2017年1月 5日

ゾンビとわたし その33:「コンテクスト・オブ・ザ・デッド」(羽田圭介著/講談社)

●新年早々に終末感の漂う話題で恐縮であるが、久々に不定期連載「ゾンビと私」として、「コンテクスト・オブ・ザ・デッド」(羽田圭介著/講談社)を下腿三頭筋にググッと力を込めつつご紹介したい。この数年、あたかもブームのようにゾンビあるいはそれに類する生命体(いや非生命体)を題材としたフィクションが次々と発表され、とてもそれらを十分に追いかけることはできていないのだが、多くの物語はこの災厄を軽々しく扱いすぎているという印象を持っていた。はやり物に乗ってみただけで、切実さが微塵も感じられないというか。その点、この一冊は違う。正しく現実の問題としてゾンビ禍をとらえている。迫りつつあるゾンビ禍に立ち向かうために必読の小説といってもいいのではないだろうか。
●主要な登場人物は大手出版社の編集者、純文学の極貧作家、女性誌などでも人気の美人作家、小説家志望の若者、福祉事務所で働くケースワーカー等々。舞台の中心となるのは文壇である。危機はひとまず古典的な枠組みにのっとって始まる。基本ルールはしっかり踏襲される。ヤツらは人を噛んだり、喰らったりする。噛まれると感染する。感染するとヤツらに変質する。ヤツらは頭を破壊されないと活動停止しない。ヤツらはゆっくりと歩く。が、2017年の現代にあって、そんな古典様式だけでゾンビを描けるはずがない。やがて走るゾンビがあらわれる。どうやら同じゾンビ化するにも、古いゾンビ観で育った年配者は歩くゾンビになるが、近年のゾンビ観になじんでいる若者たちは走るゾンビになりやすい……といったように、「ゾンビのなんたるかを(よく)知っている現代のわたしたち」が前提となっているところが秀逸。
●で、書名にあるようにこれはコンテクスト・オブ・ザ・デッド。つまり、なにが人をゾンビにしているかというと、コンテクスト依存なんである。なにを言うにもするにも、狭い集団内で共有されているコンテクストにほとんど無自覚で乗っかることでしかできない人々が、次々とゾンビになる。このテーマ設定が新しく、そして共感できる。なぜなら現実そのものだから。つまり、この本は二重の意味で現実的なんだと思う。ひとつは現代日本におけるゾンビ禍の描写として。もうひとつはゾンビ禍が暗喩するわたしたちのあり方について。このテーマは実のところワタシたちにとって取り扱い注意物件でもあって、コンテクスト依存を嘲笑うことは一見容易だが、たとえば音楽作品やそのコンサートなど、やたらとハイコンテクストなカルチャーを無条件に許容している自分たちをどう規定すべきなのかという問題をはらんでいる。グサッ。ガブッ。
●お気に入りは、出版社のパーティに作家や編集者たちが集まっているところに、ゾンビ作家たちが乱入してくる場面。そこに居合い切りの達人として知られる有名書評家がやってきて、バッサリとゾンビを斬り捨てる。次々とゾンビを斬るが、「面識もっちゃった相手に対しては、メッタ斬りもしづらいんだよね。さっき挨拶しちゃったから」とか言って、斬りかけたゾンビ作家に構えを解いて会釈して、そそくさと別のゾンビを斬ったりする。大笑い。
●著者は又吉直樹と同時に芥川賞を受賞しているが、それよりもっと以前、高校在学中に「黒冷水」で文藝賞を受賞して話題になった。これは自分も読んだ記憶あり。それから十数年が経って、こんなに秀逸なゾンビ小説が書かれることになるとは!

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2015年10月13日

ゾンビとわたし その32:今すぐインストールしたい、新機能「混雑レーダー」付きYahoo!地図アプリ

小淵沢の紅葉
●久々の更新となってしまった不定期連載「ゾンビと私」であるが、当連載開始以来のインパクトでお役立ち情報を提供したい。この連載では、来たるべきZ-dayに備えて、いかに生き延びるか、いかに逃げるかについて考察を続けてきた。同志のみなさまはすでにご存じのことと思うが、現在のところ、最善の逃れの地は人口密度の薄い「低山」というのが当サイトの結論である。瞬時にして感染が進む都市部は論外としても、島や海、砂漠、山岳地帯等々、人がいないところにはそれはそれで別種の危険があり生存が脅かされる。そこで、なるべく人がいない、しかし人が生活可能な環境が保持可能であるという点で、「低山」に微かな希望が残されている。ここまでがこれまでの連載のおさらいだ。
新宿駅近辺●で、そこで強力な助っ人となるアプリを発見したのであるが、Yahoo!地図アプリに新機能「混雑レーダー」が搭載されたのである。これは端末の位置情報をもとに、リアルタイムで混雑状況を地図アプリから確認できるという、画期的な新機能である。一般には、お出かけ先の混雑状況を事前にチェックするために使用されるようだが、この端末の位置情報がYahoo!防災速報ユーザーから収集されていることにも暗示されているように、いざZ-dayがやってきた場合、この「混雑レーダー」はそのままヤツらの密度を指し示すことになる。人口密度ならぬゾン口密度が可視化されるのだ。
小淵沢駅●というわけで、さっそく週末の夕方に試してみた。まずは上記のように新宿を表示してみると、駅周辺は地獄の業火のごとく真っ赤に染まっている。ここでは10秒として人間であり続けるのは困難だろう。一方、特急あずさに揺られて、小淵沢駅まで足をのばしてみると、右の通りである。えっ、このアプリ、ちゃんと機能してるの?と心配になるくらい、混雑していない。山に人が少ないことは自明であろうが、特急停車駅の近辺であってもこの程度である。これなら、万全の装備と勇気さえあれば立ち向かえるのではないか、ヤツらに。
高尾山●では、山ならいいのか、というと、そうではない。続いて高尾山を表示してみると右のようになった。下手をすると都内の寂しめの私鉄沿線駅よりも賑わっている。山なのに、人がいっぱい。人がいっぱいということは、ゾンビがいっぱい。まちがってもこんなところに逃げ込んではいけない。
●どうだろうか、この可視化された危険情報は。ちなみに、この週末はまさしくその小淵沢まで出かけたのであるが、すでに紅葉が始まっていた。美しい景色を堪能し、心身をリフレッシュするという点でも、山はおすすめである。

