこちて死んでみたり。金だけはつぎ込んで、しかし一向にコンチータは思いどおりにならない。マチューが躍起になればなるほど、するするとかわして行く。だからといって、この映画が若い女に入れあげて騙され貢がされた間抜けな男の話だと思ってはいけない(まあ、そういう面もないことはないが)。コンチータの強烈な一発でとうとうマチューの忍耐も限界となり……で、コンチータは、彼を愛しているのだろうか? ……こうした物語の間に、盛んにテロが起こる。また、道行く男たちは膨らんだずた袋をかついで歩いている。マチュー自身もテロに遭いかけるし、ずた袋をかついで歩いたり、置いていったりしている。鼠、蝿、テロ、ずた袋、あちこちにばらまかれた、あからさまで少しも美しくないメタファーの数々が笑える。ちょっと親切過ぎ、説明的過ぎるのだが……映画のメタファーは、もっと不親切でいい。
マチューは、いわく「この世で最低の悪魔」コンチータとのことをこうして回想して話すのだが、それは実はまだ終わっていない物語である。最後、戻って来たパリでもテロは盛んに続いている。彼の覗くショーウィンドウでは、純白のランジェリーをディスプレイしているが……そこでラストに鳴るのが『トリスタンとイゾルデ』である。(98/07/27)
リュック・ベッソン『ニキータ』〜モーツァルト/アイネ・クライネ・ナハトムジーク
今回はリュック・ベッソン監督『ニキータ』(1990仏/伊)。ベッソンの出世作であり、これがなければ『レオン』もなかったであろう。個人的にはこちらの方がはるかに出来が良いと思う。『レオン』の妙に詩的な湿った感じやセンチメンタリズムがないし、まあ多少センチメンタルではあるが、恥ずかしいからやめてくれというほどではない。実は『レオン』がさほど好みではなかったので、こちらも観るつもりはなかったのについ観たのは、ジャン=ユーグ・オーグラード見たさで、結局映画自体も結構いいんではないかいと思ったのだった。
ニキータ(アンヌ・パリロー)はおいといて(もしもし〜??)、ジャンヌ・モローがアマンドという、なんだろ、「特殊工作班女性工作員養成役」(なんだそりゃ)で出演しているのだが、やっぱりええなあ、と感嘆したのだった。なんでしょうね、この雰囲気。さすがに『突然炎のごとく』、『悪女イブ』……ほかにもいろいろあるが、なんともいえない魅力である。で、マルコ(ジャン=ユーグ・オーグラード)である。「地味だがいぶし銀のようだ」とこの映画中で自画自賛する場面があるが、まさにその通りで、レオン・カーフェイ熱が冷めたら今度はジャン=ユーグ・オーグラードかよと言われそうだが、もう美形にも飽きたので、何度見てもどこにも特徴のなさそうな顔の彼がいいんである。このヒトは危険な男は似合わないが、このヒトに危険な女が似合うんである。『ベティ・ブルー』のゾルグしかり、このマルコしかり。『王妃マルゴ』で彼に再会した時は劇的だったが、これはそのうちに。
さて、映画の中身だが、ニキータはなんすか、まあ、不良娘ですか。ヤク中で、警官殺しちゃうんですね。終身刑の判決を受けるが、刑務所で死んだことになって特殊工作員として色々叩き込まれるわけである。コンピュータの使い方、格闘技、で、空手(かな?)を教わっている時に彼女が踊り出すのだが、そこでかかるのがアイネ・クライネ・ナハトムジークである。なかなかポップなシーンだ。最後に、アマンダに「女の美と魅力を濫用する」方法を教わって、十九から二十三までをこの養成所で過ごす。で、看護婦ということにしてほんとはそういうおシゴトをしているわけ。そこで出会うのがマルコなのだが、どうしてこう、何も言わないのに全て分かっていて、救いになるような男がジャン=ユーグ・オーグラードはうまいかね。ところで、この映画にも『レオン』の主役だったジャン・レノが出ている。掃除屋ヴィクトル役だが、にこりともしないこの役、レオンよりもずっと良かった、などといったら余りにも『レオン』に申し訳ないだろうか。なんだかターミネーターじゃないが殺人機械のようにすら見えるのだが、そこはやはりフランス映画だから、シュワルツェネッガーとは違って陰影が。出番は少ないが、物語のスパイスとなる存在だ。タイトル・ロールのリュック・ベッソン夫人であるアンヌ・パリローは、この役のためにほんとにかなり鍛錬したらしく、アクションシーンも迫力がある。まるで荒んだ野性の猫みたいな女で魅力的なキャラクターだが、どうも顔が好みではなくて……すみません。ニキータを育てるボブとの関係、彼女をはさんでのマルコとの妙な三角関係も結構そそるエピソード。あまりこのあたりも突っ込みすぎない、辛口なところがこの映画の良さだ。ラストも潔く、余韻を残していていい。
