October 27, 2016

ウィーン国立歌劇場2016日本公演 シュトラウス「ナクソス島のアリアドネ」

ウィーン国立歌劇場 シュトラウス「ナクソス島のアリアドネ」
●25日はウィーン国立歌劇場日本公演でリヒャルト・シュトラウスの「ナクソス島のアリアドネ」(東京文化会館)。演出はスヴェン=エリック・ベヒトルフ、指揮はマレク・ヤノフスキ。先日の記者会見で、ヤノフスキは長らくオペラのピットから遠ざかっている理由として「演出主導のオペラのあり方には耐えられなくなったので、もうピットには入らないと決めたから。しかし物事には例外がある」として、この演出ならば許容できるのだというニュアンスで語っていた。ステファン・グールドも言っていたように、「ノーマルで、音楽や人物像を壊すことがない」正攻法の舞台。もともと作品自体がメタオペラ(オペラについてのオペラ)という変化球なので、野心的な演出を要さずとも作品の現代性は約束されている。
●配役はプリマドンナ/アリアドネにグン=ブリット・バークミン、ツェルビネッタにダニエラ・ファリー、作曲家にステファニー・ハウツィール、テノール/バッカスにステファン・グールド。さすがにこの歌手陣は強力。オーケストラのサウンドもほれぼれするほどの美しさ。声がすばらしいだけではなく、容貌も役柄に合っているのがいい。いつも書いてるように「オペラは見たままに理解する」(=オペラの約束事を無条件に受け入れない)派にとっては、たとえばグールドの体格が立派であることがすごく説得力を生んでいる。だって彼の役柄はヘルデンテノールなんだから。「ヘルデンテノールがヘルデンテノールの役を歌っている」という意味で、この役は「オペラについてのオペラ」であるこの作品の肝ともいえる。
●で、写真のように舞台上には奥に客席が設置され、その手前で後半の劇中劇が演じられた。わたしたちは客席から舞台を見て、その舞台の奥にセットの客席があるという趣向(先日の記者会見では、記者たちがあの舞台上の客席に座り、手前に舞台奥に向けてひな壇が設置されていたのだ)。芸術作品の自己言及性というのはポストモダンのキーワードみたいなもので、たとえばどんな巧みなストーリテラーであっても、文学作品として小説を書こうと思ったら、波瀾万丈の物語だけでは作品を成立させきれず、どこかで「書くことについて書く」ことを避けられない。同じようにこのオペラは「オペラを書くことについて書いた」オペラであるわけだが、シュトラウスとホフマンスタールは今からちょうど100年前にこの舞台を実現していたのだから先駆性は疑いようがない。
●じゃあ、なぜ自己言及的でなければいけないのか。といえば、それはシリアスな事柄ほど、「それを書いている自分」を外側から見つめる自分という立ち位置を見せないと、恥ずかしすぎて書けないし、受け手にも共感してもらえないから(とワタシは解している)。(前にも書いたけど)真に大切なことほど、おしまいに「なんちて」の一言を添える含羞が必要。これを自分のなかでは「なんちて理論」と名付けている。この作品そのものがシリアスなものとコミカルなものの融合を描いているわけだが、シュトラウスは「ナクソス島のアリアドネ」を書く前から、ずっと「なんちて」を言い続けている作曲家じゃないだろうか。交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき、なんちて」「英雄の生涯、なんちて」。「サロメ」だって怖くて煽情的なオペラだけど、「7つのヴェールの踊り」のところは笑わせてくれるシーンであって、やっぱり「サロメ、なんちて」なんである。
●逆に言えば「なんちて」である以上、その前段階のシリアスが本当に立派でなければ意味がないわけで、アリアドネとバッカスの歌唱の鳥肌級の美しさと来たら! バッカスという存在がワーグナー・パロディ的な可笑しさを内包するものである以上、その歌唱は圧倒的に真摯で力強いものでなければならない。つい先日、新国立劇場でジークムントを歌っていたステファン・グールドがここにいるという現実が大きな意味をもたらしてくれた。

Photo: Kiyonori Hasegawa

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