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  音楽好きならこの映画を観れっ!  
     

Invincible
「神に選ばれし無敵の男」
監督:ヴェルナー・ヘルツォーク
出演:ティム・ロス、ヨウコ・アホラ、アンナ・ゴラーリ
音楽:ベートーヴェン作曲ピアノ協奏曲第3番〜第2楽章、他
130分/2003年6月公開/2001年/独・英
Yahoo! Movie:http://movies.yahoo.co.jp/m1?ty=rs&id=139997
上映館:銀座テアトルシネマ、テアトル梅田、他
「神に選ばれし無敵の男」
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◎ ユダヤの神はサムソンを容赦しない。
 見終わって唖然。クラシック音楽ファンにはオペラ演出家としても知られている鬼才ヴェルナー・ヘルツォーク監督10年ぶりの新作である。かなりトンデモな映画評やら紹介記事が跋扈しそうな予感、大あり。世俗的な映画の「お約束」なんかにまったく囚われない作品なのだ。
 この話、実話を元にしている。舞台はナチス政権前夜、主要な登場人物は二人。一人はポーランド東部の貧村で鍛冶屋を営むジシェ。冒頭、ジシェとその弟が頭に「キッパ」をかぶって食堂に入ったところ、ユダヤ人であることを揶揄されるシーンではじまることからもわかるように、この時代にユダヤ人がいかに生き抜くかがテーマの一つになっている(んだけどね……)。鍛冶屋のジシェは素朴な男だが一つだけ特異な能力を持っている。並外れた怪力なのだ。まさに「サムソンとデリラ」に出てくるサムソンなんすね。
 もう一人の実在の人物は、ティム・ロス演ずる預言者にして占星術師ハヌッセン。ハヌッセンはヒトラーの台頭を予言し、超能力者として人気を博したが、ナチスが国会議事堂に放火することを予言したために(そしてそれが現実となった)ナチスから射殺されてしまった人物である。
反ユダヤの嵐が吹き荒れようとするこの時代にあって、ジシェはユダヤの民を蜂起させるサムソンの役割を背負うことを決意する。一方、ハヌッセンはナチスのオカルト省設立を狙い、権力に媚び、ドイツ民族の優位性を大衆に訴えるペテン師である。で、ここからネタバレと言いたいところだが、これは史実なのでネタバレでもなんでもなくて(笑)、ハヌッセンの本名はハーシェル・シュタインシュナイダーなんである。実はユダヤ人なのだ。だからこの映画は、ユダヤ人の生き方の両極端を描いている。完全なる偽りの同化か、ユダヤであること堂々と宣言し、誇り高く生きるか。史実通り、ハヌッセンは殺されるが、問題は結末へと至るその後。
ここのネタを割るのは憚られるので、一言でいうと、ジシェは殉教者になる。そして、その殉教が映画的お約束の「愛と感動の」偉大な死などには決してならない。正義の人物がとてつもなく愚かなことだってあるだろう。崇高なる魂にも神はなにも与えてくれないという、恐るべきアイロニーと絶望的なリアリズム。一般的なエンタテインメントの掟では、こんなばかばかしいヒーローの死などあってはいけないのだが、これはヘルツォークの芸術作品だから不条理も許される。終盤、何を見ても椅子から転げ落ちないように(笑)。いや、なにか読み取るべきものがあるのかもしれないんだけど、フツーの日本人は椅子から転げ落ちる。
なお、サムソンがいるならデリラはいるのかというと、デリラはいないがピアニストのヒロインがいる。なんと、この人は役者ではなく本物のピアニストなのだ。アンナ・ゴラーリといい、Koch SwannなどからCDも発売されている。このロマンスにはベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番がモチーフになっている(ときどき「ソナタ」と書いてる人がいますが、その人は映画会社のリリース資料を引き写していっしょにまちがえちゃっただけです→苦笑)。エンド・クレジットが終わった後もしばらく真っ暗な画面でベートーヴェンが流される。クラシック音楽好きはしっかりと音楽を満喫、そうでない人には意味なしの暗闇。
(06/26/2003)