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2014年10月23日

ゾンビとわたし その31:「火星の人」(アンディ・ウィアー著/ハヤカワ文庫SF)

●地上がゾンビたちで埋めつくされようとしている今、いったいワタシたちはどこに逃げればいいのか。この不定期連載「ゾンビと私」では、これまでに山、海、荒野等、さまざまな場所に逃れの地の可能性を探ってきたが、これまでの30回にわたる連載で一度も検討してこなかった領域がある。ずばり、宇宙だ。地球外。ゾンビどころか人っ子一人いない、いやそれどころか微生物も細菌もいない、ノーゾンビ、ノーライフな土地。そう、たとえば火星なんてどうだろう?
火星の人●そこで両腕に力こぶを作ってオススメしたいのが、アンディ・ウィアー著の「火星の人」である。この小説、一言でいえば火星版ロビンソン・クルーソー。舞台設定はこうだ。NASAによる3度目の有人火星探査が行なわれたが、火星到着後、激しい砂嵐により急遽クルーは火星を離脱することになる。しかし、その一人が不運な事故により、やむをえず火星に残されてしまう。もちろん、人は火星では生きられない。酸素も水も食糧も手に入らない。彼はすぐに死ぬ……と思いきや、そこから驚くべきサバイバルが始まる。
●この小説はSFではあるが、あくまでもリアリズムにのっとって描かれている。火星に残された主人公は、この苛烈な土地で少しでも生き延びようと孤独な戦いに挑む。条件としては、あらかじめ火星に持ち込んだ様々な機材や物資、限られた糧食がある。スペーススーツ、移動用のローバー、酸素供給器、水再生器、動力源の太陽電池パネル。水や酸素は限られた量しかないが、火星の薄い大気のほとんどは二酸化炭素。二酸化炭素は供給できる。酸素は二酸化炭素から得ることができる。あとは水素があれば、酸素を加えて燃やすことができれば水が手に入る。では水素はどうするのか。そして食糧はどうするのか、生産できるのか。さらに奇跡的に食糧を得たとして、生存日数を増やしたところで、それでどうなるというのか。地球との通信手段はどうするのか。仮に救助してもらうにしても何年かかるのか……。
●どう考えても絶望しかないという状況のなかで、主人公の宇宙飛行士は恐るべき知恵と工夫、創意と冷静さによって、ひとつひとつ試練に立ち向かう。これがまあ、あきれるほどおもしろい。発生する問題とそれに対する解答のバリエーションの豊かさ、それに加えてどんな状況でもユーモアの精神を忘れない主人公の人物造形がキモだろうか。
●しかし「火星の人」は不慮の事故によって火星に取り残されたのである。もし、前もって火星で生きるという前提のもと、人間が入植するのであれば、この主人公よりはるかに有利な条件で火星生活をスタートさせることができるはず。エンジョイ、火星ライフ。この物語は最上級のエンタテインメントであると同時に、来たるべきZdayに対するかつてないもっとも射程の長い解決策を示唆している。そういえば、しばらく前に、人類初の火星コロニー建設を計画するプロジェクトとして、火星への片道旅行に各国から応募が殺到したというニュースがあった。なにをバカな、そんなにも危険な、そしてどんなにうまくいったとしても火星で生涯を終えなければいけない夢物語になど、1ミリも現実味を感じない……と思ったものだが、なるほど、彼らは夢を見ているのではなく、違った現実を見ているのかもしれない。地球がヤツらでいっぱいになる現実を。

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2013年12月26日

ゾンビとわたし その30:「コン・ティキ号探検記」(トール・ヘイエルダール著/河出文庫)

コン・ティキ号探検記●当連載では、地上がゾンビで埋め尽くされるようになった終末世界で人間がいかに生き延びるかについて、これまでさまざまな考察とフィールドワークを続けてきた。備えあれば憂いなし、Zdayは日いちにちと近づいている。そして、ここでようやく新たな解決への糸口を発見したことを力強く宣言したい(ババン!)。
●希望の一冊となるのは、海洋生物学者であり探検家のトール・ヘイエルダールによる「コン・ティキ号探検記」(河出文庫)だ。名著である。ゾンビ禍とは無関係に読まれるべき一冊。以前映画化されたものを紹介したが、これはヘイエルダールが「ポリネシア人の祖先は南米から海を渡ってやってきた」という自説を証明するために、1500年前の古代でも入手可能な素材と技術のみを用いていかだを作って、風と波を頼りに仲間たちとともに8000キロにわたる太平洋横断に挑んだ記録である。多くの人が無謀と考えた航海は100日ほどをかけて見事に成功した。この本の味わい深い点は、後の研究によりヘイエルダールの仮説は否定されているところだと思うのだが、今のわたしたちにとって重要なのはいかだで太平洋上で長期間を平和に過ごせるという点だ。舟ではなくいかだというのがミソ。荒波をかぶっても沈まない。サメやクジラなどの巨大海洋生物が脅威になるのかについても、この本は多くの有益な情報を与えてくれる。
シイラ●が、なにより驚いたのは食糧だ。ヘイエルダールたちはいとも簡単に海上で食い物を調達していて「飢えるのは不可能と思える」ほどだったという。トビウオたちが勝手にいかだの上に飛んできてくれる。そして、シイラがずっといかだとともに航行してくれるので(これは「大西洋漂流76日間」でも同じ記述があった)、シイラも食べ放題。シイラといえば、昨今の一部の回転ずしではカンパチの代用魚として利用されているという。つまり、いかだの上は、疑似カンパチの新鮮な刺身食い放題というのだから、日本人にとっては嬉しい環境である。このカンパチ、ついさっきまで生きてました! ガブッ!
●もう言うまでもないだろう。地上がゾンビで埋め尽くされても、海洋はいたって平和なままである。地表の71%は海だ。ゾンビ禍以後も地球上の大半はその姿を変えないのだ。わたしたちは海に出なければいけない。古代インカ文明が発明したいかだが、21世紀の人類の命運を握ることになろうとは。人類は海洋を生きる生物になる。ひとつの家族がひとつのいかだに乗り、遠洋上でいかだの群れが集落をなす。いかだが集まって村ができ、町ができ、やがて都市ができる。人はいかだの上で生まれ、いかだの上で生涯を過ごす。そして、カンパチの刺身をたらふく食うのだ。

