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Books: 2024年3月アーカイブ

March 29, 2024

「街と犬たち」(バルガス・ジョサ/寺尾隆吉訳/光文社古典新訳文庫)=「都会と犬ども」の新訳

●一昨年、ついにあのラテンアメリカ文学の大傑作が文庫化された。バルガス・リョサの「都会と犬ども」が! と言いたいところだが、光文社古典新訳文庫の表記ではバルガス・ジョサの「街と犬たち」なんである。えっ、なんか違和感あるんすけど。バルガス・リョサがバルガス・ジョサになるのはまだいいとして、「都会と犬ども」が「街と犬たち」なんて。なんだかカッコよくないぞ。そこで、旧訳の「都会と犬ども」(杉山晃訳)と「街と犬たち」(寺尾隆吉訳)の訳文を比べてみようかななどと思いつつ、新訳を読みはじめてみたら、これが大変すばらしいのだ。もう最高に読みやすいし、作品世界に没頭できる。旧訳での「ヤセッポチ」(犬の名前)は新訳では「マルパペアーダ」に、「詩人」(アルベルトの愛称)は「文屋」に、「巻き毛」は「ルロス」になっている。全般に今の時代に即した訳文だと感じる。しかも翻訳がよいだけではなく、組版もいい。新潮社の旧訳より文字が大きくて、ストレスがない。しおりが付いていて、そこに登場人物紹介が載っているのも親切。迷わず新訳を読めばいいと思う。
●小説の舞台となるのはペルーのレオンシオ・プラド軍人学校。軍人学校らしい厳格な規律があるけれど、生徒たちはみな隠れて煙草を吸ったり酒を飲んだりしている。暴力行為も横行するなかで、少年たちは連帯し、特殊な環境のなかで自分たちの青春を生きる。この軍人学校というのは士官学校ではあるのだが、卒業しても軍人になる者は少数派で、多くの子供たちは親にむりやり入れさせられている。本当のエリート養成機関ではなく、手の付けられないガキの性根を叩き直すための全寮制学校といった感じだ。化学のテストで少年グループがカンニングをする場面から物語がはじまり、次第に登場人物たちのそれぞれまったく異なる背景が見えてくる。淡いロマンスもあって青春小説であり成長小説でもあるのだが、重要な背景としてあるのが、少年たちの属する社会階層の違い。作者の投影でもあるアルベルトはクラスにふたりしかいない白人のひとりで、軍人学校では少数派だ。喧嘩は強くないが、文才で一目置かれ、手紙の代筆屋などをしている。軍人学校ではリーダー格のジャガーのように喧嘩の強い少年がヒエラルキーの頂点に立つ。一方で、学校から一歩外に出れば、アルベルトは裕福な白人家庭の子供であり、家庭内に問題を抱えてはいても、経済力が未来の選択肢を保証する。そんなアルベルトが、親に捨てられたような子供もいるメスティーソ(混血)やインディオたちからなる軍人学校のなかで必死に築き上げた自分の居場所というものが、学校の外部ではなんの用もなさないという「世界ががらりと違って見える瞬間」が、この小説の醍醐味のひとつだろう。それが端的にあらわれているのが、貧しい家の少女テレサとの恋。
●アルベルトは「奴隷」と呼ばれる友人の代わりに、テレサのもとを訪れる。奴隷はスクールカーストの最下層にいて、友人はアルベルトしかいない。奴隷はテレサとデートの約束をしていたのだが、外出禁止になってしまったため、アルベルトがそれを伝えようとテレサの家を訪れたのだ。初めてテレサを見たアルベルトは「やっぱりブスだ」と思う。これは一目ぼれの瞬間を描いているわけだ(すごくない?)。アルベルトは奴隷に代わってテレサと映画に出かけて、その後もデートを重ねるのだが、その事実を奴隷に伝えることができない。エピローグの場面で、卒業したアルベルトとつき合っている裕福な白人の女の子が、わざわざ貧しい地区に住むテレサに会いに行ったと話す。テレサについての感想は「不細工よね」。この一言がアルベルトが初めてテレサと会ったときの「やっぱりブスだ」とまったく違ったニュアンスで重なっていて、実に巧緻。
●この小説は章によって三人称や一人称が使い分けられている。で、一人称なのに「僕」がだれかわからない章がある。この「僕」のストーリーが軍人学校のストーリーとは別に進んでいき、最後のほうで「僕」とは何者かがわかる仕掛けになっている。旧訳では訳者解説でその種明かしがされていてどうかと思うのだが、新訳ではそんなことはない。ともあれ、解説より本編を先に読むことを強くオススメ。実はこの新訳の訳者解説にはとてもおもしろいエピソードが紹介されているのだが、その話題はまた改めて。(→つづく

March 6, 2024

「トーキョー・シンコペーション 音楽表現の現在」(沼野雄司著/音楽之友社)

●ああ、こういう本が必要だったんだよな、現代音楽の世界には。と思ったのが、「トーキョー・シンコペーション 音楽表現の現在」(沼野雄司著/音楽之友社)。休刊した「レコード芸術」誌での連載が書籍化された一冊で、雑誌連載時より大幅に加筆されているそう。音楽に留まらず美術や小説など多ジャンルの話題もふんだんに盛り込まれ、文章のタッチは軽快なのだが、テーマそのものはまったく本質的で、著者ならではの率直な語り口が痛快。みんながもしかしたらうっすら感じているけどあまり口にしないようなことも、明快に言語化してザクザクと切り込んでくる。
●自分が特におもしろいと思ったのは第3章「複雑性と吃逆」と第9章「カノンと1ミリ」。「複雑性と吃逆」の章はブライアン・ファーニホウの「あたらしい複雑性」の話題で始まり、複雑さとはなにかという問いを発する。カッコいいなと思ったのはこのくだり。

 一般に、「現代音楽」は複雑ゆえに難解だと論じられたりもする。しかし、事態はむしろ逆ではないかと思う。
 ほとんどの現代音楽は、単純すぎるからつまらないのだ。
 少なからぬ数の音楽家が勘違いしている気がするのだが、多くの音楽ファンは複雑さゆえではなく、その単純さゆえに現代音楽から距離を置いている。いくら音がゴチャゴチャしていても、平板なコンテクストしか持たない作品は退屈に決まっている。たとえばドビュッシー作品における旋法と和声の狭間をゆれうごく多義的な響き、あるいはマーラーの交響曲の頭陀袋のような隠喩の集積にくらべてみれば、現代作品のコンテクスト操作はいかにも単純に感じられないだろうか?

そして、話題は近藤譲作品の複雑さへと転じる。
●第9章「カノンと1ミリ」のカノンとは、パッヘルベルのほうではなく「規範・正典」のほうのカノン。クラシック音楽の世界で支配的な「名曲」とか「名盤」といった権威付けを解体しようぜ、という話なのだが、おもしろいのはこれがまさしくカノンの総本山ともいうべき雑誌「レコード芸術」に連載されていたという点だろう。毎月発売される新譜を一点一点吟味して「特選」「推薦」「準推薦」「無印」とランク付けし、さらには「名曲名盤」のような企画で「決定盤」を選ぶのが「レコ芸」の文化だった。これは編集部がそういった権威付けを好んでいたわけではなく(むしろ個々人には逆の方向性があるように見える)、どうしてもカノンを強化せずにはいられない力学がクラシック音楽の世界には働いているからだと思う。
●本のトーンとして「機嫌がいい」のも吉。好きな音楽について話すときは機嫌よく話さないと、絶対に伝わらないので。

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