Beijing Violin イ尓在一起
「北京ヴァイオリン」
監督:チェン・カイコー(陳凱歌)
出演:タン・ユン、チェン・ホン、リウ・ペイチー、ワン・チーウェン
音楽:チャオ・リン、リー・チアンユン(vn)、チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲他
117分/2003年4月26日公開/2002年中国/配給:シネカノン
公式サイト:http://www.cqn.co.jp/violin/
上映館:Bunkamura ル・シネマ他
北京ヴァイオリン
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◎ 父子愛の物語を装った音楽の勝利。
 中国映画「北京ヴァイオリン」を観た。主人公は13歳の天才ヴァイオリン少年チュン。料理人の父親と二人で田舎町で暮らす。父親はお金をためて、子どものためにと北京に上京する。息子を北京で学ばせ、国際コンクールに出場させ、経済的に成功させてやりたい。しかし北京で待ち構えていたのは、素朴な田舎町とはまったく異なる様相を見せる現代の中国であった。バブル期の東京を彷彿とさせるような大都会の消費社会、お金がモノを言う貪欲な拝金主義、音楽界の熾烈な競争主義。
 普通の映画だったら、少年の挫折と成功を描いた成長物語になりそうな舞台設定である。でもこの物語は一味違う。そもそも少年は音楽を愛してはいても、成功など夢見ていない。夢見ているのは父親だけである。一段レベルの高いところへ上がっての音楽的挫折も一切ない。少年は最初から最後まで天才である。
 この映画はまず第一義に父子の絆の強さ、献身的な親の愛を、善良なユーモアを盛り込みながら描いた「感動のヒューマン・ドラマ」である。同時にチェン・カイコーは市場経済が導入された転換期にある中国社会に批判の目を向ける。「みんな社会的に成功して、物質的に豊かになることばかりを人は追い求めている。でもそればかりが人の幸せじゃないんだよ」と。でも、それってワタシらの魂に響く? 立身出世が幸福だなんて今どきの日本人はだれも勘違いしてないから、そんなのはちっとも伝わりゃしない。
 しかし大丈夫、真に感動すべき音楽的ハイライトがちゃんと用意されている。まず、クライマックスでのチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲。主役の少年チュンは役者ではなく本物の少年ヴァイオリニストなので、演奏シーンの迫力は相当なものなのだが、とくにこのシーンは工夫のある趣向もあって素晴らしい(演奏シーンのヴァイオリンは来日経験もあるリー・チュアンユン)。
 それからもう一つ、物語の結末が美しい。これは一見すると、天才少年が「音楽か父親か」の二者択一を迫られているように見えるかもしれないが、そうではない(そうだとしたらつまらない話になってしまう)。これは本質的には、登場する二人の師に代表される「どちらの音楽を選ぶのか」が問われるシーンである。一方は師チアン。知性も情熱も本当はあるのだが、「金がすべて」の風潮になじめず、野良猫と暮らす厭世的な人物。「音楽は教えられるけど、僕には社会的な後ろ盾がないから君を成功させてあげることはできない」と言う教師である。もう一方はユイ教授。中国のスター育成システムそのもののような教師であり、口では「テクニックは教えられるが、感情は教えられない。音楽で大切なのは心だ」といいながらも、己の物質的な豊かさのためなら子どもを利用することもいとわない欺瞞に満ちた俗物である。この人物造形、実にいいじゃないっすか! これは日本でもどこでも通用する普遍的なテーマだ(笑)。
 この結末の美しさは、コンクール中心のスター育成システムのナンセンスさを苦々しく思うクラシック音楽ファンにはよく伝わるだろう。天才少年少女が大量生産されて、曲芸師みたいな音楽家が世にはびこったら、みんなヤでしょう? だってそんなの聴きたくない。コンクールの順位のナンセンスさも知っている。だからこの映画の結末で描かれている(あるいは監督本人も意図しなかった)コンクール至上主義批判は、痛快な「本当の音楽の勝利」なのだ。
 しかも、映画の枠をはみ出して現実に目を向けよ。少年役のタン・ユンは実際にこれから音楽界を目指す。そこで彼自身が「曲芸師」の烙印を押されないという保証はない。映画が自らが現実に超克しなければならないテーマを内包しているという点で、これは稀有な少年音楽映画でもある。
(04/21/2003)

