●今季のJ1リーグ、マリノスは9位で終了。15勝16敗7分。よく負けた。選手層が足りていないのにACLやカップ戦で尋常ではない過密日程になり、ボロボロになって戦い抜いたシーズンだった。ハリー・キューウェル監督が成績不振で途中解任、途中から監督実績のないジョン・ハッチンソンが暫定的に指揮したが、今季で退任する。来季はイングランド代表でコーチだったスティーブ・ホランドが率いるらしいのだが。
●で、J1は神戸が2連覇。しばらくの間、川崎やマリノスのようなボールを保持してパスをつなぐチームが勝ってきたが、昨年から流れが変わった。今季の1試合平均パス本数は、上から新潟、マリノス、浦和、川崎、札幌。つなぐチームはみんな苦戦した印象だ。逆にパスの少ないチーム、神戸や町田が成功している。サッカーはパスをつなぐほど、そしてボールを保持するほどミスが増えるスポーツだとモウリーニョが言ってたっけ。つなぐのは損。しかし……ってところに現代サッカーの肝がある気がする。
●J2からは清水と横浜FCが自動昇格、プレイオフで下克上が起きて5位の岡山が昇格することに。長崎は残念だった。J3からは大宮と今治がJ2に昇格。岡田武史オーナーが一から作ったFC今治がついにJ2まで上がってくることに。個人の壮大な夢がここまで形になっていることに驚嘆。
●すごいのは栃木だ。栃木SCはJ2から降格してJ3に行く。一方、JFL(4部相当)で栃木シティが優勝し、J3への昇格を果たした。つまり、来季はJ3で栃木SCと栃木シティの栃木ダービーが実現するわけだ。ここでまちがえやすいのは、栃木SCは宇都宮市が本拠地、栃木シティは栃木市(という市がある)がホームタウンという点。県外の人間は混乱しそう。まあ、東京交響楽団と東京都交響楽団と東京フィルハーモニー交響楽団があってぜんぶ別団体みたいなもので、慣れればなんとも思わなくなるのかもしれないが。
●JFLでは横河武蔵野FCが最後の最後で逆転で残留を決めた。かつてはJへの門番と呼ばれた時期もあったが、紆余曲折あって、今はこうなっている。今季は1試合しか足を運べなかったが、来季はもっと行きたいものである。
-----------
●宣伝を。テレビ朝日「題名のない音楽会」、今週末の放送は「ミュージカルをミュージカルで説明する音楽会」。ミュージカル特集をするにあたって、司会やトークもぜんぶ歌にしてしまったらどうかというメタ・ミュージカル回。いいと思うんだけど、どうだろう?
2024年のJリーグをふりかえる
イザベル・ファウスト&ジョヴァンニ・アントニーニ指揮イル・ジャルディーノ・アルモニコのモーツァルト
●11日は東京オペラシティでイザベル・ファウストとジョヴァンニ・アントニーニ指揮イル・ジャルディーノ・アルモニコによるモーツァルトのヴァイオリン協奏曲全曲演奏会の第2夜。第1夜は聴けなかったので、この日のみ。プログラムはモーツァルトのヴァイオリン協奏曲第2番ニ長調、グルックのバレエ音楽「ドン・ジュアンあるいは石の宴」、モーツァルトのロンド ハ長調K373、ヴァイオリン協奏曲第5番イ長調「トルコ風」。舞台後方に管楽器用の雛壇が組んであるのだが、イル・ジャルディーノ・アルモニコの弦が立奏するため、雛壇がけっこう高く、横一列で並ぶ。弦は4-4-2-2-1、だっけ。
●モーツァルトのヴァイオリン協奏曲、ぜんぶ10代のごく短期間に作曲されているけど、第2番と第3番の間の跳躍がすごい。と、第2番を聴いて改めて実感。こういう機会でもないと聴けない曲。グルックの「ドン・ジュアンあるいは石の宴」は初めて聴いたかも。おもしろい。モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」と同じ題材だけど、こちらはバレエ音楽。とはいえ、一貫したストーリー性があり、音楽には物語に応じた描写性がある模様。モーツァルトのオペラがおどろおどろしいムードの序曲で始まって、最後はおめでたく幕を閉じるのとは反対で、グルックのバレエは調子のよい朗らかなシンフォニアで始まって、最後は突風が吹き荒れるような恐ろしい地獄の音楽で終わる。このあたりは人称の違いというか、モーツァルトのオペラはドン・ジョヴァンニが地獄に落ちて「ざまぁ」みたいな三人称視点だけど、グルックはドン・ファンの一人称視点で地獄を描いている。地獄の音楽の迫力はさすがアントニーニとイル・ジャルディーノ・アルモニコ。スペイン趣味も取り入れられた曲で、後半のトルコ趣味と呼応する。
