「(・・・)言葉の意味を叙情的な音のなかでかき消してしまうという点で、音楽がしばしば言葉の敵であるように、音楽は演劇の利益を図ろうとはせずに振る舞いがちであり、動きを鈍くする一方、それを感傷的なほど内的なものにしてしまう。オペラが演劇として失格なのは、要するに、オペラでは台詞を述べるよりも歌うことのほうがはるかに長くかかるからである。(・・・)歌詞に曲をつけるさいに、オペラは歌詞を音符に変えることによって、それを意味のあいまいなものとする」(註1)
これは、イギリスの批評家ピーター・コンラッドの所見であるが、リヒャルト・シュトラウスとフーゴー・フォン・ホーフマンスタールの共同作業もこのような事情に立脚して始まった。『サロメ』と『エレクトラ』で、言葉の扱いおよび調性の限界に達したシュトラウスは、『ばらの騎士』で、「非常に大仕掛でありながら、いたずらに色彩を強調したものではなく」、(彼にしては)「かなりつつましい」(註2)管弦楽法を用い、音と言葉の関係について新たな模索を始めた。音と言葉の関係が顧慮されるべきオペラというジャンルに於てこの共同作業が真に意味をなすのは、シュトラウス自身再々言っているように、彼が「多くのものを創造したそういう〔芸術的に形式化された言語としての〕言葉を明瞭に有効なものとすること」(註3)を心掛けるようになったときであり、そして、オペラ版『影のない女』の共同作業を進めていた時点では同名の物語版執筆という補償行為を必要とした(註4)ホーフマンスタールが、『アラベラ』を書くに至って、「台本」というジャンルの持つ性質と、ある意味での限界を認識したときである。
「(…)ホーフマンスタールは『クリスティーナの帰郷』に於てきっぱり拒否したこと、そして『ばらの騎士』に於て部分的に実現することができ、また実現するつもりだったことを小説『ルツィドール』を発展させた『アラベラ』に於ては最初から目指している。それは即ち『テクストの抒情的表現、つまり性格づけの大部分を作曲家に委ねる』ことであり、ここで漸くホーフマンスタールは完全に“台本作者”になったのである。勿論、詩人であることを一瞬たりとも否定しないような」(註5)
「テクストの抒情的表現、つまり性格づけの大部分を作曲家に委ねる」とはどういうことかを理解するためには、総譜にあたってライトモチーフを見るのが有効な方法のひとつである。リヒャルト・シュトラウスの場合、スコアのあちらこちらに散りばめられたライトモチーフを手繰ってゆくと、まるで絵解きのようにストーリーの全容が見えてくることが多い。この絵解きの具体的な方法の例示は後に譲るとして、まずホーフマンスタールが書いた『アラベラ』の分析を試みる。
1. 『アラベラ』に於ける人物配置と性格分析
a)「昼のアラベラ」と「夜のアラベラ」
オペラ『アラベラ』の原本である小説『ルツィドール』では、表題になっているルツィドール、すなわち『アラベラ』に於けるツデンカが主人公であり、彼女は小説版において付与されている本質を、改作されたオペラへそのまま持ち込んでいる唯一の存在である。このルツィドール=ツデンカは、ヴラディーミル(オペラではマッテオ)という青年仕官に恋しているのだが、当のヴラディーミルは彼女の姉アラベラに夢中である。しかし彼はアラベラに冷淡にあしらわれている。そんなヴラディーミルに対する同情と愛情が、彼女に姉アラベラの名前で彼への恋文を認めさせる。これによって現実とは裏腹の、マッテオに恋するアラベラが出来することとなる。
冷淡な姉アラベラと、妹ルツィドールの手になる愛情に溢れた手紙の主アラベラ。この「昼のアラベラ」と「夜のアラベラ」の性格の二重性は、既に小説『ルツィドール』の中で次のように述べられている。
「アラベラの二重性がはっきりと言及されたことは一度もなかった。しかし、その二重性という概念は自ずと明らかになったのだ。すなわち、昼のアラベラは拒絶的でコケットで几帳面、自信家で世俗的であり過度なまでにドライな性格であったが、一方、蝋燭のもとで恋人への手紙を書く夜のアラベラは献身的で殆ど際限なく憧憬に満ちていた」(註6)
上記の引用文中にある「蝋燭のもとで恋人に手紙を書く夜のアラベラ」が即ちルツィドールである。このようにルツィドールが(“夜の”)アラベラとして手紙を書くことで、全くと言ってよいほど性格を異にする、いわば二人のアラベラが同時に存在することになってしまったわけが、この二重存在を知っているのは「夜のアラベラ」であるルツィドール、つまりツデンカだけなのである(註7)。このことで生じる矛盾・齟齬といったものが、筋の進行や登場人物の心理・行動等にさまざまな影響を及ぼし、主要登場人物に試練を課すこととなる。この二重存在に起因する試練が、『ナクソス島のアリアドネ』『影のない女』など、ホーフマンスタールの他の作品の多くと同様、『アラベラ』においても作品のテーマとなっている。