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2013年8月30日

ゾンビとわたし その29:「ゾンビサバイバルガイド」日本語版が刊行

ゾンビサバイバルガイド●以前、当欄で(本連載のかなり初期に)マックス・ブルックス著の The Zombie Survival Guide: Complete Protection from the Living Dead をご紹介した。その日本語版が「ゾンビサバイバルガイド」(エンターブレイン)としてついに刊行された。著者のマックス・ブルックスは「WORLD WAR Z」(映画「ワールド・ウォーZ」の原作)の著者でもあり、こちらがデビュー作。「全世界200万部のベストセラー」という売れ行きの好調さを心強く感じるが、裏返せばそれだけ世界でゾンビ禍が深刻化しているということでもある。
●以前、原書を手にした際には、本書は対ゾンビ防御の基本レファレンスとなるべきものという印象があった。「ヤツらは恐怖を感じない。ならばあなたも怖がるな」「クルマから降りよ。自転車に乗れ」「ゾンビが去っても、脅威は続く」といった教訓は、原書の刊行から10年を経た今も有効であると思われる。ただ、この10年の間に見逃せない変化があったこともまた事実。たとえば近年よく目にする「猛ダッシュしてとびかかってくるゾンビ」の存在を考慮すると、そろそろ改訂版が必要な時期に来ているのかもしれない。たとえば、「走るタイプか、のろのろタイプか」「音で反応するタイプなのか、匂いで反応するタイプなのか」等、相手の「型」をいち早く確実に識別する方法が今後は求められるのではないか。

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2013年8月19日

ゾンビとわたし その28 映画「ワールド・ウォーZ」

●お盆。地上が帰省ラッシュとなるように、あの世からこの世へと帰ってくるためのご先祖様ハイウェイも大混雑となる。そんな地上に死者たちがあふれかえるこの季節に映画を観るとすれば、もちろんそれはゾンビ映画しかない。ブラッド・ピット主演というメジャー感に反して、史上最多登場ゾンビ数記録を更新するような特盛映画、それが「ワールド・ウォーZ」(マーク・フォースター監督)である。
●この作品の特徴を一言でいえば、「家族みんなで楽しめるゾンビ映画」といったところだろうか。エグくない。目を背けることなく、安心して鑑賞できるのがすばらしい。グロいゾンビの時代は終わったのだ。シリアスだが、ぷっと吹き出す場面もある。ゾンビのタイプとしては近年流行の「疾走するゾンビ」で、瞬発力や脚力、腕力など一段と生前よりパワーアップした闘争的ゾンビ像が描かれている。フィラデルフィアの街のど真ん中に感染者があらわれる。猛ダッシュして飛びついてガブッ! 噛まれると12秒でゾンビになる。そいつがまた猛ダッシュしてガブッ! 噛まれたヤツがガブッ! さらにガブッ! ガブッ! ガブッ! 大都会では感染者がきわめて短時間の間に増殖するというプロセスが明瞭に描かれる。
●ハイライトシーンはゾンビの大群の壁よじ登りシーン。世界のほとんどがゾンビ禍に覆われる中、イスラエルは分離壁によって感染者の侵入を防いだ。しかしその高い壁に向かってゾンビの大群が押し寄せてくる。彼らは壁を登れない。だが、なんということか。あまりの大群であるため、押し寄せたゾンビたちの群れの上にゾンビが折り重なり、さらにまたその上にゾンビがよじ登り……といった具合に、砂山のようにゾンビが積み上がり、ついに頂上のゾンビが壁に到達するのだ。その蠢く大群を描写したシーンだけでも、この作品はゾンビ映画史に名を残すだろう。一本の矢は容易に折れるが、三本の矢が束になれば折れない。一人のゾンビでは登れない壁も、何千何万ものゾンビが束になれば乗り越えられる。毛利元就も納得のゾンビ・モブシーンである。

●なお、以前に原作も紹介しているが、映画との関連はかなり薄い。原作より映画のほうをオススメしたい。
●ところでやっぱりアメリカってクルマ社会なんだなと思ったのが、冒頭フィラデルフィアのパニック観戦シーン。ああいう感じになるのね、と。これが東京だったら、ああはならない。きっとシーンはこんなふうに始まる。ラッシュ時の山手線、原宿駅で感染者が乗り込んでくる。電車はぎゅうぎゅう詰めだ。ゾンビは車内でダッシュする必要なんかない。というか、ダッシュできない。隙間がまったくない。だから目の前の人間をガブッと咬む。咬まれたヤツはすぐにゾンビになる。そして目の前をガブッ。こうしてゾンビたちは一歩も走ることも歩くこともなく、ひたすら静的に、しかし急速に感染が進む。そして電車は渋谷に到着する。もう乗車してるのは全員ゾンビだ。停車してドアが開いた瞬間に、電車の中からどっとゾンビがあふれ出て、ホームで整列して待っている人々にかぶりつく。逃げ場なしのゾンビ入れ食い状態。渋谷の駅はあっという間にゾンビで埋め尽くされる。彼らが駅からあふれ、スクランブル交差点に向かう。ちょうど信号が青になって、向こうから歩いてくる人々に、こちら側から一斉にゾンビが襲いかかる……。
●どう考えても東京での感染速度は世界最速級になるはず。自家用ヘリコプターでもないかぎり、逃げ場はない。