(98/05/17)
リュック・ベッソン『レオン』〜ベートーヴェン
今回はリュック・ベッソン監督『レオン』(1995年仏)を。CMでもよく見るジャン・レノ演じる殺し屋レオンと、ナタリー・ポートマン演じるマチルダの「狂暴な純愛」(キャッチ)である。かなりメジャーな映画だから、ご覧になった方も多いのでは。で、殺し屋と12歳の少女の純愛だが、本質的にはシュワちゃんに妊娠させるのと同じなんじゃない? 組み合わせの突飛さだけじゃだめなのよ、ベッソンちゃん、と思ったのであった。大人の男(というか青年)と少女の恋愛というと『シベールの日曜日』にトドメを刺す。どれを観てもこの映画には及ばないと思う。『蜜蜂のささやき』の主役を演じたアナ・トレントが、ミニ魔性の女をやっていた『エル・ニド』も、この『レオン』も。犯されざるべき存在である少女を愛するという禁忌をおかすために、天罰が下るあたりも一様だが、『シベールの日曜日』にはそこに神話的なイメージが入ってくる。ああいうの文芸映画とかレッテルされちゃうのかな。そうそう、『ロスト・チルドレン』の大男の大道芸人ワンとマルグリット(だっけか?)の、恋愛とまでは言えないの(心の触れ合いなんて恥ずかしくてあなた)は好きだが、この映画ではエピソードのひとつだから良かったのかも。というわけで、『シベールの日曜日』、ぜひご覧ください。『ロスト・チルドレン』もお薦めですよ。
それはさておき、『レオン』だったっけ(をい)。レオンは勤勉な殺し屋だ。日々鍛錬を欠かさず、殺しの方法論をちゃんと確立している。「殺し屋学校」があればいい教師になれそうだ。きちんと植物の世話をし、カネは知り合いのオヤジに預けている。このオヤジには実は半分ダマされているフシがあり、彼はカネのことにも小悪党のことにも疎かったりする。つまり、レオンは殺し屋であるがために、なかなか退屈な男なわけだが、彼はこの「お仕事」のプロであり、こういう仕事だからこそ、こうでなければ生き延びられないという因果、仕事が極限状態だから日常はああなるというのも説得力があるかも(この辺りの描写が実に細かいのは、ベッソンの趣味ですかね。非日常的な人物を日常を描き込むことによって実在感を出すということかな)。まあ、ストイックな殺し屋とでも言いますか。これに対比して登場するのがレオンよりもずっと頭が回りそうな大人の女のような陰影たっぷりの顔の美少女と、殺し屋よりもよほど悪者くさい刑事である。で、この映画で実は一番面白かったのがゲイリー・オールドマン演じるこの刑事スタンスフィールドだ。
あらゆる組み合わせがきれいさっぱり二元論のこの映画では、潔癖なレオンに対して刑事のこいつ、ホント気持ち悪いヤツである。ゲイリー・オールドマンは『蜘蛛女』でも欲望に弱い小悪党で女に駄目にされる男の役が本気でむず痒くなるほどうまかったが、この役もイっちゃってていい。残酷で嗜虐的で、身振り手振りが落ち着かず、なんかの中毒者っぽく病気で、爆発的に怒りだし、そのくせ結構抜け目がなく、大音でウォークマンを聞いている。その、かけている音楽が必ずクラシックで、しかもベートーヴェンという直球(編注:曲は鳴らないが台詞から類推するに「フィデリオ」序曲がお気に入りの模様)。その上講釈垂れまくり。キてます。というか、キますね。ほらほら、クラシックが好きでキレ加減で講釈タレまくる……いそうでしょ? やっぱりクラシックだからこそ、この男の病気さ、ばっちり表現できてるような。ロックでキレててもフツーっぽいじゃないすか。でも、ここまで変でクラシック中毒してるというのが妙にぴたりとはまっていて、オーソドックスと狂気が紙一重、ってことでなかなか味があるのでは。