「昼のアラベラ」、つまり姉である本当のアラベラは、美しさと誇りに加えて、オペラでは「相応しい人( Der Richtige )」に対する乙女らしい憧憬、これから起こるであろう未知のことへのためらいを付与されているのだが、そのことで「昼のアラベラ」自身、独自に矛盾を内包することになる。マッテオこそ「相応しい人」だと言うツデンカに、アラベラは「あの人は私の“相応しい人”ではないわ」と言い、「あなたには本当のことを言うわね!私はすぐにある一人の男性を自分に相応しい人と思ってしまうけれど、私の意志とは関係なしに心が回り出してその人から外れてしまうのよ」(註8)と、頭と心がばらばらに働いてしまって自分の意志がそれに関与できずにいる矛盾状態を告白する。このように、アラベラは自分の相手を特定することにどうしようもないためらいを感じている。そして彼女は「でも“相応しい人”が現れたらもう何も疑わないでしょう」(註9)と、ためらいと共に併せ持っている「相応しい人」への憧憬を語る。
ホーフマンスタールの作品を語る際に避けて通れないのが「前存在Praeexistenz」だが、これについてはエーミール・シュタイガーがわかり易く説明をほどこしている。
「もともとはPostexistenz(死後の存在)に対して、肉体に入る以前の魂、つまり『前世の存在』を意味する言葉。ホーフマンスタールにおいて、それは自我と世界全体との神秘的な同化という美的な世界、真のエクシステンツExistenzの生まれる以前の『輝かしいながらも危険な状態』であるとされる。彼は晩年の断片的メモ『自己省察』( ad me ipsum )においてはじめてこの言葉を用い、過去の作品を通して自己の内的体験を分析している」(註10)
この「前存在」の概念がホーフマンスタールの作品の数々を貫いているのだが、『アラベラ』では、これが上で見てきたようなアラベラのためらいと憧憬という形をとって現れているのである。
アラベラは、このようなためらいと憧憬とによって『ルツィドール』に於けるよりも人間味を帯びてはいるわけだが、まだ「子供のよう」な憬れに縋るばかりで、意志を働かせることができずに自己の内の矛盾に振り回されている脆い存在、すなわち「前存在」的状態にいる人物に他ならないことがわかる。
一方、「夜のアラベラ」であるツデンカは、アラベラに決定的に欠けている要素、(他者に対する)愛を既に持っている。しかしツデンカも、マッテオに対する愛ゆえに「昼のアラベラ」と「夜のアラベラ」という対立した二重人格を生じさせてしまい、しかもその「昼」と「夜」のアラベラを同一人物たらんとする、女性的な(マッテオへの)愛を宿しているがために、他者に対する愛と共に男装を続けざるを得ないという矛盾をも併せ持っている。愛を持っていながら、それを男装に封じ込め本来の姿になれずにいるツデンカもまた、「前存在」的状態にいるのだ。
以上に見たように、本来別個の人間として対置されるべき二つの人格であり、そしてそれぞれが矛盾を内包している脆い「前存在」である「昼のアラベラ」と「夜のアラベラ」が、筋の表面的な進行の上では一人の人間として存在しなければならないという、さらなる矛盾を孕んでいるわけである。この矛盾が引き起こす誤解と錯綜は克服され、調和が導き出されなければならない。「前存在Praeexistenz」から真の「存在Existenz」への浄化という、ホーフマンスタールが生涯追った主題がこの作品でもテーマとなっているのである。
b)アラベラの受動性
アラベラには頭と心を有機的に働かせるための意志が欠如しており、自分の相手を定めてしまうのをためらう気持ちがあることは前項で述べた通りである。このことはアラベラが「前存在」的( praeexistenziell )受動的存在であることを意味している。とは言っても、彼女もいつまでもこのままの状態でいいとは思っていない。だが、「謝肉祭は今日で終わりなのよ。今夜のうちに心を決めなければ」(註11)と言いながらも、自分で決断するよりも「もし私に相応しい人が私の前に現れたら」と、いわば運命の出逢いを待ち望んでいるに過ぎない。
そんなアラベラだが、自分が三人の求婚者たちの間で籤引きの対象にされたことを知ると、さすがに自尊心を覗かせる。ただし、「あなたがた三人のうちからでなければならないと言うの?私はもう籤で決められてしまった奴隷と言うわけ?」(註12)と籤の対象にされたことに対する不満は言っても、自分から相手を選ぼうとはしない。自分の意志を自らの行動に反映させることなくひたすら「なにか変わったこと」を期待するだけのアラベラにエレメールは言う。
「貴女がその臆病な逡巡を捨てて
貴女が貴女その人になるとき
そうなるのです!