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2013年7月12日

ゾンビと私 その27 映画「コン・ティキ」

●昨日、アメリカの放送局で番組が中断され、「死人が人間を攻撃しています。死人に近づかないでください。非常に危険です」という警報が流れた。全米の放送局が採用している「緊急警報システム」が作動したのである。が、これは誤作動であった。ひとまずは胸をなでおろしてよい。しかしこれは偶然が生んだ予行演習、来るべきその日に備えよというメッセージとも受けとれる。
●いよいよ地上にゾンビがあふれ出したら、どこに逃げるべきか。不定期終末連載「ゾンビと私」では繰り返しこの問題を取りあげ、原則としては「人口密度の疎らな低山」への避難を有力としてきた。しかし、ここに来て新たな可能性について検討すべきであると思い至った。海である。ゾンビは泳がない。地表の71%は海。地上がゾンビで埋め尽くされそうとも、この地球上はいまだ大半がゾンビ・フリーであるともいえる。
●この連載の第6回で「大西洋漂流76日間」を紹介し、海がいかに過酷で生存困難な場所であるかを示した。だが、あれは予期せぬ遭難者の話。もし準備を整えて海に出たらどうなるか。それも航海技術を必要とするような船舶ではなく、木材で作られたいかだで大洋に出たとしたら?
コン・ティキ●その回答を雄大なスケールの映像美で伝えてくれるのが、現在公開中の映画「コン・ティキ」だ。コン・ティキ? 「コンチキ号の冒険」のこと? そう。これは1947年、ノルウェーの海洋生物学者であり探検家であるトール・ヘイエルダールの有名な航海を映画化したものだ。ヘイエルダールは南太平洋のポリネシア諸島が大陸から遠くに位置するにもかかわらず、古くから人が住んでいることに興味を持った。定説では彼らはアジアから渡ってきたとされるが、ポリネシア文明とインカ文明には共通点が多い。ポリネシア人の祖先は南米から海を渡ってやってきたのではないか?
●この仮説を実証するために、ヘイエルダールは1500年前の古代でも入手可能な素材と技術のみを用いていかだを作り、仲間たちとペルーからポリネシアへ向かった。いかだであるから動力もなければ、それどころか舵すらきかない。風と波を頼りに8000キロにわたる太平洋横断に挑んだ。あらゆる脅威に立ち向かいながらも、彼らは予定通り101日間をかけて、ポリネシアにたどり着いた。
●「大西洋漂流76日間」では生死ギリギリの絶望的な漂流が描かれたが、「コン・ティキ」の101日間はその大半が気楽な旅で、危険が訪れたのは数日のことだったという。メンバーは全員無事帰還している。奇妙なことにヘイエルダールは泳げなかった。泳げもせずに、だれもが無謀だといったこの冒険に出かけた。とてつもない信念がなければこんな命がけの旅になど出られるものではないし、実際幸運に助けられた面もあったはず。しかし、ともあれ、人は準備さえあれば海上で100日以上を暮らせるのである。ときにはサメとも遭遇する。クジラもいる。ひょっとしたら巨大イカもいるかもしれない。しかし、ゾンビはいない。
●この「コン・ティキ」でもっとも重要だと思われるのは、彼らのいかだが古代人の材料と技術だけで建造された点だろう。Zday以後、われわれはいったんテクノロジーを失う。そのような文明を失った時点であっても、知恵さえあればコン・ティキ号は建造可能なのだ。わたしたちは海について、そしていかだについて学ぶべきではないだろうか。テレビが本物のゾンビ警報を鳴らす前に。

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2013年4月26日

ゾンビと私 その26 「アイアムアヒーロー」 第6巻~第11巻

アイアムアヒーロー 11●先日の「アイアムアヒーロー」第1巻~第5巻に続いて、第6巻~第11巻について(花沢健吾著/小学館)。謎の感染により世界がゾンビ化、じゃないや、ZQN化する世界において、生き延びた人々を描く。序盤では冴えない漫画家の日常についての秀逸な描写が光っていたが、途中からどんどん終末の物語らしくなってゆく。この種の長編化した物語としては珍しいんじゃないかと思うが、後半のほうがさらにおもしろい。
●これって「ウォーキング・デッド」(シーズン3は未見)と同じで、生き残った人間集団の描き方がいいんすよね。ゾンビが(いやZQNが。ZQNってネーミングも鋭い)昇ってこれないアウトレットモールの屋上でグループを作って生き残る人々。埼玉県の久喜でZQNと戦うグループ。そこにはどんな規律が生まれるのか、どうやって食糧を確保するか、等々。つまり、これこそワタシたちが(運よく生き残れたとして)Zday以降に必要とすることである。東京近郊という現実的設定ゆえに、いくつもの大きなヒントがあった。久喜のグループのひとたちが自転車で移動しているのも、以前ご紹介した The Zombie Survival Guide: Complete Protection from the Living Deadの「ゾンビの攻撃から生き残るための10のレッスン」にあった教えの通りなわけで、先行研究を着実に役立てているのが心強い。
●ただ、第11巻まで来ても作品内時間はそんなに経ってないみたい。まだ電力も来てるし、食料品はみんなお店等に残された保存食でしのいでいるっぽい。都市部なのでそうなるのが妥当だとは思うが、いずれは食料生産をどうするのか、水をどうするのか、という問題が出てくるはず。都市にも野生動物が跋扈するだろう。現時点ではサバイバルの段階はそこまでは行っておらず、気配としては「人間はいかに人間から身を守るか」に焦点が当てられそう。
●ZQNも怖いが、人間も怖い。人間は人間から収奪する。しかしその一方で、人間は一人では生きられない。ZQNは一人でも生きられる(いや、死んでいられる)。この非対称性をどう考えるか。そこがヤツらとの戦い(あるいは共存)の鍵となる気がする。

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2013年4月 4日

ゾンビと私 その25 「アイアムアヒーロー」 第1巻~第5巻

アイアムアヒーロー 1●今さら取り上げるのもなんだが、ようやく読んだ、「アイアムアヒーロー」(花沢健吾著/小学館)。すでに第11巻まで発売されていて長編化しているが、ひとまずは第1巻~第5巻までを第1部として見てみよう。
●舞台は東京。感染すると凶暴化し、人に噛みつくという原因不明の疫病のパンデミックを描く。噛みつかれた者もまた感染し、凶暴化する。が、この物語でも近年の諸作品と同様に「ゾンビ」という言葉は使われない。ヤツらは「ZQN」と呼ばれる。
●「アイアムアヒーロー」序盤の秀逸な点は、この世界の破滅を35歳の売れない漫画家の視点で描いたところ。主人公鈴木英雄の冴えない日常がリアル。冴えないっていっても、戯画化されたダメ男じゃないんすよ。等身大で描かれる冴えなさ。主人公は一度デビューして連載も持ってたくらいなんだけど、それがあっという間に打ち切られ、やむなくアシスタントに逆戻りして食いつないでいる。再デビューを目指すがチャンスは来ない。気立てのよい彼女はいるんだけど、その元カレは売れっ子漫画家。彼女は二言目には元カレのマンガがいかにすぐれているかを口にし、酔うと豹変して主人公の甲斐性のなさをなじる。
●これってすごく生々しい。主人公はデキの悪い人物じゃないんすよね。一回連載持ってデビューしたくらいだからむしろ優秀。でも住んでる世界は狭いし、未来が見えない。自分が生み出した妄想におびえたり、年相応の大人のふるまいを自然にできなかったりする。社会のなかで安全な道のりから一歩外に出た者が向きあうリアル。なんならこのままゾンビなしで物語が進んでもぜんぜんおもしろく読めてしまいそうだ(笑)。
●感染初期段階の描き方は納得のゆくもの。超人口過密地域なのであっという間に感染は広がるが、当初はだれも事態を正しく把握できず、すぐに社会はもとに戻るという正常性バイアスがかかる。デマに影響され、多数派に漫然と同調してしまう人々の姿も描かれる。なぜ主人公が生き延びているかと言えば、まず最初の混乱の段階で西武池袋線の下りに乗車したというのが大きいだろう。石神井公園駅で乗車し、車中での混乱を生き延び、たまたま電車が止まった入門市駅(モデルは入間市駅か)で降りることになった。そこからタクシーで高速に乗り、中央道を下っている。車で移動できたのは富士山付近の遊園地まで。電車もタクシーも間一髪で難を逃れているのだが、都心に留まるよりは生き延びるチャンスはあったはず。
●これまでの先行事例も示唆しているように、最初期段階の課題は、いかに人の少ない地域に移動するか。都心からの電車での避難を考えると、南北方向よりは東西方向への移動のほうが容易だろう。西へ、そして富士山へと向かう、というのは一つの解として興味深い。

