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zombie: 2009年5月アーカイブ

May 21, 2009

ゾンビと私 その7 「アイ・アム・レジェンド」

ウィルス●あの「ゾンビ」化してしまうウィルス、「レイジ・ウィルス」でも「T-ウィルス」でもなんと呼んでもいいと思うんだが、あれが日本で蔓延しだしたとき、まず起きるのはパニックではなくて、もっと陰湿な何かだと思う。
●国内第一感染者が高校生だったと報道される。すると、それが××町の○○高校の生徒だということがネット上の掲示板で伝わり、その学校の生徒や教師、感染者の家族や親戚に対して、無数の嫌がらせ電話や脅迫、イジメが起きる。××町と同じ県内の住民だというだけで、みな不潔であると忌み嫌われる。
●そうこうしているうちに、××町の住民はものすごい勢いでゾンビ化してゆく。報道で最初は1人と発表された感染者が、10人になり、100人になり、1000人になる。高機能マスクが売れ始める。一部の専門家が「ゾンビ・ウィルスはマスクでは防げません」と指摘するが、だれも耳を貸さない。それどころか、マスクを装着しない人間が非難される。メディアは迅速に対応しない厚労省を批判する。「ゾンビは人災ではないか」と追及する人まで出てくる。だが、いくら他人を批判したところで、ゾンビ人口の増大は止まらない。1万人が100万人になり、1000万人になり、1億人になる。
●すると、今度は感染から無事だった人たちが怨嗟の的になる。オレの妻は、子は、親兄弟は、ゾンビになってしまった。それなのに、あの家族は全員が無事でありけしからん。あいつらを襲え! あの家の娘をゾンビ様への供物として差し出せっ!ついに人が人を襲い始める……。
アイ・アム・レジェンド●はっ。ワタシはなにを妄想しているのであろうか。「アイ・アム・レジェンド」の話をしようと思っていたのだった。リチャード・マシスンがホラー小説「アイ・アム・レジェンド」を書いたのは1954年のこと。もう半世紀以上前だ。この小説は長く「地球最後の男」の題で親しまれてきたが、最近ウィル・スミス主演で「アイ・アム・レジェンド」として映画化されたことから、原作の書名も「アイ・アム・レジェンド」に変わっている。これはゾンビ小説ではなく、吸血鬼小説で、自分以外の全人類が吸血鬼と化してしまったというシチュエーションで話が進む。
●吸血鬼は日光に弱い。そこで主人公は昼は自由に行動できる。夜は自宅に立てこもる。ちなみに、この主人公は結構クラヲタで、夜になるとベートーヴェンとかブラームスとか、レコードを聴いてるんすよ。バーンスタインの交響曲第2番「不安の時代」とかも聴いてる。そりゃたしかにこれほど不安な時代はないよなー。しかし1954年の小説でですよ。まだステレオ録音がない頃なのに、もうバーンスタインの最新作を聴いている。
●死者がよみがえって吸血鬼になる。吸血鬼は人を噛む。噛まれると吸血鬼になる。これってゾンビっぽくない? というか、これがゾンビ誕生のモデルとなったのかもしれない。映画版の「アイ・アム・レジェンド」では、思い切ってこの「吸血鬼」を「ダーク・シーカー」という化け物に設定を変更しているのだが、これはどこからどう見てもゾンビ。それも最近の「走るゾンビ」同様の、凶暴で素早いヤツで、こいつらに出会ったら勝ち目はない。
●が、救いがひとつある。もとが吸血鬼だっただけに、こいつらは日光の下では活動できない。夜行性ゾンビなのだ。もしゾンビに日光という弱点が与えてもらえるのなら、ワタシたちはどうすればいいのか。生存戦略上、日照時間の長い地域が有利である。日照量の多い赤道直下を目指すべきなのか、あるいは白夜を求めて北欧や南極圏に行くのか、それとも渡り鳥のように季節ごとに最適な土地を目指すのか。来るべきゾンビの襲来に備えて、ワタシたちは準備を怠ってはいけない。

参考:
渡り鳥は山を越えて~月別・緯度別の日照量シミュレーション付き (Junkyard Review)