●モーツァルトのロンド ハ長調K373は、いかにも協奏曲のフィナーレといった仕立て。ブルネッティが弾くために書いた曲ということだが、その際にはだれかの第1楽章と第2楽章がくっついていたのだろうか。「トルコ風」はかつて聴いたことのないほどヴィヴィッド。独奏ヴァイオリンもHIPなスタイルで、アンサンブルと一体となって作品に命を吹き込む。ノン・ヴィブラートをベースとしたざらりとした質感の響き、強いアクセント、大胆なダイナミズム。アントニーニの全身を使った指揮による抜群の推進力。アンコールは2曲。まずはファウストが無伴奏で、ニコラ・マッテイスSrのヴァイオリンのためのエア集よりパッサッジョ・ロット。これは以前にもファウストのアンコールで聴いた気がする。さらにもう一曲、全員でハイドンの交響曲第44番「悲しみ」より第4楽章。これも強烈な嵐のような音楽。大喝采。
●終了後、CD購入者にサイン会あり。長蛇の列ができていた。
パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィルのモーツァルト他
●毎年12月上旬はコンサートラッシュになりがち。これは12月後半のオーケストラ公演が「第九」一色になるため、それ以外の通常公演が前倒し気味になることによる「年末進行」なんだと思っている。
●で、9日は東京オペラシティでパーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィル。パーヴォはこの楽団の芸術監督に就任して20周年を迎えたのだとか。今の時代にこの継続性は立派というほかない。しかも、継続的に来日公演を行ってくれて、毎回が新鮮。今回のプログラムは前半がシューベルトのイタリア風序曲(第2番)D591、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲(樫本大進)、後半がモーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」。本来ならヒラリー・ハーンがソリストを務める予定だったが、体調不良により樫本大進が代役として登場。ヒラリー・ハーンを聴けなかったのは残念すぎるが、しかし代役に樫本大進はびっくり。ブレーメンの室内オーケストラの来日公演に、ベルリン・フィルのコンサートマスターがソリストとして出演しているわけだ。
●シューベルトのイタリア風序曲、イタリア風というかロッシーニ風なわけだが、陰キャが陽キャを装ったようなところがあって、陽気で軽快なのにたまにシューベルトの地が垣間見える雰囲気が楽しい。ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲では樫本大進が堂々たるソロ。輝かしく、流麗。オーケストラはHIPなスタイルで、ゴツゴツした手触りがあり、組合せの妙味。アンコールにバッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番よりラルゴ。
●後半が「ジュピター」のみなので、前半が重いプログラムだと思っていたら、この「ジュピター」がすごかった。パーヴォらしい引き締まったサウンドでぐいぐいと進むのだが、練り上げられた解釈で随所に仕掛けが満載。小編成ならではの機動力があり、管楽器の各パートがとてもよく聞こえる。最大の聴きどころ、終楽章のコーダでは高解像度の混沌が祝祭性を生み出す。実のところ、「ジュピター」は演奏頻度が高いわりに満足できる演奏にはめったに出会えないのだが、この日の演奏はこれまで記憶にないほどスリリングで、高揚感にあふれていた。
●アンコールにこのコンビの定番、シベリウスの「悲しきワルツ」。とことん磨き上げられた十八番。超絶ピアニッシモを駆使しながら幻想の世界へ誘う。客席の反応もよかったのだが、なぜかソロ・カーテンコールにならず。
パトリツィア・コパチンスカヤ&カメラータ・ベルン
