Books: 2010年9月アーカイブ

September 24, 2010

「シューマンの指」(奥泉 光)

シューマンの指●同じ生誕200周年なのにショパンがあちこちで華やかに祝ってもらえるのに対して、どうしてシューマンはこうもジミな扱いになるんでしょかねー、と思っていたのだが、この本を読んで溜飲が下がった。これぞ記念の年にふさわしい快作。「シューマンの指」(奥泉光著/講談社)。もし「音楽小説」っていう言葉があるなら、この小説こそその呼び名にふさわしい。
●十代にして将来を嘱望される才能あふれる美少年ピアニストと、彼に憧れと畏れを抱く音大受験生の主人公の関係を描く。二人の関係はシューマンへの音楽的共感で結ばれ、かつてシューマンがそうしたように「ダヴィッド同盟」を結成したり、「音楽新聞」を発行する真似事をしてみたりする。二人の若者はシューマンを弾き、シューマンについて語る。これが小説という形態でしか成立しえないような美しく見事なシューマン論になっているところが並の小説とは違う。完全に脱帽。しかもシューマンが題材とされるのに必然性がある話なんすよね。唖然。
●読むとますますシューマンが好きになる。シューマン猛烈ラブ! ていうか、シューマン知らない人が読んでも平気なのかと心配になるほどの音楽密度の高さ。たまらずに読書中に「幻想曲」とかピアノ・ソナタ第2番とか、次々にシューマンのCDを取り出してしまった。この一冊をもって、シューマン・イヤーがショパン・イヤーを凌駕したのだ。ショパン聴いてる場合じゃないぜっ!

September 22, 2010

「ワイオミング生まれの宇宙飛行士」

「ワイオミング生まれの宇宙飛行士」●こういう本を読みたくなる気分っていうのは何なのかと言えば、それは明らかに「ノスタルジー」。「ワイオミング生まれの宇宙飛行士~宇宙開発SF傑作選」(中村融編/ハヤカワ文庫SF)。世代的に「宇宙開発」っていうのが少年時代の夢と強く結びついており、子供の頃にアポロ計画の先にあるほぼ確実な未来として期待していたのは、「一般人による宇宙旅行」だったり「火星基地」だったり「外惑星への有人飛行」だったわけだが、結局あれから人類は月面にすらふたたび立つことなく21世紀を迎えることになろうとは。今まさに未来にいるのに、この未来はあの未来とぜんぜん違う。
●と、いう思いを抱いてる人は少なくないわけで、このアンソロジーに収められた中短篇には「ありえたかもしれない未来」を描いている作品が多い。全7篇。特にいいなと思ったのは巻頭の「主任設計者」(アンディ・ダンカン)。これはソ連の実在のロケット工学者をモデルにしていて、どこまでが実話でどこからがフィクションなのか、ワタシにはよくわからなかったのだが、特殊な体制下で職務に打ち込む寡黙な男の描かれ方が味わい深い。宇宙にどうしようもなく憧れてしまう少年の夢を見事にすくいあげているのは「月をぼくのポケットに」(ジェイムズ・ラヴグローヴ)。気の利いた小品。
●世評に高い表題作「ワイオミング生まれの宇宙飛行士」(アダム=トロイ・カストロ&ジェリイ・オルション)は「泣ける話」。美しすぎてワタシはやや苦手なのだが。「電送連続体」(アーサー・C・クラーク&スティーヴン・バクスター)は、他と比べて描いてるヴィジョンが壮大すぎて、巨匠芸の世界というか。「月その六」(スティーヴン・バクスター)は秀作。可笑しいんだけど郷愁も感じさせるという離れ業。
●版元のサイトをたどっても全7篇のタイトルと作者名が載っていないという書誌情報の乏しさは謎。

September 9, 2010

「観光」(ラッタウット・ラープチャルーンサップ著)

観光●なんという味わい深い短篇集。どれも切なくて、美しくて、救いがなく、少しクレージーで、でも前向き。「観光」(ラッタウット・ラープチャルーンサップ著/ハヤカワepi文庫)。著者はタイ系アメリカ人。物語の舞台はタイで、外国から見たトロピカルでエキゾチックなタイの裏側にある、タイ人から見たタイがとても新鮮。神様ではなく仏様の国はこうなのかあ、いやワタシらもそうなんだけど。おおむね、どの話も居場所を見つけられない人々、疎外感を抱えて生きる人たちが描かれていて、行ったことも見たこともない土地の話なのに、そこには「ワタシ」がいるという軽い驚き。
●巻頭の「ガイジン」がいい。タイ人のママとガイジンの間に生まれた少年が主人公で、飼っているブタに「クリント・イーストウッド」って名づけている。もし熱帯に「蝶々夫人」があったとしたら、蝶々さんとピンカートンの間に生まれた少年はこんな風に育って、ガイジンの娘と出会ったりしているにちがいない(笑)。主人公の周囲にはガイジンの南国幻想に対する辛辣な視点があちこちに垣間見えるんだけど、当人はカラッとしていて、そこがまたいい。
●「プリシラ」もすばらしい。タイにはカンボジア難民という疎外された人々がいるんすね。この難民を排斥するタイ人という視点はなかった。でもボーイ・ミーツ・ガールであって、辛気臭い話にあらず。疎外感という意味では「こんなところで死にたくない」は最強。アメリカ人のジジイが、現地人と結婚した息子を頼ってタイに暮らすんだけど、息子夫婦と孫たちがしゃべってる言葉もわからないし、体の自由は利かないし、出かけても行くところなんてなくて、もう思い出にしか自分の居場所は見つけられない。でも生きる。
●いちばんの傑作は最後の「闘鶏師」かな。闘牛とか闘犬じゃなくて闘鶏に溺れるオッサンの話を、その娘の目で描く。悲しくて笑える。オヤジにも奥さんにも娘にも共感可能。技巧的でもある。
●奇跡のような秀作ぞろいだが、この作家の名前が覚えられない。ラッタウット・ラープチャルーンサップ。姓だけでも10回くらい繰り返して言ってみよう、他人に勧めるときのために。ラープチャルーンサップ、ラープチャルーンサップ、ラープチャルーンサップ、ラープチャルーンサップ、ラープチャルーンサップ……。