(・・・)
ためらいは死です!
決断することにこそ幸福はあるのですよ!」(註13)
アラベラの前に現れた男性が「相応しい人」になるかどうかは、アラベラがためらうことをやめて自ら決めることなのだ、というのである。アラベラにはもはや時間が残されていない。彼女の謝肉祭はもう終わりなのだ(註14)。
そして、ゆくゆくはアラベラの「相応しい人」となるマンドリーカが登場する。実は、アラベラは既に散歩の途上でそれと知らず彼のことを見かけており、彼に心魅かれている。そのことをアラベラは、マンドリーカ本人が舞台に登場する前にツデンカに告白している。このことで、少なからず運命的と見える、第二幕での二人の出逢いへの伏線が張られたとも言えるのだが、マンドリーカが実際に登場するための動機となるのは、アラベラの父ヴァルトナーの手紙なのである。しかもその手紙は本来、アラベラの「相応しい人」となるはずの当のマンドリーカにではなく、彼と同名の叔父に宛てられたものであった。本来は二人は出遭うべくして出遭ったのではないと言うこともできよう。ヴァルトナーの手紙がなければ、マンドリーカはアラベラのいるウィーンに来ることもなく、従って散歩するアラベラが彼を見ることもなかったわけであるし、その上、その手紙で来るのは、富豪の叔父マンドリーカのはずであったのだから。「もしかしたら奴みたいな馬鹿は、娘と結婚しようとやって来るかもしれないと考えたのさ!」(註15)。ヴァルトナーは、零落する一方の自分の伯爵家を潤すためにアラベラの美貌を餌にしようとしたのだった。つまり、アラベラは父親によってまでも賭けの対象にされたわけである。
そして当のアラベラも、そうと知らないとはいえ、心魅かれるマンドリーカに対してすら何がしかの働きかけもせず、ただ遠くから見つめるばかりで、しかも行動を起こさぬうちに諦めようとさえする。あくまで受動的なアラベラは、エレメールに対して彼女自身が口にしたように、奴隷であり獲物であるに過ぎない。そしてそれは彼女の受動的立場から抜け出そうとしないことに起因しているのだということを、「貴女がご自分から獲物になったのですよ!」(註16)というエレメールの言葉がいみじくも言い当てている。マンドリーカは美しいアラベラを得るために大金を投じる。前述の通りヴァルトナーの目的も、母アデライーデの願望も結局はアラベラの結婚によって富を得ることである。そしてアラベラはマンドリーカに働きかけない。つまりマンドリーカとアラベラは、出逢いの要因からして不安定である上に、第一幕においては接点がないままなのである。ゆえに意志を持った人間同士としてではなく、いわば獲物と狩人という、およそ「相応しい」結婚をする者同士というには程遠い対立関係を第二幕に持ち越すことになるのである。
c)試練とその帰結 −−− ツデンカの役割および存在意義
第二幕冒頭でアラベラとマンドリーカは漸く対面するが、アラベラはマンドリーカの姿を認めると、「ママ −− 今度こそ本当に決めるわ!」(註17)と言いながらも、蒼ざめて「少しの間」暇乞いをする。謝肉祭の終焉を悟り、いざ「変わったこと」を目前にしてみたら(ためらいの気持ちも手伝って)事に当たる前のワン・クッションが必要であったということだろう。そして暫くの後いよいよマンドリーカと対話するのだが、アラベラは始め−−恐らくは誇りをためらいの気持ちから−−自分は何も知らされていない風を装い、つまり自分を全くの受動的立場に置いて、マンドリーカに全てを言わせようとする。しかし、彼女がそのような立場を固持しようとしている間は、彼の口から決定的な求婚の言葉を聞くことはできない。