●8日は彩の国さいたま芸術劇場音楽ホールでパトリツィア・コパチンスカヤ&カメラータ・ベルン。久々の与野本町。プログラムはパトコップ(=コパチンスカヤ)の「怒り」(2012)、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ニ短調、シューベルトの弦楽四重奏曲第14番「死と乙女」(コパチンスカヤ編/弦楽オーケストラ版)。期待通り、コパチンスカヤ色が全開になったエキサイティングな公演だった。一曲目はコパチンスカヤ自身の作品で「怒り」。作曲家名がパトリツィア・コパチンスカヤの愛称ということなのか「パトコップ」と記されているのは、どういうキャラ設定なんだろう。叫びや感情の爆発を写し取ったような曲想に、発話的あるいは対話的な部分が挟まれる。ふっと宙に消えるように終わると、そのまま続けてメンデルスゾーンへ。この展開は劇的。メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲といっても有名なホ短調ではなく、弦楽器だけで演奏できるニ短調。冒頭部分から疾風怒濤期のハイドンを連想させる。目まぐるしい感情の変転はエマヌエル・バッハ的とも。コパチンスカヤもカメラータ・ベルンも鋭く峻烈で、メンデルスゾーンを再創造するかのよう。
●たぶん、この曲、有名な「メンコン」のほうだと思い込んで足を運んだ人もいたはずで、相当びっくりしたのでは。「メンコン」と区別するためになにか愛称が必要だと思う。たとえば、発見者にちなんでヴァイオリン協奏曲「メニューイン」と呼ぶとか?
●後半のシューベルト「死と乙女」はコパチンスカヤを含めて弦楽器4-4-3-2-1の編成。これも壮絶。奏者全員が一丸となってメガ・コパチンスカヤ化している。ノンヴィブラートをベースとした乾いた音色で、切れ込み鋭く、ダイナミクスの幅が大きい。激烈なアッチェレランドもあれば、消え入るような最弱音も駆使する奔放自在のシューベルト。第4楽章でコパチンスカヤの楽器の弦が切れたようで、即座に隣の奏者と楽器を交換して弾き続けた。楽器を交換された奏者はしばらくその場にたたずみ、頃合いを見て袖に下がって、最終盤に復帰、ふたたびコパチンスカヤと楽器を交換。ただでさえスリリングな演奏に、別のスリルが加わった。
●客席の大喝采と歓声にこたえて、アンコールにバルトークのルーマニア民俗舞曲より。爆発的な盛り上がりで、本来ならこれでおしまいだったと思うのだが、この日はNHKの収録が入っていた。コパチンスカヤが登場して、NHKのために「死と乙女」の終楽章をもう一回演奏するけどいいかなー的なアナウンスをして、もう一度。これが「撮り直し」っぽくならないように、ふたたび渾身の演奏をしてくれたのだが、客席側の雰囲気はだいぶリラックスしたムードになっていたかも。アクシデントのおかげでアンコールを2曲も聴けたのはお得。
ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団のシェーンベルク&ベートーヴェン
●7日はサントリーホールでジョナサン・ノット指揮東京交響楽団。シェーンベルクのヴァイオリン協奏曲(アヴァ・バハリ)とベートーヴェンの交響曲第5番「運命」というプログラム。シェーンベルクのヴァイオリン協奏曲の独奏者は現在売り出し中の若手、スウェーデンのアヴァ・バハリ。この曲をすっかり手の内に入れている様子。12音技法を使った作品であるが、尖鋭さよりも、作品の抒情性あるいは官能性が浮かび上がる。シェーンベルクは演奏頻度からいえば後期ロマン派スタイルの作品で名を残した作曲家だと感じてたけど、生誕150年の今年はヴァイオリン協奏曲を2回も聴けた。もっともこの曲、晦渋ではある。ソリスト・アンコールはクライスラーのレチタティーヴォとスケルツォ。途中のファンファーレ風動機のところで、前にもアンコールで聴いたことがある曲だと思い出す。
●後半は「運命」。以前にも同コンビでとりあげていたと思うが、そのときは聴けなかったので、ふたたび演奏してくれて嬉しい。冒頭の運命の動機が少し特徴的で、おしりが心持ちクレッシェンド気味になる「飛び出す運命」。速めのテンポで機敏なのだが、鬼気迫るといった重さ一辺倒ではなく、ときには柔らかく、うねるようであり、息づくようでもある「運命」。ノットの動きにオーケストラが鋭敏に反映して、一体化している。第4楽章のピッコロがすごく効いていて、オーケストラが翼を広げて羽ばたいているみたいに聞こえる。ノット監督は26年3月の退任が発表済み。それが頭にあるからなのか、過去を振り返るようなしみじみした気分も感じてしまう。盛大な拍手喝采と、ソロ・カーテンコールあり。
●正味の演奏時間が短めのプログラムだと思ったけど、終わってみたらそんなに短くもなかった。ソリスト・アンコールもあったし、「運命」のリピートもあったので、そんなものか。
