Books: 2013年8月アーカイブ

August 26, 2013

「読んでいない本について堂々と語る方法」(ピエール・バイヤール著/大浦康介訳/筑摩書房)

読んでいない本について堂々と語る方法●「げげ、そろそろ夏休みが終わるのに、まだ読書感想文を書いていないし、課題図書も読んでいない!」。8月も終盤に突入、そう頭を抱えている生徒の皆さんも多いのでは。大丈夫、安心してよい。当ブログを読んでくれている中高生諸君のためにステキすぎる一冊を紹介しよう。「読んでいない本について堂々と語る方法」(ピエール・バイヤール著/筑摩書房)。これがあれば本など読まずして、すいすいと感想文を書ける。そればかりか、読書について、あるいは批評について、見識を深めることができる。まれに見る読書家オスカー・ワイルドは一冊の本を読むのに適した時間は10分だと書いた。ポール・ヴァレリーは自分が本をほとんど読まないことを公言し、むしろ読書の危険性を指摘して「作品も作者も必要としない」という批評概念を披露した。

 書物にたいするヴァレリーのこの不信感は、まずは伝記類に向けられている。ヴァレリーは、文学批評の領域では、広く一般に認められていた、一個の作品とその作者とをつなぐ紐帯の存在を疑問に付したことで有名になった批評家である。なるほど19世紀の批評伝統においては、作者のことを知ることは作品を知る一助となるので、作者についてできるだけ多くの情報を集めるのがよいとされていた。
 この批評伝統との決別をはかったヴァレリーは、反対に、作者についての知識は作品の説明には結びつかないと主張した。 (p.30)
 作者も作品も必要としないというヴァレリーの批評概念は、けっして突飛な概念ではない。それは彼の文学概念そのものに根ざしている。ヴァレリーの文学概念を支える主要な考えのひとつは、作者が無用であるだけではなく、作品も余計だというものである。(中略)極論すれば批評家は、作品に目をつむり、作品の可能態に考えを向けることではじめて、批評の真の対象を感知することができる。(p.44, 45)

●読書感想文を書くとなったときに、生徒の皆さんにとっての典型的な悩みは、自分は正しくその本を読めているのかどうか、自分の読み方は否定されるのではないか、という心配だろう。しかし本書で明快に論じられているように、一冊の本をAさんが読みとった内容と、Bさんが読みとる内容は異なる。これを説明するにあたって本書では「内なる書物」という概念が用いられる。ほぼ無意識下にある想像上の書物である「内なる書物」は、新たに本を読んだときにフィルターの役割を果たして、テクストの解釈を決める。当然のように作者の「内なる書物」と読者の「内なる書物」も異なる。これは自分の立場を中高生ではなく、仮想的に本の書き手の立場に置いてみればたやすく想像できる。本を書く人間でなくても、なんらかのテクストを日常的に書いていれば、以下の一節には深くうなずけるはず。

 自分の本について、注意ぶかい読者とゆっくり話をしたり、長いコメントを読んだことのある作家なら誰でも、この「不気味さ」の経験を味わっている。作家はそこで、自分が言いたかったことと他人が理解したことのあいだの呼応関係の欠如に気づくのである。もっともこれは、作家の〈内なる書物〉と読者の〈内なる書物〉の違いにもとづくのであって、そう考えるなら何ら驚くべきことではない。読者がいくら自分の〈内なる書物〉を作家のそれに重ねあわせようとしても、作家がそれを自分のものと認めることはまずないのである。(p.123)
 まず、作家が一番よく自分の本を知っており、それを正確に思い出すことができるということからして、それほど自明なことではない。(p.125)

そもそもひとたび世に出た作品に対して、作者の特権性というものはない。作者にすら否定できないものをあなたの国語教師に否定されることを心配する必要はない。
●本書の終盤ではオスカー・ワイルドの著作「芸術家としての批評家」を引用しながら、創造と批評の関連が(すなわち両者の不可分の関係性が)論じられる。ワイルドは二人の人物の対話という形で論を進め、批評が対象となる作品から独立的であるべきであり、作品は批評のための口実に過ぎないこと、最高の批評は創作よりももっと創作的であることを述べる。