そして延々と続くマンドリーカの身上話に業を煮やしたアラベラは、そうする間にも " Das ist es, was mein Vater mir erzaehlen sollte? " などと間接的に聞きだそうと試みるが、ついに自分から「父が申しますには、私と結婚なさるおつもりとか!」と言ってしまう。未だ " mein Vater sagt " という言い方ではあるが、ともかくもここで漸くアラベラの側からの働きかけがあったことになる。そうして初めてマンドリーカに求婚されたわけだが、このことも、まずはアラベラがためらいを捨てないことには「相応しい人」と一緒になるための道も示されないということを暗示しているとは言えまいか。アラベラがためらいを捨て、自らの意志で「前存在」的状態から脱する覚悟ができるかどうかが、「真の存在」となって「相応しい人」と結婚し、調和に至るための試練なのである。
マンドリーカとの結婚を承諾したアラベラは、この時点で僅かではあるが能動性を持つようになる。以前からの求婚者の一人に対する「私は貴方に相応しい存在ではなかった」(註18)という言葉の中に、他からの自分に対する影響に汲々と想いをいたすばかりでなく、自分の他への関わりにまで眼を向けられるようになったことが窺える。
しかし、アラベラはマンドリーカの求婚を受けたことで完全にためらいを捨てたわけではないのである。マンドリーカとの愛の語らいの直後に、「もう少し踊って娘時代に別れを告げたい」と「もう一時間だけ」の猶予を乞い、さらにこの「もう一時間だけ」のためらいを翌日まで延ばそうとする。彼女は短い手紙を残してマンドリーカの前から立ち去ってしまうのだが、これは彼女の重大な過ちである。何故なら、マンドリーカは求婚の際、アラベラに自分の故郷の風習を次のように語って聞かせているのだ。
「今夜のうちに、寝床に就く前に ――
もしも貴女が私の故郷の娘だったら
貴女は私のためにお父上の家の裏にある泉まで行って
清らかな水をグラスに満たし
敷居で私に渡してくださらなければならないのです。
そうして私は神の御前で
そして人びとの前で貴女の許婚者になるのです
美しい方! 」(註19)
「今夜のうちにheute abend noch」ということはつまり、彼女がマンドリーカとの結婚を承諾した以上は、「娘時代との別れ」を翌日まで引き延ばすという行為はしてはならないことだったのである。この過ちが他の誤解と絡まり、さらに誤解が誤解を呼んで絶体絶命の危機、最大の試練を第三幕で惹き起こす一因となるのだが、これについては後述する。 アラベラがこのような「前存在」的ためらいを捨て切れずにいるために、彼女が第二幕において未だ奴隷・獲物でしかないことを暗に示す言い廻しが随所に見られる。結婚を約束し互いに高め合うことのできる仲であることを確かめ合った二人だが、「一時間だけ」の猶予を乞うアラベラに対するマンドリーカは、明らかに上に立って許可を与える立場にあり( " Sie duerfen! Ja! Sie duerfen alles was Sie wollen! " 等)、少なくともこの時点ではマンドリーカの意識の中でも、アラベラは互いに高め合える対等な存在としてではなく、寧ろ掌中の珠としてしか捉えられていない。これはつまり、大切にしてはいるのだが、そのやり方はいわば独占とも言えるものであるということで、とても“対等な立場”にある人間に対する信頼関係から来るものとは言い難いのである。
Walzer soll sie auf Blumen tanzen 彼女に花の上でワルツを躍らせ
Abschied nehmen von Maedchenzeiten! 娘時代に別れを告げさせよう!
Spaeter breit ich meine Haende そして私が諸手を拡げると
sie wird nicht mehr Walzer tanzen 彼女はもうワルツではなく
aber tanzen auf meinen Haenden! 私の掌で踊ることになるのだ!