●翌日のミューザ川崎での同プログラムが期間限定でニコ響で公開されている。ありがたいことである。
ファビオ・ルイージ指揮NHK交響楽団の「展覧会の絵」他
●5日はサントリーホールでファビオ・ルイージ指揮N響。スメタナの「売られた花嫁」序曲、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番(ネルソン・ゲルナー)、ムソルグスキー~ラヴェル編の組曲「展覧会の絵」というスラヴ・プログラム。「売られた花嫁」序曲はキレがあり爽快。数あるオペラの序曲のなかでも屈指の名曲だと思う。ネルソン・ゲルナーを聴くのはかなり久しぶり。ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番は完成度が高く、均整がとれていて、ロマンと高揚感も十分。パワフルというよりはリリカル。第3楽章は大いに盛り上げてくれた。ソリスト・アンコールにラフマニノフの「リラの花」。細部まで彫琢され、繊細。
●「展覧会の絵」ではカラフルなラヴェルのオーケストレーションを堪能。つい最近、同じホールでアルティノグル指揮フランクフルト放送交響楽団の演奏を聴いたばかりだけど、ルイージ&N響はずっと明るく華やかな音で、ラヴェルのキャラクターが前面に出ている。N響のフレキシビリティの高さを感じる。圧巻は「キエフの大門」で、金管セクションの音色がまろやかで壮麗。カーテンコールではトランペットに盛大な拍手。
--------
●宣伝を。イオンカードの会員誌「mom」12月号のmom's viewのページで、今どきのクラシック音楽の楽しみ方について語っている。1ページのコーナー。似たようなパターンで、岩谷産業の会員向け情報誌「ムティ」10月号の「クラシック音楽を楽しもう」にも登場した。どちらも先方から顔写真のリクエストあり。こういうときに写真が実物より若いと微妙にばつが悪いので、プロフィール写真はちょくちょく更新するようにしている。
岐阜県美術館 「オディロン・ルドン 光の夢、影の輝き」
●11月の東海シリーズ第3弾、宗次ホール、豊田市美術館に続いて、岐阜市の岐阜県美術館へ。目的は「オディロン・ルドン 光の夢、影の輝き」(~12/8)。岐阜駅は名古屋駅から東海道本線で20分ほどで、かなり近い。もともと岐阜県美術館は約260点ものオディロン・ルドンのコレクションを持っていて、収蔵品だけでもかなり立派な展覧会を開けるのだが、そこに各地の美術館やギャラリーが所蔵するルドン作品を集めて、約330点というとんでもない規模のルドン展が実現した。またとない機会なので、宗次ホールの前に足を延ばす。広々とした敷地にある落ち着いた美術館。
●日曜日の開館に合わせて訪れたが、人は疎ら。もし都内で大ルドン展が開催されたら、週末だろうが平日だろうが大混雑の中でベルトコンベア鑑賞を強いられることは必至。演奏会は東京が圧倒的に恵まれていると思うが、美術展に関してはこのあたりに中規模都市の絶対的な優位がある。気に入った作品をのんびり好きなだけ見ていられる。
●とにかく作品数が膨大すぎて一度にはとても見切れない。すごい迫力。おもしろかったのは同じ版画が複数並んでいたりするのだが、これが意外と違うのだ。刷り方によるものなのか、明るさが違っていると作品の印象もけっこう変わる。全体を眺めて印象的だった点をキーワードとして挙げると、ブリュンヒルデ、パルジファル、仏陀、オフィーリアなど「ハムレット」関連、神話、挿画、花。惜しいのは写真撮影が全面禁止だったこと。こうして話題にしていても肝心の絵がないので寂しい。もっともルドンはパブリックドメインなんだから、絵柄そのものは好きに使えるわけで、なんだか悔しいから一点、ここに貼っておこう。「仏陀」(1904年)オルセー美術館蔵。この展覧会の絵じゃなくてごめん。左上にうっすらとミッキーがいる気がする(いません)。
●岐阜県美術館へのアクセスは、岐阜駅からバス、あるいはJR西岐阜駅から徒歩15分弱。バスの本数は少ない。でも西岐阜駅に止まる電車の本数も少なめ。どっちでもいいから検索して先に着くほうを選んだら、西岐阜駅から歩くことになった。車はたくさん通るが、あまり人は歩いていない。帰りはバスにしようと思ったが、どのバス停に乗ればいいのかパッとわからなかったので、めんどうになって西岐阜駅まで歩く。決して歩いて楽しい道ではないので、バスのほうがよかったかも?
