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Books: 2017年11月アーカイブ

November 30, 2017

モーム「月と六ペンス」のふたつの新訳

●翻訳小説における「古典の新訳」は、クラシック音楽ファンにとってはすんなりと腑に落ちるものだと思う。同じ名曲を異なる解釈でなんども演奏し、同じオペラを異なる視点からなんども演出するように、古典とは絶えず刷新することで永続的な価値を持ち続けるものという考え方になじんでいる。日本語も絶えず変化する。現代日本語に翻訳された小説は、ある意味で今の小説に生まれ変わるわけだ。
●で、モームの名作「月と六ペンス」の新訳がたまたま2種類ウチにあったので、お気に入りの場所を比べてみる。ひとつは新潮文庫の金原瑞人訳、もうひとつは光文社古典新訳文庫の土屋正雄訳。どちらもとても読みやすいと評判の翻訳。原著は1919年の作。シュトラウスの「影のない女」が初演され、エルガーがチェロ協奏曲を書き、ラヴェルが「ラ・ヴァルス」に取り組んだ年だ。
●あらすじも紹介しておこう。画家ゴーギャンをモデルとした登場人物ストリックランドは、ロンドンで株式仲買人として平凡だが不自由のない暮らしを送っていた。そんな冴えない男が、40歳を過ぎて突如として家庭も仕事も捨ててパリへ出奔する。だれも予想しなかったことにストリックランドは絵を描くことに憑りつかれてしまい、世間の因習とは一切無縁の、狂人とも聖人とも思えるような暮らしを送っていたのだ。絵画へのほとんど本能的な欲望に突き動かされ、あらゆる人間関係を平気で踏みにじるストリックランド。彼はやがてタヒチへと渡る。ストリックランドは名声とは無縁のまま、現地人の妻を娶り、孤独な小さなコミュニティで絵を描き続ける……。物語はストリックランドを追い続ける新進作家である「わたし」の一人称で書かれている。
●まずは書き出しから。

金原訳:

 正直いって、はじめて会ったときは、チャールズ・ストリックランドが特別な人間だなどとは思いもしなかった。いまでは、ストリックランドの価値を認めない人間はいない。価値といっても、偶然の幸運に恵まれた政治家や、栄光を手にした軍人のそれではない。

土屋訳:

 いまでは、チャールズ・ストリックランドの偉大さを否定する人などまずいない。だが、白状すると、私はストリックランドと初めて出会ったとき、この男にどこか普通人と違うところがあるとは少しも思わなかった。
 私はいま「偉大さ」と言った。それは、幸運な政治家や出世した軍人の偉さとは違う。

最初の一文目と二文目の順序が両訳で異なっている。検索してみると、原文は金原訳の順序になっている。原文では最初のパラグラフがかなり長く、金原訳もそれに対応して長い一段落がそのまま続くが、土屋訳ではいきなり3文目で段落を改めて、さらに「私はいま『偉大さ』と言った」と文章を短く切って、文章に起伏をもたらしているのが特徴的。両者とも「いま」は平仮名に開くが、「はじめて」は金原訳は開き、土屋訳は「初めて」と漢字を使っている。

●序盤で「わたし」による作家稼業についてのなかなか味わい部分が独白があるのだが(モーム自身の声だろうか)、そこから短い一文を拾ってみる。

金原訳:

わたしが得た教訓はこれだ。作家の喜びは、書くという行為そのものにあり、書くことで心の重荷をおろすことにある。ほかには、なにも期待してはいけない。称賛も批判も、成功も不成功も、気にしてはいけない。

土屋訳:

とすれば、ここから得られる教訓は一つだ。作家たる者は、創作の喜びと思索の重圧からの解放にのみ報酬を求めるべきであって、評判の良し悪しや売行きの多寡には無関心でいなければならない。

この部分は先ほどの場所とは逆で、金原訳のほうが文章を短く切っている(原文は確認していない)。さすが名訳というか、どちらも実にこなれた日本語でスムーズに読めるうえに、しっかりと読む人の心に引っ掛かりを残す。ここを見ると、カズオ・イシグロの翻訳などで「平たい」と思っていた土屋訳よりも、金原訳のほうがさらにいっそう「平たい」と感じる。ちなみに金原訳は「わたし」だが、土屋訳は(ここでは出てこないが)「私」。

●終盤で、痛ましい事件の後で「わたし」がストリックランドに会った場面から。

金原訳:

作品における悪党は、いうまでもなく当然、作者にとって魅力的な存在だが、法や秩序とはとても相いれない。シェイクスピアはきっと、イアーゴを書きながら心がふるえるほどの喜びを覚えたことだろう。月光と空想を編み合わせてデズデモーナを創ったときには、そんな喜びとは無縁だったはずだ。

土屋訳:

悪党を作り出す作家は、その性格の論理的で完璧であるところに惹かれる。その惹かれ方は、法と秩序の側からすれば懲罰ものだろう。シェイクスピアはイアーゴを創造した。きっと飛び上がるほど嬉しかったと思う。少なくとも、月の光から気まぐれにデズデモーナを織り成したときにはない喜びだったろう。