2013年2月26日

SALUS、ゾンビ短信

salus 2013年3月号●毎月20日発行の東急沿線スタイルマガジンSALUS、今月の拙連載「コンサートの事件簿」は、念願のゾンビネタ(笑)。趣旨としてはこのブログで「ゾンビとわたし」として何度も述べているようなことであるのだが、より広くこの問題を周知すべく。
●ゾンビ短信。池袋の名画座、新文芸坐で3/30、「たのしい世界ゾンビ紀行」と題したホラーナイトが開催される。「ロンドンゾンビ紀行」「ゾンビ革命〜フアン・オブ・ザ・デッド〜」他上映予定。たぶん、ワタシは見にいかないと思うけど。怖そうだし、ホラー映画苦手だから。
アイアムアヒーロー●未読なんだけど「アイアムアヒーロー」(花沢健吾)というコミックは読んでおくべき? すでに11巻とかまで出ていて、そんなにたくさんあっても……と躊躇するんだけど。ゾンビ問題を考察する上で必読とだれかが背中を押してくれたら試してみよう。
●YouTubeのFIST OF JESUS。「ジーザス 怒りの鉄拳」とでも訳すべきか。ジーザス、魚を武器にゾンビ無双。復活ヤヴァい。

2013年2月 6日

ゾンビ短信: The Walking Dead: Dead Yourself

dead yourself●ゾンビ連続ドラマの秀作「ウォーキングデッド」は現在シーズン3がBSとかCSの有料チャンネルで放映中。ネット経由なら hulu でいつでもオンデマンドで見ることができる(オススメ)。が、この最新シーズンはワタシは未見であり、ネタバレは厳禁である。人の顔を見るなり、いきなり登場人物の生死であるとか特定キャラクターの運命の行方を話してはいけない。いや、そんな人いないけど。むしろうっかり検索してネタバレする罠。
●で、その「ウォーキングデッド」ファンの方もそうでない方も楽しめるiPhone、iPadアプリ、The Walking Dead: Dead Yourself がリリースされている。このアプリを使ってゾンビに扮してみよう(いや、このドラマでは「ウォーカー」って言うんだった)。あなたも、あの人も、みんなウォーキングデッド風に。

2012年8月24日

ゾンビと私 その24 乗鞍高原ハイキング

●久々にハイキングである。当不定期連載「ゾンビと私」では、いざというZdayに備え、「街がゾンビであふれかえっても人間が人間として生存できる場所」を山に求めてきた。人口密集地域でいかに武装したところで、時間の問題でヤツらに噛まれることになるのは、先行研究によりほぼ証明されている。一方、ヤツらは意図して山に登らない。また人口密度の薄い山であれば、万一ヤツらが迷い込んできても、容易には被害は広がらない。
●東京近郊の低山についてはこれまでの記事にあるように大まかな調査は済んでいるのだが、先日せっかく松本に出かけたのであるから、高地についても取材してみた。関東平野がえんえん広がる東京と異なり、松本の周囲は山だらけ。都心ではそもそも山のふもとにたどり着くまでの移動が大変なのであるが、その点、松本は山が近い。
新島々バスターミナル
●もっとも高地といっても森林限界を超えるような高山まで登ってしまっては、農耕が不可能になってしまう。今回は標高1600m近辺の乗鞍高原を訪れた。まずは松本駅からアルピコ交通上高地線に乗って新島々まで電車で移動する。駅には写真のようなバスターミナルがあり、ここから上高地や乗鞍方面へとバスが出ている。
●さて、路線バスに乗って一気に終点の「休暇村」まで上れば、そこは高地。ひんやりとした風が吹き涼しい。下界の蒸し暑さがウソのようである。暑い夏、戸外でゾンビに襲われて全力疾走ばかりしていては熱射病にかかる恐れがある。涼しいほうがよい。まずは、バス停から休暇村の裏手を抜けてすぐ近くにある牛留池を訪れた。

●このように池があるということは水源の確保の点からも重要である。なお、天気のよい日には正面に見える乗鞍岳が池に写り込み「逆さ乗鞍」となって風光明媚である。地上がゾンビ禍に見舞われる中、一服の清涼剤となって人心を癒してくれることだろう。
乗鞍高原 口笛の径
●続いて「口笛の径」と呼ばれる山道を下る。ご覧のように周囲は緑で囲まれており、視界は利かない。平時であれば、上機嫌によるものか、あるいは熊よけのためか、口笛を吹くのもよいかもしれないが、Zday以後は厳禁である。このような場にヤツらを呼び寄せてしまっては逃げ場がなく、戦闘も困難である。
乗鞍高原 一の瀬
●しばらく歩くと、見通しのよい場所に出る。ここから一の瀬園地と呼ばれる自然公園が広がり、キャンプも可能となっている。ここならヤツらが現れても、早期に察知することができる。夏の間は牛が放牧されているということなので、生き残った人々の生活拠点としてふさわしいのではないか。「ウォーキング・デッド」シーズン2における、ハーシェルの農場をイメージできるだろう。