『レオン』『蜘蛛女』、この2本だけ観ると、ゲイリー・オールドマンのイメージは「ヘンなやつ」となる。で、私が『蜘蛛女』観た翌日、知人が「久しぶりに素敵な俳優見つけたの〜」と。「あっそ、私、怪優見つけたの」。「みて、このパンフ。このヒト」。「うげ、げー〜リー・オールドマンじゃないのぉ、なんで〜」……『スカーレット・レター』ではどうも別人のようで。デミ・ムーアという女優が何故か好きくない私はあまり観たくないのだが、オールドマン=ヘンタイの構図が刷り込まれないうちに、ちょっと観てみよかと迷っている。
レオンはガンを楽器ケースに入れて持ち運んでおり、マチルダがジュリアードに入るために練習していることになってたりしている(ついチェック)。楽器ケースって実はとても武器の保管に向いていると聞いたような気がする。いずれもちゃんと保護・手入れしてやらなきゃならないところ、忘れたら一巻の終わりのところ、歌うところ、武器と楽器に重なるイメージがあって、この場面、なぜか印象に残っている。
(98/03/18)
ヘルツォーク『ノスフェラトゥ』〜ワーグナー/ラインの黄金
吸血鬼映画が好きだ。クリストファー・リーやピーター・カッシングの娯楽ドラキュラもあれはあれで面白い。カトリーヌ・ドヌーヴとデヴィッド・ボウイが共演した『ハンガー』については前に書いた(ぶーたれながら)。『インタビュー・ウィズ・ア・ヴァンパイア』はハリウッドの若手二大美形人気俳優(か?)トム・クルーズとブラッド・ピット共演のお耽美吸血鬼映画(吸血鬼になって強力美形化!)である。この話、萩尾望都のポーシリーズに似てませんか。原作者アン・ライス、まさか読んでないでしょうね。しかしトム君がダイエットしてブロンドのひらひら髪にしようが、ブラッド君がアイス・ブルーのカラーコンタクトをしようが、この二人がヨーロッパ出身の吸血鬼ってのは、なんかちがーう、と思うんである(ブラッド・ピットは『セブン』や『12 モンキーズ』『レジェンド・オブ・フォール』のほうがよっぽどいい。トム・クルーズは……私が観るような映画には出ない)。
で、やっぱり吸血鬼映画はヨーロッパものが好きだ。吸血鬼は、ルーマニアが故郷だし(串刺し公ドラクル)、ヨーロッパ的なるものだ。というわけで、まずお薦めはフリードリヒ・ムルナウ監督『吸血鬼ノスフェラトゥ』(Nosferatu, eine Symphonie des Grauens,1921年独、白黒サイレント)。
この映画は、要するに「ドラキュラ」なのだが、なぜ「ノスフェラトゥ」になったかというと、原作者ブラム・ストーカーの未亡人がなかなか著作権にうるさく、「ドラキュラ」商標??を貸してくれなかったという由来があったと記憶する(ノスフェラトゥは不死者とルビがふってあるのを見たことがあるのだが、どこの言葉なんでしょう)。これは無声時代のドイツ映画の傑作で、『カリガリ博士』と並んで怪奇幻想映画の源流となった記念すべき作品である。描写しないことによる恐怖、というと上田秋成の『雨月物語』のようだが、怖い場面はノスフェラトゥの影によって表わされ、当時としてはおそらく画期的な表現だったのでは。適度に想像力に任されると、ホントに怖いものである(こんな奥ゆかしさは、ハリウッド映画には望むべくもない)。けれども、やっぱりあまりに昔の映画なので、ノスフェラトゥの動きがギクシャクしていて、ちょっとだけ忍び笑ってしまう。
そんなあなた(って誰?)には、オペラの演出でも知られるヴェルナー・ヘルツォーク監督によるリメイク版『ノスフェラトゥ』(Nosferatu: Phantom der Nacht,1979年独・仏)を。
ルーシーにイザベル・アジャーニ、ノスフェラトゥ(ドラキュラ伯爵)にクラウス・キンスキーを配したこの映画、ビデオでも出ているが、私はTV放映版日本語吹き替えカット有りと、ドイツ語版ノーカットフランス語字幕というのとを観た。リメイクとはいえ、こちらは当然カラー。抑えた、けれども澄んだ色合いの映像が美しく、中世ヨーロッパの雰囲気にみちた(ように感じる)「怪奇ロマン」である。蔓延するペスト、石畳に溢れかえる鼠、死体死体また死体の山のなかで最後の晩餐やら愉しみに耽る人々。滅んでゆく呪われた街の背後に印象的なのがワーグナーの雄大な『ラインの黄金』冒頭の音楽。グノーの『サンクトゥス』は、聖なるものはデモーニッシュなものあってこそ希求されるわけだから、非常に効果的に使われている。