(註20)
" sie wird auf meinen Haenden tanzen " 、文字通りアラベラはマンドリーカの意志 sollenに踊らされる“掌中の珠”に過ぎないのだ。そして猟師と獲物の関係が続いているということは、ツデンカが自室の鍵をアラベラの部屋のものと偽ってマッテオに渡す現場を目撃したマンドリーカが、アラベラに疑惑を持ってからは更に露骨な言葉となって現れている。
「もし此処では何人もの女がアラベラと名乗るのだとしたら −−
この神に呪われたいまいましい狩人の耳が
自分の愚鈍な頭をからかうのか −−
(・・・)
この私が彼女の自由にと与えた時間は
まだ過ぎていないのに −−
(…)
ここウィーンでは伯爵令嬢の部屋の鍵は
いくらで買えるのかね? 」(註21)
このように婚約者マンドリーカによって不当に貶められるばかりでなく、第二幕の幕切れでは、主人公であるはずのアラベラが伝令ミリに舞踏会の女王の座を奪われてしまうのである。マンドリーカはアラベラに絶望し自暴自棄になって歌う。そんな彼の言葉を単に繰り返すに過ぎないミリは、およそ自分自身の思想やポリシーといったものを持った存在として描かれてはいない(註22)。そのミリに主役の座だけでなくマンドリーカの相手役までも奪われてしまうということは、「前存在」的状態にいるアラベラの非力さを証明しているに他ならない。「相応しい人」と思しき人物が現れさえすれば自ずとためらう必要がなくなるというわけではなく、既にエレメールに指摘されているように(註13参照)、ためらいの気持ちを自分の意志で捨て去り、決断を下すことで初めてその人物が真に「相応しい人」になるのだということに彼女は気付いていない。「前存在」から「真の存在」への試練は未だ完了していないのである。
第三幕でアラベラが受ける試練は、それまでの彼女の行為に対する報いである。この試練とは、先にも触れたが、ツデンカがマッテオに鍵を渡した現場を目撃したマンドリーカのアラベラに対する誤解と疑惑である。もしも彼女が約束を守って一時間後にマンドリーカの許へ戻ったのであれば、ツデンカの鍵の真意もいずれにせよもう少し穏便に解決されたであろう。ツデンカがマッテオに逢引のための鍵を渡したことは、確かにその行為のみを見れば些か不道徳な行いと言えるがしかし、これはもしアラベラの愛を得ることができいならば自殺すると言うマッテオを救うために行ったことであり、さらにツデンカ自身のマッテオへの愛情をも考え併せてみると、行い自体を云々するよりもむしろ、アラベラとマンドリーカの破局という最悪の事態になる直前に、この行いに対して見事なまでに責任を取ろうとした彼女の勇気にこそ意味を見出すべきであろう。ツデンカは自己犠牲をも厭わぬ愛を持つ存在として、ためらいを捨て切れず自己愛の強いアラベラと対置されるべき人物なのである。
とはいえ、確かにアラベラとツデンカは対置されるべきなのであるが、対峙しているわけではない。妹ツデンカの愛が姉アラベラへも向けられていることは物語冒頭より明らかだが、アラベラも自分とマンドリーカの仲が壊れるかという場に臨んで、忌まわしい鍵の誤解の原因がツデンカにあると知ってもそれを盾に取るようなことはしない。アラベラは、今や事の真相を知らしめるべく女の姿となって皆の前に現れ、責任を取って死のうとするツデンカを救うのである。
アラベラはツデンカを赦し、真の愛と躊躇うことなく献身することの意味を悟る。ツデンカは、偽って「夜のアラベラ」として取った行為を償うために夜のうちに身投げしようとするが、アラベラの赦しによって「夜のアラベラ」の呪縛から解放される。しかしツデンカは、マッテオを得るためには翌日まで待たなければならない。未だ謝肉祭の終わらぬ今宵のうちは、「行きなさい、彼は明日の朝来るわ。そうしたら彼は永遠にあなたのものよ」というアラベラの指示によりマッテオの前から去らなければならない。ツデンカが溢れる愛情ゆえに纏っていた男装を解き、「夜のアラベラ」としてではなくツデンカその人としてマッテオと結ばれるためには、翌日の朝まで待たなければならないのである。いわばこれがツデンカに対する報い、試練と言うことができよう。