●こちらが簡易な食堂である。ソフトクリームも販売されている。ここまで山道を通ってきたが、ここは車道が通っているのでクルマで直接来ることもできる。Zday以降、住居となりうる。
山とソフトクリーム
●高地は気温が低いとはいえ、今回は徒歩で休憩抜きで3時間コースを歩いており、やはり汗はかく。水分はもちろん、カロリーの補給も欠かせずソフトクリームを注文する。遠くに山を見ながらソフトクリームを舐める。うっかりとソフトクリームの形を山の形に似せて造形したくなるかもしれない。山型のなにを見ても心に浮かぶ特定の山の形に造形したくなるとすれば、それはゾンビではなく別の未知との遭遇が待つことになろう。
善五郎滝
●その後、食堂の脇から山道を登ると、やがて大きな滝に出会う。善五郎滝だ。これは見事な絶景である。滝に打たれたくなったらいつでもここに来ればよい。滝行により心身を鍛えることは、ヤツらと対峙する上で有効である、かもしれない。
善五郎滝から
●善五郎滝から落ちた水が溜まり、小川になって流れ出す。渓魚がいるかもしれない。水と食糧の確保は欠かせない。
白樺林
●続いて、ふたたび山道を歩き、スタート地点の休暇村を目指す。東京近郊の低山ハイキングと一見なにも変わらないように見えるが、植生が少し異なり、このあたりは高地ゆえに白樺が多い。白樺の幹からは大量の樹液の採取が可能である。この樹液は人工甘味料キシリトールの原料となる。近年、多くのチューインガムにはキシリトールが使用され、虫歯予防に役立っている。虫歯の痛みに耐えながらゾンビと戦うのは不利である。歯はヤツらの武器にもなれば、われわれの弱点ともなる。この白樺林が虫歯予防に役立つことを期待したい。
休暇村
●出発点の休暇村へと帰還した。この休暇村は一見生活拠点となりうるように見えるかもしれないが、おそらくはそうはならない。「ウォーキング・デッド」等、多くの事例から察するに、このような鉄筋の建造物は避難所というよりはヤツらの死体置き場となるのが常である。あるいは奥の部屋の厳重に施錠した一室にヤツらがびっしりと閉じ込められ、内側からドアをガンガンと叩いている図が思い浮かぶ。ここがヤツらの休暇村となり、その魂に平安が訪れることを願う。

2012年4月19日

ゾンビと私 その23 「銃・病原菌・鉄(上)」(ジャレド・ダイアモンド著)

「銃・病原菌・鉄(上)」●文庫化されたら身の回りでスゴい勢いで読まれているので、今さら感もあるんだけど、でもやっぱり取り上げる、「銃・病原菌・鉄(上)」(ジャレド・ダイアモンド著/草思社)。ピュリッツァー賞受賞作。名著と言われるだけに、さすがにおもしろい。簡単に言えば、人類史の謎を解き明かす、というか文明の成り立ちを基礎的な科学的知見をもとにクリアに説明したもので、その出発点として、現代における大陸間人種間の不均衡はどこから来ているのだろう?という疑問を設定しているのがうまい。ヨーロッパ由来の白人たちはニューギニアを植民地化したが、なぜその逆ではなかったのか。なぜアメリカ大陸の先住民は旧大陸の住民に征服されたのか。なぜその逆ではないのか。
●いちばんおもしろいと思ったのは、農耕と家畜について書かれた章。農業というものが、最初の第一歩からヒトによる一種の品種改良だったことがよくわかる。トウモロコシの最古の原種は実のなる穂軸が1.3cmしかなかった。現代は45cmの品種があるという(ウチの近所のスーパーにあるのはそこまでは大きくはないけど)。リンゴの野生種は直径2.5cmなのに、スーパーのリンゴは7.5cmくらいある。エンドウは野生種と栽培種では、10倍ほどサイズが違う(もちろん栽培種が大きい)。なぜか。ヒトが食べるに適した大きな個体を選択的に栽培したからだ。それが何千年と繰り返されて、栽培種は野生種よりずっと大きくなった。
●野生の小麦は穂先に実ると、実をまき散らして、地面から発芽する。実をまき散らすのは、子孫を残すため。しかしこれではヒトにとっては都合が悪い。勝手にまき散ってもらっては、収穫ができない。ところが突然変異で、まき散らさないタイプの小麦が生まれる。ヒトはその変異種を栽培する。長い年月を経て、実をまき散らさない小麦が栽培種として世界中に広がり、多数派となった。つまり、これは自然淘汰だ。かつては小麦は子孫を残すために実をまき散らしていたのが、ヒトという動物が繁殖して農耕を覚えたら、実をまき散らす種よりも、まき散らさない種のほうが子孫を残すのに有利になったわけだ。
●ミツバチが花粉を運んだり、動物が果実を食べて種子を排泄して植物の繁殖を手助けするのと同じように、ヒトも自然のメカニズムの中にひとつの種として組み込まれていることを改めて実感する。「人間vs自然」のようなロマン主義的な観点を、自然界は有していない。ああ、オレたちって動物だなあ。
●ヒトという種のみを除外した自然礼賛のような見方があるけど、実際にはヒトという種のない自然なんてものはない。じゃあ自然のメカニズムに取り込まれていない種というものがありうるのか、というとありうる。それがゾンビだ。彼らは農耕も狩猟採集もしない。ヒトを襲うのは本質的には捕食ではなく、一種の行き止まりの繁殖であり、コピーワンス繁殖みたいなものだ。環境の変化により生態系が変化しても、食糧の心配など必要としない。生存本能もなければ、生殖本能もないのに、生きている(死んでるけど)。ワタシたちがゾンビに恐怖するのは、ヒトと異なり、彼らが本当に自然から独立しているからだ。ゾンビという現象は、潜在的にある種の自然礼賛と表裏一体の関係にある。

