January 20, 2003

映画「マイノリティ・リポート」

●フィリップ・K・ディックの小説がこんなにも映画化される日が来ようとは。最初に長篇「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」が映画化されるという話を耳にしたときは(ずいぶん昔の話だ)、「そんな特殊な読者対象しかいない作品を映画するなんて無謀すぎる」と思ったものだが、その映画「ブレードランナー」はカルトという意味では原作を超える人気を持つに至った。その後、なにが映画になったっけ。中篇「追憶売ります」が「トータル・リコール」に、短篇「変種第2号」が「スクリーマーズ」、短篇「偽者」が「クローン」に。次々映画化されるわりには、「ブレードランナー」以降ろくなものがないって気もするが、幸か不幸かディックはとっくに死んでいて、商業的成功の恩恵にもあずかっていない。売れない作家時代にはペットフードまで食べてたのに。
●で、映画「マイノリティ・リポート」はディック原作のなかでは、おそらく「もっともフツーによくできている」作品。ディックの小説なんてどれもこれも破綻寸前の狂った話ばかりなんだけど(褒め言葉)、スピルバーグの手にかかるときちんとしたエンタテインメントになるからスゴい。カッコいい近未来の描写、アクション、ユーモア、サスペンス、意外なオチとサービス満点。「嘔吐棒」とか、「スパイダー」とか、ディテールで笑わせてくれるのがいいんだよなあ。で、物語的にはアイロニーの代わりにオプティミズムが前面に出てくる。以下ネタバレ全開なので要注意。
●タイトルは「少数報告」という意味。3人のプレコグ(=予知能力者、ディック作品にはしばしば登場する)が見た未来が一致せず、2人と1人に予知が別れた場合、少数意見は切り捨てられるというのが、このストーリーのキモになっているわけだ。で、原作では主人公がプレコグ2人の予知を見て、自分が殺人を犯すことを知ってしまう。そのため未来が変わるが、実は残りの1人のプレコグはその予知を知った主人公の行動までを予知していた。しかしこれが少数報告とみなされて破棄されてしまったというオチで、アイロニカルというか「なんじゃそりゃ」というべきか、ディックらしい話だった(と思う。記憶で書いてます)。
●でもこれはスピルバーグ的世界観では受け入れられない運命論的な話で、映画では「人は自らの意思で未来を決めることができるのだ(=だから正しく生きようよ)」といったテーマに置き換えられている。そういうこともあって、二段オチが必要になったんだろう。結果としてタイトルが観客をミスリードしてくれている。最後のオチはずいぶん卑近なネタで決着してくれたなとも思うが、大作映画としてはこれでいいんじゃないか。誰も第二の「ブレードランナー」なんてもう期待してないでしょ? (01/20)

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