アラベラは、マンドリーカの従僕ヴェルコにグラス一杯の水を持ってくるよう命じてマンドリーカの前から一旦立ち去る。しかし、もはやそれがためらいの気持ちからではないことは明らかである。何故なら、グラス一杯の水とは言うまでもなくマンドリーカが語った婚約の儀式に通ずるものであり(註19参照)、アラベラがその水を「今夜のうちに」マンドリーカに捧げるつもりであろうことが、台本のト書きから窺えるのである。
「アラベラが階上に姿を現し、マンドリーカがいるかどうか見届ける。〔マンドリーカの 姿を認めると〕彼女の顔が輝く。彼女はグラスを受け取り、ゆっくりと階段を降りる。 ヴェルコが後に従う。」(註23)
そしてアラベラはマンドリーカの故郷の慣習に従って、彼女の方から意思表示をする。
「まだ行っておしまいにならずにいてくださって本当に良かったわ ――
(…)
貴方がこの暗闇の中に立っていらっしゃるのを感じて
大きな力に揺さぶられました。
(…)
未だ手を触れていないこの水を私の恋人に差し上げます
娘時代の終わるこの晩に」(註24)
今や完全にためらいを捨てた彼女の試練は終了する。ツデンカを「夜のアラベラ」から解放することで、今や自身「昼」と「夜」を充たしたアラベラとマンドリーカの真の結合が成立する。相手 Duの身になることができて初めて、私 Ichは自己 Selbstに到達できる。これが真の存在Existenzへの道なのである(註25)。
ツデンカは、男装という愛による膠着状態から脱け出し、女性そのものに還元することによって試練を完了する。一方アラベラは、それまで決定的に欠如していた愛を知ることで自己の欠落部分を充たし、さらに矛盾し対立していた「昼のアラベラ」と「夜のアラベラ」を一体化させることで、一個の完結した存在へと浄化される。「昼」と「夜」の葛藤が調和へと帰結したのである(註26)。
2. 音楽による人物配置および性格の裏付け
『アラベラ』の音楽は、『ナクソス島のアリアドネ』以来の室内楽的な流れを汲むものである。楽曲全体の特徴としては、老廃物を取り除いたオーケストラの透明な響きと(註27)、「語りと歌のより合わせ、また楽器としての歌声部とオーケストラの微妙な絡み、オーケストラ的豊潤さと室内楽的繊細さの見事な結ばれ合い」(註28)、そしてライトモチーフを豊富に織り込んだMeisterschaftと呼ぶにふさわしい巧みなオーケストレーションと言うことができようが、ここでは前章1.で試みた作品分析の一助となる範囲で、ライトモチーフの技法を簡単に見ることにする(楽理的な分析は専門書に譲るのは言うまでもない)。
まず、譜例に挙げたように、アラベラを表わすモチーフは三つある(註29)。[1]は姉であるアラベラ、いわば「昼のアラベラ」と表わすモチーフである。[2]はツデンカを通して描写されるアラベラ、すなわち「夜のアラベラ」を表わすモチーフということができる。[3]は、ふとした折りに見せるアラベラの真剣な一面であり、[4]はツデンカのモチーフである。これらのライトモチーフは、ある時はナレーションのように説明的に使われ、ある時は実際に口に出して話される言わば取り繕われた表面的な言葉では語り尽くせないことごとを雄弁に物語る役割を担う。つまり、ライトモチーフがある一場面においてどのように扱われているかを見ることによって、台本の行間、“含み”の部分を解き明かすヒントが得られるであろう、というわけである。
第三幕終わり近くにこのことが解り易い箇所があるので例に取ってみよう。まず、ツデンカこそが「夜のアラベラ」であったことが露呈した場面であるが(註30)、第一ヴァイオリンがツデンカ([4])と「昼のアラベラ」([1])のモチーフを弾いた後、アラベラが「ママ、ツデンカを上に連れていってちょうだい! ( Fuehr sie hinauf, Mama! )」と言うと、「夜のアラベラ」のモチーフ([2])が現れる。さらに、「行きなさい、マッテオは明日の朝来るわ( Geh nur, er kommt morgen frueh. )」と言う時も「夜のアラベラ」のテーマが現れる。つまり、先に述べたようにツデンカがツデンカ本人としてマッテオと結ばれるためには「夜のアラベラ」はこの場から立ち去り、翌日まで待たなければならないことが音楽でも表現されているのである。