参照:不定期終末連載「ゾンビと私

2012年2月 3日

ゾンビと私 その22 NHK「ヒューマン なぜ人間になれたのか」

●前回、「ウォーキング・デッド」について書いた。その後しばらくして、たまたまNHKの「ヒューマン なぜ人間になれたのか」というドキュメンタリーを見た。これは鋭いっすよ。どうして地球上にこれだけヒト、つまりホモ・サピエンスが広がったかという話。それなりに賢くて強いライバルはたくさんいたのに。
NHK「ヒューマン なぜ人間になれたのか」●興味深かったのは、他の霊長類との比較。ゴリラの生殖間隔は4年、チンパンジーは5年、オラウータンにいたっては8年だという。この間、母親はずっと子にお乳を与えている。これに対してヒトは一年だ。繁殖のスピードがぜんぜん違うんである。この旺盛な繁殖力により、ヒトは世界に広がった。オラウータンはヒトをわれわれがネズミを見るかのような目で見ていたのかもしれない。ネズミ算ならぬヒト算。人類増えすぎ。アフリカの大地だけじゃ到底ヒトをまかないきれず、ヒトはすさまじい勢いで地球上に広がった。
●さて、そしてヒトの多くはゾンビになってしまったわけだ。「ウォーキング・デッド」の先々のシーズンの展開がこれである程度、予想できないだろうか。つまり、ゾンビをヒトに戻すような都合のいいワクチンなど開発されないとして(そのはずだ)、このまま多数のゾンビvs少数のヒトの戦いが続いた場合、勝者はどちらか。
●もちろん、ヒトなのだ! なぜならゾンビは繁殖できないから。ヒトは繁殖する。ヒトのうち、かなりの程度はゾンビになってしまうだろう。しかしヒトがゾンビを倒した場合、確実にその数だけゾンビは減る。ヒトのゾンビ化率<ゾンビ撃退率+繁殖率を考えて、右辺が大きくなるように保てさえすれば、いずれ地球はふたたび人類がゾンビを圧倒するようになる。どれくらいの時間がかかるかはなんともいえないが、あれだけ地球がゾンビに覆われても、それでもゾンビは不利だ。
●ただし、ヒト側も現時点で手にしているリソース、ガソリンであるとかクルマ、ミネラルウォーターや加工食品、現代文明が作り出した道具類等々をいったんは失ってしまうだろう。文明を維持するには、あまりにヒトは減りすぎた。最悪、石器時代からやり直しの可能性すらありえる。そうなった場合、今度はヒトの敵はゾンビ以上に大型の肉食動物(本来の捕食者たちだ)になるという展開はありうる。「ウォーキング・デッド」シーズン256くらいまで続くと、案外絵面は「はじめ人間ギャートルズ」みたいな感じになってて、主人公の子孫たちがマンモスを追いかけているのかもしれない。え、ゾンビ?そういやそんなヤツ昔いたっけなあ、みたいな。

2012年1月31日

ゾンビと私 その21 「ウォーキング・デッド」

ウォーキング・デッド●ついに見た、ウワサの「ウォーキング・デッド」を。先日ご紹介したhulu(フールー) で2シーズン13話。はっきり言って、これは傑作。現在のワタシたちが直面しているゾンビ禍を、これほど正面から見すえた作品はかつてなかった。必見すぎる。
●え、「ウォーキング・デッド」なんて、知らないよ。そんなあなたのために言っておくと、これは映画ではなくテレビシリーズである。「ショーシャンクの空に」と「グリーンマイル」の監督であるフランク・ダラボンによる、サバイバル・ドラマ。全米で大ヒット、したのかな? まあ、そんなことはどうでもいい。大切なのは、この現実的なゾンビ設定と、人々の暮らしのあり方だ。
●ここではヤツらはゾンビではなく「ウォーカー」と呼ばれるのだが、実質的に正統派ゾンビである。まず、走らない。ゾンビは走っちゃいけません。動きもややとろい。俊敏なゾンビとか、ゾンビじゃないし。すなわち古典派。もちろん、人をめがけて喰らいつこうと襲ってくる。肉食欲望が本能のすべてで、人のみならず動物も喰う。頭を撃つなり破壊するなりしないと死なない(いや死んでいるんだった。停止しない)。
●物語はすでにヤツらに襲われ、荒廃したアメリカから始まる。しかし、これまでに当連載「ゾンビと私」でも述べてきたように、人はいきなり絶滅したりはしない。数少ないながら生き延びる人たちがいる。彼らは集団を作る。都市にもいる。田舎にもいる。都市部は人口密度が高いだけに危険であり、逆に農村部であればゾンビ密度も低い。先行研究を正しく活用した設定により、ヤツらだらけになったこの地上で人がどうやって生きていくかを描く。
連載第9回でも述べたように、Zday以後、ゾンビと並んで脅威となるのは、実は人間である。そもそもなぜゾンビ禍に襲われたかといえば、人間が共生能力を失ったからであるのだから。そのときがやってきても、やはり私たちは変わらない。最初は軍隊がヤツらと戦ってくれるかもしれない。ヤツらの死体がうず高く積まれるだろう。それをどうするか。燃やさねばいけない。除ゾンが必要だ。しかしではヤツらの焼却をどこでするかとなるとどの自治体も受け入れようとしない。住民投票をするかもしれない。Noの答えが出る。人々は一方で政府は除ゾンせよと叫び、一方でわが自治体で受け入れはできないと拒む。こうして賞味期限間近だった民主主義は終焉を迎える。悪辣な業者がZカウンターを売り出す。ゾンビに襲われにくい体質を作るための食事法を伝授し始める者も出てくるかもしれない。味噌が効きますよ、化学調味料は摂取しないでください、ヤツらをおびき寄せないために。しかしヤツらはお構いなしに噛み付く。ガブツ、ガブッ! あなたの家の外壁をヤツらが唸り声を上げながら、力いっぱい叩き出した。そんなときに、手近の武器を持って立ち上がることもなく、こう考える。政府はなにをしているのか、あんなのが国の指導者ではどうにもならない、これはゾン災ではなく人災だ、マスコミはなにをしている? 食糧を確保しなければ、アマゾンに発注しよう、クロネコヤマトなら来てくれるはず……。ガブッ。
●おっと、いけない、「ウォーキング・デッド」であった。「ウォーキング・デッド」はこの手のものとしては珍しく、シーズン1よりシーズン2のほうがさらに秀逸である。このゾンビで埋め尽くされた世界にあって、人間にとって人間は脅威であり続ける。一方、人間は共同体を作ることでしか生存できない。この二律背反の中で人はどう生きるのか。利己的であることとは、共同体の利益を考えることとはなにか。ときに人はその邪悪さをあらわにする。そこでふと思うのは、人間に比べゾンビはむしろ純朴である。ヤツらは咬噛欲求だけで生きている(いや、死んでいる)。恐怖も感じず、のびのびと死んでいる。明らかに邪悪なのはわれわれである。それを受け入れた上で、なお、私たちは希望を見出さなければならない。「ウォーキング・デッド」はその希望の実体とはなにかを微かに示唆している点で、他の同種作品群とは一線を画している。