 極端にいえば、批評は、作品ともはや何の関係ももたないとき、理想的な形式にたどり着く。ワイルドのパラドックスは、批評を自己目的的な、支える対象をもたない活動とした点にある。というより、支える対象をラディカルに移動させた点にある。別の言い方をすれば、批評の対象は作品ではなく──フロベールにはどんなブルジョワ田舎女でもよかったように、どんな作品でも間に合うはずなので──、批評家自身なのである。(p.208)

批評の独立性、自己目的性というのはある種の常識に登録される一方で、現実的には風変わりに思われることもままあることなので、人によってはピンと来ないかもしれない。でもこれとほぼ同じような内容の事柄を登場人物に言わせている小説がある。平たく表現するとこうなる。

「邪魅の雫」(京極夏彦著)より

「よい評論とはおもしろい評論のことなのだ。取り上げた作品の絶対的価値を定めるような代物では金輪際ない」
「書評は、先行するテクストを材料にした二次的な読み物だ」
「良い評論と云うのは小説以上に創意工夫が必要なのさ。構築的で論理的で、尚且つ読ませる努力がなくちゃいけない。つまり─読み物だ」

●というわけで、どうだろう、本を読まずして立派な読書感想文を書けることに確信を抱けたのではないだろうか。ちなみに今年の8月31日は土曜日である。すなわち、9月1日の日曜日も夏休みの宿題に費やすことができる。9月1日が実質的に8月32日として機能するという僥倖。祈る、健闘。

August 22, 2013

「ジャン・シベリウス 交響曲でたどる生涯」(松原千振著/アルテスパブリッシング)

ジャン・シベリウス 交響曲でたどる生涯●シベリウスの評伝というと、これまでに「シベリウス ― 写真でたどる生涯」(マッティ・フットゥネン著/音楽之友社)、「シベリウスの生涯」(ハンヌ=イラリ・ランピラ著/筑摩書房)があったが、今やどちらも入手困難。で、そこに待望の新刊「ジャン・シベリウス 交響曲でたどる生涯」(松原千振著/アルテスパブリッシング)が登場した。著者は合唱指揮者で、北欧での演奏経験も豊富。
●で、評伝といいつつも副題に「交響曲でたどる生涯」とあるように、作品解説をさしはさみつつ生涯をたどるという独特の構成になっている。本文正味170ページほどに評伝と作品解説の両方が含まれるので、さすがに評伝部分は細部まで綿密に生涯を追いかけるといった構成にはなっていないが、コンパクトに読みやすくまとまっているのが吉。作品解説も読み甲斐がある。リファレンス的な研究書というよりは、闊達な筆致で綴られた読み物としてのおもしろさに魅力を感じる。逆に巻末に添えられた作品リストは基礎資料として非常に有効。
●シベリウスの過度の飲酒癖については、よく知られていると思う。本書では「交響曲第7番」の章で、演奏旅行中にシベリウスは酒気を帯びてコンサートに臨み、アイノ夫人からたしなめられたことや、あるコンサートでは手の震えが止まらずアルコールの力を借りて乗り切ったことが述べられている。

 アルコールの問題は深刻であった。健康にかかわるというような単純なことではなく、その当時フィンランドでは禁酒の法律が出ていたのである。そして1922年4月、特例を認めない完全禁酒法が施行された。ところがシベリウスは医師から特別に酒を、それも強い酒を得ていた。(p117- )

これは盲点。フィンランドには厳格な禁酒法時代があったんすね。
●秘書レヴァスの記憶として、シベリウスが死の2か月ほど前に「『クレルヴォ』『レンミンカイネン組曲』を入れて私の交響曲は9曲になった」と語っていたという話もおもしろい(p130)。もうとっくに「第8番」はあきらめていた(燃やした?)だろうから、「もう9曲書いたんだからこれでおしまいでいいじゃないの、やれやれ」的なニュアンスだったんだろうか。シベリウスもマジックナンバーとしての「第九」を意識していたというのがおかしい。

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