次は、アラベラとマンドリーカが結ばれる場面である(註31)。アラベラがマンドリーカにグラスを捧げ、真に愛を誓い合うと、第一オーボエと第一ヴァイオリンにツデンカ([4])、第一ファゴットとハープおよびチェロに「昼のアラベラ」([1])のモチーフが現れ、同時進行した後にオーボエと第一ヴァイオリン、ヴィオラが真剣なアラベラのモチーフ([3])で引き継ぐ。つまり、ツデンカの愛と「昼のアラベラ」のモチーフが同時に奏されることで、「昼のアラベラ」と「夜のアラベラ」の一体化が表わされ、その結果、「私は他のものになることなどできませんわ。どうかありのままの私を受け入れてください! ( Ich kann nicht anders werden, nimm mich, wie ich bin! )」と言うアラベラ、すなわち試練を終了したアラベラが、楽曲中それまで一貫して“真剣なアラベラ”の描写として使われてきた[3]のモチーフで表現されているのである。
ライトモチーフによる作品の解釈は以上に留めておくが、このようにほんの一例を見るだけでも、オペラという(つまり、小説とは明らかに異なるリブレットという)ジャンルの作品分析をする上では、音楽面からの読み解きも非常に有効であることがわかるであろう。
3. オペラにおける音と言葉 −−− 共同作業としての『アラベラ』の意義
前章2.で見たように、シュトラウスは台本の言葉だけからでは汲み取るのが困難であるようなことごとの解釈を助ける、という意味でも非常に効果的にライトモチーフを用いている。『アラベラ』の台本のみを独立した文学作品として考えた場合、小説と台本という性質の相違を考慮に入れるにしても、音楽(主にライトモチーフ)によって隠された心情や事情が示唆されなければ、些か抒情味に欠けた作品という印象は免れ得ないであろう(事実、この作品を純粋にホーフマンスタールの作品として見た場合の評価はさほど高いものではない)。しかし、シュトラウスとホーフマンスタールの共同作業における最大の課題である音と言葉の関係、言葉の聴き取り易さということへの配慮からか、言葉のパートである歌声部(の音量)に圧倒されてライトモチーフの方がむしろ聴き取りにくい箇所もしばしば見受けられる。言葉の聴き取り易さが内容理解のために重要であることは今更言うまでもないが、繰り返し述べているように、台詞たる言葉が反語的に使用されていることを音楽が暗示していたり、言葉の表層的な性質に深い意味を付与したりする場合には、必ずしも言葉の聴き取り易さを最優先させることに固執する必要もないと言うことができる(註32)。しかし、「ここ〔=オペラ《アラベラ》〕では音響的なものが一面的に支配せずに言葉と調和して、シュトラウスとホーフマンスタールとの協力の頂点が築かれた」(註33)ということは疑いの余地のないことであろう(註34)。
語る言葉は必ずしも心中と同一とは限らない。音楽は心情の吐露や言外の意味をも表わすという点で、無限の可能性を持つ言語である。このことを認識し、そしてさらに詩人と作曲家それぞれが、言葉(歌詞)という言語について冒頭で述べたような認識に至って初めて、註5に挙げた引用文で述べられていることが真に意味をなすのである(註35)。
本稿は、平成2年1月に修士論文として提出し、平成4年3月『武蔵大学人文学会雑誌』の第23巻第4号に掲載した文章に、更に加筆訂正を施したものです。
著者プロフィール
武蔵大学および同大学院人文科学研究科ドイツ語ドイツ文学専攻修士課程を経て、慶應義塾大学大学院文学研究科独文学専攻博士課程修了。ピアノを海藤美和、岡田みどり氏に、ヴィオラを李善銘、中山良夫氏に師事。卒業論文のテーマは『ナクソス島のアリアドネ』。
また、『和風の魔圏−南ドイツ新聞《影のない女》評−』( Richard Strauss 93 日本リヒャルト・シュトラウス協会年誌 所収)の翻訳(共訳)のほか、現在 Kurt Wilhelm の "Richard Strauss persoenlich"(第三文明社より刊行予定)の翻訳(共訳)作業中。