Amadeus
「アマデウス ディレクターズ・カット」
監督:ミロシュ・フォアマン
出演:F・マーリー・エイブラハム、トム・ハルス
音楽:ネヴィル・マリナー指揮ASMF
180分/2002年10月公開/2002年/米/配給:ワーナー
Yahoo! Movie:http://movies.yahoo.co.jp/m1?ty=rs&id=139004
上映館:テアトルタイムズスクエア(新宿)、テアトル梅田
映画「アマデウス」
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↑これはDVDで発売されているオリジナル版。「ディレクターズ・カット」を観るなら映画館へ。


CD「アマデウス オリジナル・サウンドトラック」(ディレクターズ・カット版)
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マリナー指揮アカデミー室内管弦楽団






◎ 私は汝ら凡庸なるものの守り神(=champion)である。
 「アマデウス」は1984年に公開され、日本でも大ヒットした名画である。映画好きなクラシック音楽ファンでこれを観ていない人というのはほとんどいないんじゃないかと思う(もしいたら即刻観るべし)。で、あまりにヒットしただけに、この映画がどんな映画かってのは公開時以来すっかり語り尽くされている。凡庸だか成功を収めた作曲家サリエリと、神の寵愛を受けた天才であるが下品で生活能力を欠いたモーツァルトの話である。サリエリは作曲家としては平凡だったが、なにが真の傑作であるかを見抜く批評眼は持っており、また傑作を書けるように神への敬虔な祈りを欠かさない真摯な音楽家でもあった。サリエリが凡人としてはきわめて優秀な人物であったからこそ、この映画は単なる凡人と天才の対比の物語を超えたところで傑作となったわけだが、まあ、そんな話は飽きるほど聞いていて、もういいっすよね。
 で、この映画、公開時にカットされていた約20分を付け加えて、「アマデウス ディレクターズ・カット」として再度、映画館で上映されているのだ。改めて観ると、この映画、奇跡のようにすべてがうまく作られた傑作である。脚本がとにかく優れている。史実からフィクションを生み出すために盛り込まれたアイディアが見事。ほんの一例だけ挙げるとたとえばモーツァルトの父レオポルトという人物の使い方。神童のマネージャーとしてのレオポルトの存在は史実としても有名だが、まずそれを観客に見せておき、サリエリに父の存在を嫉妬させる。後にモーツァルトの結婚後、レオポルトとコンスタンツェが対立する。レオポルトが急逝すると、モーツァルトは父の死を受け入れられず、父を騎士長として、自身を放埓な貴族として「ドン・ジョヴァンニ」を作曲し(この映画ではそうなんです)、台本のなかで自らを罰する(もちろん「地獄落ち」のシーンが出てくる)。サリエリはそれを見て取り、「父」をモーツァルトを破滅を導くために利用することを思いつく。ううむ、なんて巧いんだ。
 すべての逸話が全体と絡み合い、無駄なエピソードがないために3時間がまったく長く感じられない。「後宮」「フィガロ」「魔笛」などの舞台も出てくるが、それぞれ音楽史とドラマとの絡め方が巧妙である。そもそも音楽史ではほとんど埋もれていたサリエリを掘り起こして人物造形を与えた点だけとっても優れたアイディアだ(この映画と原作である戯曲の脚本家ピーター・シェファーは元ブージー・アンド・ホークスの楽譜編集者なんだそうだ)。
 ドラマ、音楽、映像、役者、どれをとっても完成度の高い名作であると改めて感動。ラストのサリエリの台詞も味わい深い。「私は汝ら凡庸なるものの守り神(=champion)である」。まさに、然り。
(10/22/2002)
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