鈴木優人指揮読響とベルリンRIAS室内合唱団のベリオ&モーツァルト
●3日はサントリーホールで鈴木優人指揮読響。前半がベリオのシンフォニア、後半がモーツァルトのレクイエム(鈴木優人補筆校訂版)で、ベルリンRIAS室内合唱団、ジョアン・ラン(ソプラノ)、オリヴィア・フェアミューレン(メゾ・ソプラノ)、ニック・プリッチャード(テノール)、ドミニク・ヴェルナー(バス)が招かれるというデラックスなプログラム。きわめて濃密な一夜。ベリオは来年が生誕100年、モーツァルトは2日後が命日だったので、ダブル「一足早い」プロでもある。
●ベリオのシンフォニア、録音では早くに出会った曲だけど、ライブでは聴いたことがあったかどうか……。実際に聴いてみてずいぶん印象が改まった。全5楽章からなり、真ん中の第3楽章が多数の楽曲を引用した高密度コラージュ楽章。前半、いろんなテキストの引用があるが(ソリストはベルリンRIAS室内合唱団メンバー)、もともと言葉がわからないし、きっとわかっても聴きとれないし意味も理解できない。第3楽章になるとマーラー「復活」第3楽章というはっきりした下敷きのうえで、次々といろんな曲の断片があらわれて、同様にかなりのところは聴きとれないし、即座に意味を考える余裕もない。わかりやすいのはドビュッシー「海」、ラヴェル「ラ・ヴァルス」、ベルリオーズ「幻想交響曲」、ストラヴィンスキー「春の祭典」といったところだが(たまたまなのかフランス系の音楽ばかりだけど)、ほかにもいっぱいある。近接的に眺めると引用の集積だけど、遠目に見るとひとつの作品としての形が浮かび上がってくる。そういう意味では絵画的かも。ざっくり大雑把に感じたのは、前半は豊麗な歌の音楽、後半は熱を帯びたスリリングな音楽。とくにおしまいの部分、宙に消える一点に向かって驀進する感じは得難い体験。客席は大喝采。カーテンコールで音響の有馬純寿さんも呼ばれてステージに上がる。
●後半はぐっと音像がコンパクトになってモーツァルトのレクイエム。すっきりと清新な管弦楽にベルリンRIAS室内合唱団の柔らかく温かみのある声が重なる。合唱団は33名かな。声が芳醇というか、色が濃い。鈴木優人補筆校訂版は従来からのジュスマイヤー版をベースにしつつ、随所に違いがある模様。ジュスマイヤー版に存在しないのは、「ラクリモーサ」の後の「アーメン・フーガ」。これは1962年に発見されたモーツァルトのスケッチをもとにしたフーガ。このスケッチを使う例はこれまでの補筆例にもあったとは思うが、モーツァルトの主題がけっこう特徴的で、虚ろというか漂泊するような雰囲気があって全曲のなかでアクセントになっている。ジュスマイヤー版に慣れてしまうと「ラクリモーサ」のおわりからサッと駆け抜けるように「ドミネ・イエス」に入るものと思い込んでしまうが、ここにフーガが入ると一区切りできる。もともと高いフーガ密度がいちだんと高まって、堅牢さを感じる。演奏終了後、盛大な喝采に続いて独唱陣も合唱に加わって、モーツァルト「アヴェ・ヴェルム・コルプス」。ぜいたくなアンコール。