クラウス・キンスキーはムルナウのサイレントでノスフェラトゥ(オルロック伯爵)を演じた名優マックス・シュレックを忠実に再現しており、ふるふる震えながらアジャーニのかよわいルーシーをその長い爪にかけに来るところなど、オモテ黒ウラ赤のサテンのマントを翻したりなんかする妙にデザイン化されたドラキュラよりも遥かにモンスターらしい(いや、マントは着てたと思うが)。哀愁とコミカルさも少しずつ備えている。ストーリーも場面描写もほとんど忠実にムルナウ版をリメイクしているが、ラストが違っており、ルーシーの婚約者が馬で荒涼たる砂漠の彼方へ去っていくシーンがいい。デーモンは妄想と幻想の中にあり、一度は滅びても再び贄を求めて彷徨い出すのである。
この時イザベル・アジャーニは23歳、美しい盛りである。窓辺で物思いに耽る姿など、まるで一幅の絵だ。先日彼女を『王妃マルゴ』で観たが、依然として美しく、38歳とはとても思えない。白人でこんなに長持ちするのは珍しい。それで思い出したが、おそらくアジャーニとあまり歳が違わないはずの、『テス』の頃にはほんとにみずみずしかったナスターシャ・キンスキー、最近驚くほどオヤジのクラウスに似て来た。絶対ホラー入ってる。今度ぜひ、ゴチック・ロマン最後の大立者レ・ファニュ原作『吸血鬼カーミラ』のタイトルロールでもやってもらいたいものだ。ロジェ・ヴァディムの『血とバラ』はお耽美系だったから、もっと怪奇っぽいやつね。
(97/12/04)
クローネンバーグ『エム・バタフライ』〜プッチーニ/蝶々夫人
今回は『エム・バタフライ』、1993年米、デヴィッド・クローネンバーグ監督。グロテスクな悲劇をやらせたらやっぱりうまいクローネンバーグ、私が観たなかでは『裸のランチ』が一番よかった。この『エム・バタフライ』は主演は同監督の『戦慄の絆』でも主役だったジェレミー・アイアンズ。このひとは『フランス軍中尉の女』とか『スワンの恋』とかでもそうだし、ルイ・マルの『ダメージ』でなんかまるっきりそうだった、女のために破滅する男の役が実にうまいというかそればっかりの人である(しかも脱ぎまくる)。
相手役はジョン・ローン。アメリカ映画やヨーロッパ映画での中国人役というとこの人しかいないみたいだが、レオン・カーフェイとかレスリー・チョンとか、香港映画に出ているもっとうまくて、もっと美形(?個人的趣味)の役者を観てしまうと、ちょっと見劣りしてしまうような(かの有名な『ラスト・エンペラー』も、中国版の『最後の皇帝』のほうがずっと出来がいいという噂も)。で、原題M.Butterflyは、要するに「ムッシュ・バタフライ」であって、主人公ルネ・ガリマールは男だと知らずにソン・リリンのバタフライと恋に陥るという話である。『戦慄の絆』もそうだが、これも実際にフランスであった話で、つまり実話に基づくわけだが、こんな「うっそ〜」が実話なんだから参るわさ。
ルネは北京のフランス大使館員である。ある日スイス大使館(だったか?)にオペラ『蝶々夫人』を観に行くのだが、この時にタイトル・ロールを歌っているのがソン・リリンである。もちろんあの『ある晴れた日に』だ。ルネはこの歌手に一目惚れ。ジョン・ローンてば、女装似合うじゃありませんか、結構ちゃんと女に見えるよ。でもでも、アップになると、唇の上に髭の痕がぁ。なのに、ルネはぜんっぜん彼女が彼だということに気づかないまま、スパイの彼にどんどん情報を流してしまう。時は1960年代だが、それにしてもルネの妄想は愚かで、日本人の私は見ていて困ってしまった。それで、「きちんとしていて有能だから」、ということで副領事に抜擢されるのだが、ルネは個人の幻想と国家の幻想の区別がつかないおマヌケさんでもあるので、「彼らは心の奥底では我々のやりかたに憧れているから、ベトナムでアメリカが勝てば喜ぶはずだ」とか言い出して、フランス大使ったらホントにそんな情報をアメリカに流してしまう。で、結局そのツケを彼は自分で払うことになり、本国へ送り返されることになる。その時点でもまだソン・リリンこと「わたしのバタフライ」が男であることに気づいていないのである! 言いにくいことですが、「妊娠した」というのまで信じるわけですから、そういう関係だったのにもかかわらず、である。どうしてそこまでジョン・ローン演じる「彼女」がルネ・ガリマールをまんまと思いっきり騙しおおせたか、は映画を観て確かめてみてください。