不定期連載「ゾンビと私」

May 11, 2009

ゾンビと私 その6 「大西洋漂流76日間」

●前回の「イントゥ・ザ・ワイルド」で書いたように、人類が次々とウィルスに感染しゾンビ化してしまった場合、おそらく荒野というのは安全な地となりうる。しかしそれはもともと荒野が人間にとって生存困難な苛烈な土地であるからにすぎない。では荒野以外にゾンビ化を免れる安全地帯はないのだろうか、といえば実はある、あることはあるのだ、たっぷりと。
●地球においてもっとも活動的な種族が人類であるというのは大きな勘違いである。この地球において、海は地表の71%を占める。陸地よりも断然海のほうが広い。地球とは魚類の惑星なのだ。地球上の大半を占める海において人類は生息しておらず、人類がいないということはゾンビもいないということに等しい。そう、今後たとえ人類がウジャウジャと総ゾンビ化したとしても、地球上のほとんどの地域はなにひとつその姿を変えはしない。じゃあ、海ならワタシたちは生きていけるのか。
「大西洋漂流76日間」●その疑問に答えるためには、スティーヴン・キャラハンが自らの体験を綴ったノンフィクション「大西洋漂流76日間」(ハヤカワ文庫NF)を読まなければならない。小型ヨットに乗った著者キャラハンは大西洋上で嵐に襲われる。ヨットは沈没し、キャラハンは救命ボートで脱出し、ボートに積んだ最低限の装備とともに海上に一人放り出された。ここから壮絶なサバイバルが始まる。書名にあるように76日間という史上まれに見る長期間の漂流が続く。
●水はどうする、食糧はどうする。嵐が来たらどうなる、サメはいるのか、夜はどんなに恐ろしいのか。そんなワタシたちが想像する問題以前にある恐怖として、著者は残酷な統計を読者に示す。遭難者のほとんどは3日で死ぬ。つまり食糧や水が尽きる前に、どこまでも続く大海原で孤独に漂流するという絶望に耐えられなくなるという。ではキャラハンがなぜ76日間も生き延びたかといえば、それは最悪の事態を前もって想定していた準備周到さと、いざ最悪の状況に陥ったときに可能な手段の中から冷静に最善の方策(1%でも自分が生き続けられる可能性の高い選択肢)を選ぶ強い精神力と知性に恵まれていたから。
●サバイバルキットには簡易な飲料水製造機が積んであった。これは海水をわずかづつ太陽熱で蒸溜して真水(といってもまだかなり塩分が高いようだが)を作るという、原理からしても相当に頼りなさそうなものだが、この扱いの難しい装置を苦心して使いこなして飲料水を確保し、生存に必要な最低限を日々飲み続ける。
●食い物はどうするかといえば、それは魚だ。海上に浮かぶボートは、海の生き物から見れば小島である。漂流するうちに底面に貝類や藻類が付着し、それを食べる小魚が集まり、それを目当てにまた魚が集まる。ボートに周りには常にシイラが群れを成し、シイラたちはボート目がけて体当たりを続ける。もしキャラハンがボートから投げ出されれば(あるいはボートが修復不可能なほどに破損すれば)、彼はシイラの餌になるだろう。だがそれまではキャラハンがモリでシイラを獲る。ここには「食うか食われるか」という自然界の基本的な関係がある。
●最初はシイラの一匹を仕留めるのにも大変な苦労をする。しかし何十日も漂流するうちにシイラの捕獲は日常となる。そのうちボートと並んで泳ぐシイラの一匹一匹を区別できるようになる。そして最後の最後、絶望的な場面ではそれまで敵対関係にあったはずのシイラがまるで自分を獲れとでもいうかのようにキャラハンに向かって腹を差し出してきたというのだ。「食うか食われるか」というのは同時に「どちらかがどちらかを食べさせてもらうことで生きる」ということでもある。敵対関係は共生関係の礎なのだ。
●ゾンビの恐怖はここにある。彼らはワタシたちと敵対関係しか作らない。ゾンビはわれわれを喰う。ゾンビを喰うものはいない。そして何より恐ろしいのは、ゾンビは別に人を喰わなくても生きていられる点だ。彼らはいかなる共生関係も必要としない。捕食相手を根絶させてしまっても困らないという反自然性が、その恐怖の源になっている。
●キャラハンが76日間を生き延びた母なる海もまた、荒野と同じようにワタシたち人にとって過酷な場所であった。都市では今後感染者がますます増えていくことはまちがいない。ワタシたちはどこへ逃げればよいのか。

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不定期連載「ゾンビと私」

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