2011年12月26日

サンタvsゾンビ、そして全世界ゾンビ地図

●メリークリスマス。みなさんのもとにサンタクロースはやってきたのであろうか。やってきたかもしれない。あるいは来なかったかもしれない。サンタにもいろんな事情がある。大人にいろんな事情があるように……。
●「サンタvsゾンビ」などあちこちの記事で紹介されているが、オックスフォード大学のインターネット研究所が全米各地でサンタとゾンビのどちらがよりGoogle検索されているかについて調査している。リンク先のマップを見ればわかるように、さすがクリスマス・シーズン、ほとんどの地域ではサンタがゾンビに勝利している。だが、ゾンビが勝利している地域もある。サンフランシスコのベイエリアとかシアトルとかヒューストンがレッドゾーンになっている。これらの地域ではサンタどころではないのだ。人々は答えを求めて検索窓に Zombies と打ち込んでいる真っ最中だ。彼らはなにを知りたいのかって? 言わせるなよ……。
●さて、上記は全米での「サンタvsゾンビ」についての対決結果であるが、もっと直接的な調査結果を知りたくないだろうか。すなわち「全世界におけるゾンビ検索度」だ。さすが、オックスフォード大学である、その辺の調査結果もきちんと発表してくれている。以下がその感染地図だ。
Mapping zombies

Mapping zombies via Oxford Internet Institute

●現在のゾンビ禍が明快に可視化されている。米国の大都市部において事態は深刻であり、欧州も一部局所的に危機的状況にある。そして日本。日本にもたしかに関東と関西において第2レベルの汚染が観察されている。しかし欧米の都市圏に比べれば、逼迫した状況とは言えないだろう。また、つい赤い円の大きさばかりを注目してしまうが、全世界で見ればほとんどの地域においてゾンビは不検出である。調査結果を冷静に受け止め、デマに惑わされることなく落ち着いて行動したい。現状、どこが安全かについて早まった結論を出すつもりはないが、人口密度とゾンビ度には相関関係があるように見える。念のため、人ごみは避けるのがいいかもしれない。人ごみに出かけた場合はこまめな手洗いを推奨したい。うがいもいいだろう。マスクの有効性については疑問を感じる。

2011年9月 6日

ゾンビと私 その20 「ゾンビの作法 もしもゾンビになったら」

ゾンビの作法 もしもゾンビになったら●さて。ゾンビ新刊が出るというのだが、これはどうしたものだろうか。「ゾンビの作法 もしもゾンビになったら」(ジョン・オースティン著/太田出版)。これまで不定期終末連載「ゾンビと私」では、「いかにこのゾンビ化する社会のなかで、生き残るか」を探求してきたわけであるが、この本は最初の立ち位置からして違う。「本邦初となる、ゾンビのための、ゾンビとして生きていくための指南書」なんである。つまり、「人間の襲い方」とか「仲間の増やし方」とか「ゾンビ自殺のやり方」(あるの?)とか、そんなゾンビ・ライフの送り方について書かれているという。
●そこまであっさりと諦めてしまっていいんだろうか。人間性を捨て去れるものだろうか。と疑問を感じるとともに、現実問題としては「郷に入れば郷に従え」、どうせゾンビになるのが避けられないなら、せめてゾンビとして少しでも快適に生きたい(いや、死にたい)という願望が生まれても不思議ではない。そうだよな、「仲間の増やし方」とか、大切だよな。人間として生きてたって、仲間を増やすのは大変だ。どこからが仲間でどこからが仲間じゃないのかよくわからなかったりするし、なんかメンドくさいから仲間なんかいらないやと思っても、仲間がいないとなんにもできない。だからゾンビになったらなったで、やっぱり仲間が欲しくなるかもしんない。「さまよう鎧」みたいに仲間を呼んだだけで隣にホイミスライムが現れるとは限らない。ゾンビなのに仲間がいないと、その辺の銃を持ったヒトに簡単に頭をぶち抜かれるかもしれない。きっとゾンビだって孤独は辛い。大勢の仲間たちといっしょに、生き生きとした(いや、死に死にとした)ゾンビ生活を送りたい。この本はそんな人(ていうか元ヒト)のためにあるのかな、と思いつつ、果たしてこれを読んでしまって平気なのか、やはりヒトはヒトとして生きることだけを考えるべきなのではないかと激しく葛藤する。

2011年8月22日

ゾンビと私 その19 ジョナサン・ケント演出「ドン・ジョヴァンニ」

●日曜の午前中から新宿バルト9へ。ソニーLiveSpireのワールドクラシック@シネマ2011「ドン・ジョヴァンニ」。午前11時からの1回のみ上映で8/20~8/26の一週間(東京以外も全国各地それぞれのスケジュールで上映。東京より先に終わったところもあれば、後のところもある)。2010年のグラインドボーン音楽祭から、ジョナサン・ケント演出、ユロフスキ指揮エイジ・オブ・インライトゥメント管弦楽団(すばらしい)、ジェラルド・フィンリー (ドン・ジョヴァンニ)、ルカ・ピサローニ(レポレッロ)他。
●よく練れた演出で、おもしろかった。冒頭の場面、ドン・ジョヴァンニはいきなり悪辣。騎士長と決闘なんかしない。相手が油断してる隙にさっさとでかい石を拾って、後ろから騎士長の後頭部にガツン、さらにガツッ!、とどめにガツッ!と一方的に殺してしまう。他人への共感能力を徹底的に欠いたドン・ジョヴァンニ像をさっくりと宣言。嫌な感じのリアリズムで舞台を引き締めてくれた。
●レポレッロはポラロイドカメラで主人のお相手をパシャって撮ってカタログにしてる。そうだよなあ、カタログには写真がなきゃ(笑)。ポラロイドカメラだから時代は少し昔なのだ。今なら「♪イタリアでは640人~」と歌いながら、iPadの画面を指でひゅんひゅんしながら獲物を自慢するところか。
●ドンナ・エルヴィーラっているじゃないすか。この役ってコミカルというか、イジメたくなる役柄だと思うんすよ、基本的に。すごくダメな人なのに、正義を振り回すという設定に、作者のイジワルさを感じる(というかドンナ・アンナに対してもツェルリーナに対してもイジワルさは感じられるけど)。1幕の終わりでドンナ・エルヴィーラとドンナ・アンナ、ドン・オッターヴィオの3人が仮面をつけてドン・ジョヴァンニの屋敷を訪れる場面で、ドンナ・エルