November 25, 2015

ジョナサン・ノット&東響のリゲティ~ショスタコーヴィチ

●23日はミューザ川崎でジョナサン・ノット指揮東響。完璧なプログラムというものがあるとすれば、これだろう。リゲティの「100台のメトロノームのためのポエム・サンフォニック」、バッハ~ストコフスキー編の「甘き死よ来たれ」、R・シュトラウスの「ブルレスケ」(エマニュエル・アックス)、休憩をはさんでショスタコーヴィチの交響曲第15番。テーマは生と死。
●入場すると、前半の3曲は拍手を入れずに切れ目なく演奏すると記された注意書きが手渡された。というか、開場の時点ですでにリゲティは始まっているんである。舞台上で100台のメトロノームが時を刻んでいた。リゲティのこの曲では、異なるテンポに設定された100台のメトロノームが一斉に動き、すべて止まった時点で曲が終わる。そもそもオケのレパートリーでもなんでもないのだが、東響は100台のメトロノーム(もちろん機械式の)をこの演奏会のために調達して、舞台上に並べた。まず会場に入ってなににびっくりしたかといえば、「えっ、100台ってこんなに少ないんだ」。なにせ舞台が広いので……。なんなら1000台くらい置けそう。舞台上には次の曲を続けて演奏するためにオーケストラの椅子や譜面台がすでにセットされ、左右のほんの一角に各50台のメトロノームが配置されていた。この左右に分けるというのが、ステレオ効果というか(席によっては)遠近感を作り出していた。
●多数のメトロノームが動いている間は、ざわざわとした不規則なノイズ(まるで排水管から出てきそうな音)だったのが、どんどんと動作台数が減るにしたがって、パルスになる。漸次的な変化、偶発的に生まれるリズムがおもしろい。リゲティの演奏中に、袖から静かに楽員たちとノットがそっと入ってくる。メトロノームの最後の一台が止まると、すぐに「甘き死よ来たれ」が奏でられた。もうゾクゾクする。無機物であるメトロノームの停止が、どうしたって生命の終わりにしか思えなくなる。ストコフスキ編曲の饒舌なロマン性がこれほど生かされる場面もない。機械の生命への陶酔的な祈り。
●狙い通り、客席からは拍手も出ず、そのままアックスの「ブルレスケ」へ突入。この諧謔性もすごい。死んだメトロノームがティンパニの動機になって生き返って来るかのよう。躍動する生。で、ソリスト・アンコールがブラームスの最晩年の間奏曲op118-2。アンコールまで全体のプログラムの流れに沿っている(前日のサントリーホール公演ではちがう曲だった模様)。後半、ショスタコーヴィチの最後の交響曲である交響曲第15番では、「ウィリアム・テル」序曲や「トリスタンとイゾルデ」が引用され、在りし日が追想される。終楽章最後のパーカッションの刻みは、この日の最初のリゲティへとつながって円環を閉じる。既存作品の配置から大きなテーマを創り出すという、コンサートの「編集」手腕の巧みさには脱帽するしか。
●ところで、ヤマハの100台のメトロノームはどうなったのか。2回の公演を終えて、地元川崎市の中学校に寄贈されることになった。終演後、ノットがメトロノームにサインして、代表となる中学生たちに手渡すという寄贈式が行われたのであった。ノットはすばやく着替えて登場、プレス関係者が招かれてプチ取材。新品のメトロノーム100台は、川崎の学校で本来の役目を果たす。
メトロノーム 寄贈式

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