September 3, 2010

「つながり 社会的ネットワークの驚くべき力」(ニコラス・A・クリスタキス、ジェイムズ・H・ファウラー著)

つながり●これは驚いた。この「つながり 社会的ネットワークの驚くべき力」を読もうと思ったのはなにがきっかけだったか、たぶんクラウド時代の社会的(ソーシャル)ネットワークが云々みたいな惹句が目に飛び込んできたからなのかもしれない。でも読んでみたら、もっと根源的な人と人の関り方が個人やグループに対してどのような作用を及ぼすかという本だった。つまり恐ろしく実用的な書物だった。実用って何のための? もちろん、生きるための。
●以前、「六次の隔たり」について書いた。一次の隔たりは友人で、二次の隔たりは友人の友人だ。で、友達の友達のそのまた友達の……と平均六次の隔たりを経ることで世界中の誰とでもつながるという理屈がある。事実、ワタシと元ブラジル代表のロナウドの関係も「六次の隔たり」にある。だが、本書で知ったのはむしろ「三次の隔たり」までの重要性だ。社会的ネットワークにおいて、人の影響力は「三次の隔たり」まで及ぶが、そこより遠くまでは届かないという(なおここでの友人というのは「知人」くらいの意味合いで、「親友」みたいなノリではない)。
●いくつか覚えておきたいことがあるので、自分のための備忘録として、以下にざっと書き出し。
●「他人の幸福」が持つ影響力。社会的ネットワークの統計分析によれば、「一次の隔たり」にある人(友人とか家族とか同僚とか直接つながっている人)が幸福だと、本人も約15%幸福になる。それはまあわかる、しょっちゅう顔を合わせるわけだから。しかしネットワークの影響力はもっと広範に及ぶ。「二次の隔たり」(友人の友人)に対しても幸福の効果は約10%及び、「三次の隔たり」(友人の友人の友人)ですら約6%の効果がある。感情はネットワークを通して、一面識もない人にまで伝播するのだ。
●新たに人と知り合う場合について。ある人が幸福な友人を持つと、本人が幸福になる可能性は約9%増大する。一方、不幸の感情も伝染する。ある人が不幸な友人を持つと、本人が幸福になる可能性は約7%減少する。ということは、おおむね人と知り合ったほうが自分も幸福になるチャンスは増えそうだ。人が友人を増やそうとするのは、その行為に統計的優位性があるからともいえる。
●腰痛は社会的ネットワークを通じて広がる。肥満、喫煙(禁煙)と同じように。
●「弱い絆」は新しい情報の宝庫。転職する、恋人を見つける、有益な情報を求めるといった場合、人は「友人」のような強固な関係よりも、「友人の友人」のように二次あるいは三次の隔たりのようなやや遠い関係、「弱い絆」に頼ることが多い。距離の近い友人が知ってることはだいたい自分も知ってること。だから新しい出会いや情報、イノヴェーションは友人の友人くらいからしばしばもたらされる。なるほど、だから人はたとえほとんどの参加者と一度きりの関係だとしても立食パーティとか合コンに顔を出すわけだ。友人を増やすためというより、友人の友人を増やすために。
●遺伝子は友人同士のつながりに強い影響を及ぼす。推移性(友人のうち任意の二人が互いに友人である性質)の高低は47%が遺伝で説明できる。また、孤独の感じ方の差異のおよそ半分は遺伝子に左右される(逆に言えば半分しかない)。
●宗教において神は構成員全員と結びつきを持つ社会的ネットワークの一員と見なせる。だれもが神と「一次の隔たり」にあるので、すべての人の関係は「二次の隔たり」以下に収まることになる(鋭いなあ)。
●最終章はインターネット時代の社会的ネットワークについて割かれている。ここは現在進行形の部分だから、まだまだわからないことが多い。が、おおむね人はネット上でも従来の社会的ネットワークの原理に従って行動していることがわかる。SNSやTwitterはまさにその典型。でもこの章が唯一意外性に欠ける。

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