最後、ソン・リリンが背広を着て、すっかり「男」で登場するところはうげげだが、彼は彼なりにルネを愛してたようである。だけど、女だと信じていた「バタフライ」が男だったわけだから、ルネのほうはそうはいかない。とにかく、純情なヒトではあるんである。かくして彼は自分の幻想と妄想に決着をつける。途中、京劇の場面が出て来るが、ジョン・ローンはほんとに京劇の役者だったらしいのでこのあたりは楽しみにしていたのだが、なんだかあんまり上手くないよーな。ルネも京劇って男が女を演じるっていうこと、勉強しとけばよかったのにねえ……。しかし、ソン・リリンの「男にしか完璧な女を演じることは出来ない」の台詞で、端無くも近ごろ連発で観た坂東玉三郎の『夕鶴』と、美輪明宏の『双頭の鷲』とを思い出したのであった。
(97/11/19)
デヴィッド・フィンチャー『セブン Se7en』〜バッハ/G線上のアリア
今回は『セブン Se7en』(1995米)、デヴィッド・フィンチャー監督。ここ数年観た映画の中でもぶっちぎりに面白い。どちらかというと、いや明らかに私はヨーロッパ映画エコヒイキのケがあってアメリカ映画は結局あんまり観ないことになってしまうのだが、面白い映画はどこのかなんて関係ないですね(あたりまえか)。ほんとに観る価値ある数少ない傑作かも。
登場人物に無駄がない。エピソードに無駄がない。どちらも、出て来るからにはあとに繋がっていく、構成のきっちりしていてそれぞれが緊密に結び付けられていること、まことにお見事だ。画面は常に暗く、光はほんのわずかしか射さない。それも「光に至る道は遠い」という犯人の残したメモにちゃんと呼応している。また、全てが7という数字で統一されている。とにかく作りにまったく贅肉がなく、アメリカ人のシェイプアップ好きもまんざら笑ったものではない、ってのはちょっと違うか。イントロもカッコいい。最初からもうこの『セブン』の世界にぐいっと引き込まれてしまう。
主役は二人の刑事だが、どちらかというとこれはサマセットの最後の7日間の物語か。黒人刑事サマセット(モーガン・フリーマン)は、犯罪が多くすさんだこの街でずっと刑事をして来た。一週間後に定年を控え、冷静沈着で教養があり、既に悟りの境地に達している感がある。もう一人はよその街からわざわざこの街へ赴任しに来た若い白人刑事ミルズ(ブラッド・ピット)である。ミルズはまだまだ青二才なので、希望もあれば失望もあるし感情的になりやすく、「マルキ・ド・シャデー」……「サドだろ」とサマセットに訂正されてしまったりして、ちょっと知識ではサマセットに劣る(カッとなると形容詞がぜーんぶfuckingだ〜)。そして殺人事件が起こるのだが、これが「7つの大罪」の通りなのである。サマセットはこれは7つ続くと見、自分は定年間近なため間に合わないと考える。一方、若いミルズは、これは変質者の犯罪で、必ず逮捕すると息巻く。しかし、サマセットは、犯人は変質者でもヘンタイでもない人間だと言う……。
サマセットは図書館へ行き、ミルトンの「失楽園」、ダンテの「神曲」、チョーサーの「カンタベリー物語」を調べる(前の二つは有名だからともかく、「カンタベリー物語」はちょっとピンと来ないですが、どうでしょうか。チョーサー Geoffrey Chaucer 1343?〜1400は、中世イギリスを代表する詩人)。ええと、さらに調べてみました。「大罪」は、「神の救いをうけられず永遠に地獄で苦しむに値する」罪であり、神による救いの可能性があるのが「小罪」だと。その7つの「大罪」とは、飽食、傲慢、怠惰、貪欲、肉欲、嫉妬、憤怒である。
ところで、この図書館は、照明が少なく暗い場面が多いこの映画の中で、各机に灯された緑の傘のスタンドの光が美しい。ここだけが柔らかな(知識という)光がいくらかあたる場面であり、ここで刑事たちがポーカーをしているのを見たサマセットが、「こんな文明の宝庫でポーカーか」とからかうと、刑事の一人が「では文化の恩恵を聞かせよう」とかけるのが、バッハのG線上のアリアである。やっぱりここはバッハしかない。宗教的救いの音楽の象徴として? ともあれ印象的だ。
一種謎解きの要素もあるので内容に関する言及はこのくらいにして、ラストまできっちり手抜きなし。その緊張感はすごい。映画に描かれたこの犯罪は、ほとんど芸術作品だ。久しぶりに手放しで褒めて悔いなしという映画であった。
(97/10/23)