November 1, 2018

藤倉大のオペラ「ソラリス」演奏会形式/日本初演

藤倉大のオペラ「ソラリス」●31日、ハロウィンの夜は、東京芸術劇場で藤倉大のオペラ「ソラリス」(演奏会形式/日本初演)。渋谷の喧騒とはうらはらに池袋のこちら側は平和で安堵。これが舞台上演なら、客席も宇宙服コスプレとかソラリスの海コスプレ(ムリ)している人がいても似合ったのかも。で、この「ソラリス」、スタニスワフ・レムの原作は世界40か国語以上に翻訳されており、もはや世界文学の古典といってもいい名作。タルコフスキーとソダーバーグによって二度にわたって映画化されているが、このオペラはそれら映画とは一線を画して、かなりレムの原作のエッセンスに忠実なオペラ化となっている。台本はパリで世界初演された際の演出家でもあるダンサーの勅使川原三郎が日本語で書いたものを英訳。全4幕、休憩なしで90分ほど。
●開演前から客席の照明が落とされていて、芸劇のオルガンの銀色のモダン面に青白い光が照射されていた。さっそくソラリスの宇宙ステーション感たっぷり。本編に入ってからも照明が効果的に用いられていた。演奏は佐藤紀雄指揮アンサンブル・ノマドで、10数名のアンサンブル、ライブ・エレクトロニクスを駆使。歌手陣は主人公クリス・ケルヴィンにサイモン・ベイリー、ハリーに三宅理恵、スナウトにトム・ランドル、ギバリアンに森雅史、さらにオフステージのクリス・ケルヴィン役にロリー・マスグレイヴが配される。これは主人公クリスの心の声をオフステージで歌うという趣向で、この役の葛藤を表現する妙手。声楽陣は充実。それぞれ役柄にぴったりで、リリカルだが陰のあるクリス、清澄で無垢なハリーの対話は聴きごたえあり。実はこの物語の真の主役は惑星ソラリスを覆う知性体「海」そのものでもあるのだが、オペラという表現形態の性質上、人格も持たなければ音も発しない存在に対して役を与えることはできない。その代わりといっていいのかどうか、「海」の役割をもっぱら担っていたのは管弦楽だったと思う。特に終幕の後半、主人公がソラリスの海とそこから生成されるミモイドと対峙する部分が壮麗で、自分なりにミモイドの形態を想像を膨らませながら聴くことができた。一方、言葉をどう歌にするか、演奏会形式だけにこれだけのセリフ量を舞台装置や演技抜きで音だけで成立させるという点には難しさも感じる。
●で、レムの原作に忠実ではあるとはいっても、これはオペラなのでそれだけで独立して作品であるべきで、もちろんいろんな変更がある。ひとつは登場人物のひとりサルトリウスを割愛していること。それと最初に出現したハリーを脱出用ポッドに閉じ込めて宇宙空間に放出してしまう場面はない(原作では二人目のハリーが出現するんですよ!)。もちろん、ソラリス学を巡って延々と続く観念的な論述もオペラでは再現不可能だ。ソラリスの海という不可知な存在を描くことは潔くあきらめて、一方でハリーが自らの存在を自問自答する部分、クリスとハリーの愛の部分に焦点が当てられている。第4幕で、クリスがソラリスに残る決断をして、海と向き合うのは原作通りなのだが、言葉の選び方などには勅使川原色が出ていて、もう一段エモーショナルというか、レムとはまた違ったテイストが生まれていたんじゃないだろうか。
●ただ、やっぱり演奏会形式の難しさというか、これは古典的なオペラを上演する場合でも同じなんだけれど、言葉のない部分で起きる重大な出来事というのが、客席には伝わりにくい。たとえば、ハリーが最初にパニックになる場面。ハリーが扉の開き方がわからなくて力任せに開けたために大ケガをするのだが、傷がまたたく間に自己回復してしまい、ハリーの非人間性が表現される。これは原作を知らない人には、なにが起きているのか、わからなかったのでは。それと、ハリーが液体窒素を飲んで自己犠牲を図る場面も、やっぱりわらりづらい。古典であれば聴衆がストーリーを知っているという前提で割り切ることも一手だと思うけど、新作の場合はなにか補足的な手段で今なにが起きているかを伝える方法が欲しくなる。じゃあどうすればいいのかとなると難しいんだけど……。レムの名作がオペラになったという大きな喜びを感じつつも、舞台上演で見たいという気持ちも残る。アウグスブルクで上演された際のトレーラーはこんな感じ

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