ここはかなり訳し方が異なる部分。ワタシは金原訳のほうがスムーズに読めるんだけど、土屋訳の味も捨てがたい。金原訳が「月光と空想を編み合わせてデズデモーナを創った」とするところを、土屋訳は「月の光から気まぐれにデズデモーナを織り成した」とする。なお、この直後に金原訳では訳注で「オセロ」についての説明を添えている。土屋訳には訳注入らず。

●全体のページ数を比べてみると、解説等を除いた正味で金原訳は365ページ、土屋訳は392ページ。ただし文字組が微妙に異なる。1行当たりの文字数はどちらも同じなのだが、実は行間が金原訳の新潮文庫版のほうがやや狭く、ページあたり1行多くなっている。それを加味すると、おそらく原稿枚数ではほぼ同じくらいになりそう。本として薄い分、新潮文庫のほうに価格優位と携帯性の高さがある……ってこれは翻訳とは関係ないか。
●という比較、CDの名曲異演の聴き比べにかなり似てる、ノリとして。

November 27, 2017

「マンガで教養 はじめてのクラシック CD付」(監修:飯尾洋一、マンガ:IKE/朝日新聞出版)

マンガで教養 はじめてのクラシック CD付●お知らせを。朝日新聞出版の「マンガで教養」シリーズの一冊として、拙監修による「はじめてのクラシック」を刊行。マンガとイラストは「運命と呼ばないで ベートーヴェン4コマ劇場」(NAXOS)でもおなじみのIKEさん。IKEさんとは以前に大阪のいずみホール音楽情報誌Jupiterでの連載でもコンビを組ませていただいた。画力の高さに加えて、ご自身が熱心なクラシック音楽ファンであるIKEさんだからこそ可能になった一冊。執筆陣にはワタシのほか、飯田有抄さん、長井進之介さんの心強いおふたりにもご参加いただいた。感謝。
●CD付きで音源はNAXOSさんの提供。よくばって約30曲の聴きどころを収録した「音のカタログ」風の作り。好きな曲を見つけるには、さわりだけでも実際に聴いてもらうのが一番。複数音源のある曲については音源の選択から関わった。
●この「マンガで教養」シリーズ、これまでに刊行されているのが「やさしい落語」「やさしい歌舞伎」「やさしい仏像」「やさしいワイン」といったラインナップ。企画段階でこれらの既刊本を手にして、なるほど「興味はうっすらあるけど、自分にはその分野の常識がなくて手掛かりがない、なんだか不安である」といった人の背中を押すための本なのだなと解して、取り組んだ。マンガに加えて写真、イラスト、図表が多数活用されて編集部は粉骨砕身の一冊。売れますように!

November 7, 2017

「オーケストラ解体新書」(読売日本交響楽団編/中央公論新社)

●オーケストラの内側を語った案内書はこれまでにもあった。しかし当のオーケストラの事務局が編者となって書かれた本はそうそうないのでは。「オーケストラ解体新書」は読響事務局による渾身の一冊。コンサートがどうやって作られるのか、名指揮者たちが音楽を生み出す現場の様子、楽団員はどんな日常を送りなにを考えているのか等、音楽ファンが知りたいと思うことがぎっしりと詰まっている。
●なんといっても事務局という内側からの視点がふんだんに盛り込まれているのがおもしろい。世間の多くの人はオーケストラ=プレーヤーと思いがちなんだけれど、実際に楽団を運営するのは事務局の人々。演奏会の企画立案から出演者との交渉、楽器運搬の手配もあれば、チケット販売から助成金獲得まで、膨大な仕事がある。そんな様々な背景や裏話のひとつひとつがおもしろく読めて、なおかつその向こう側にある楽団の持つ志みたいなものが伝わってくるのが本書の魅力。あと、オーケストラ事情に詳しい人には、「へー、読響ではそんな風になってるんだ」的な興味深さもあるかも。おまけのカンブルランのインタビューも出色。
●オーケストラ内幕本では、自分のなかではアンドレ・プレヴィン編の「素顔のオーケストラ」がこの分野の伝説的名著に君臨している。これは40年近く昔の本なので今では入手困難だと思うけど、大らかに裏話が書かれていて、野次馬的な興味もひく本だった(記憶では)。プレヴィン編ってなってたけど、実際に執筆した人はだれだったんだろ。ひそかにワタシは「あの本の日本版を作れないかなあ……」と野望を抱いていた頃もあったけど、あるときそれは不可能だと悟った。というのも、仕事でオーケストラの楽団員に取材する機会はあっても、それらはいずれも公演のプロモーションのためのものばかり。宣伝になるから先方も取材に協力してくれるわけだし、こちらも原稿をどこかに掲載してもらえるから取材できる。そうでないならムリな話。しかも、なにか裏話を聞けたとしても、本にするとなれば各方面の許諾が必要になる。プレヴィン本にあったような指揮者や楽団を揶揄するような話とか、いまどき載せられるだろうか。そう考えると、楽団自身が編者になるという発想は目からウロコって感じだ。もちろん、そこには「よい話しか書けない」という制約は発生するわけだが、この現場感はそれを補って余りある。

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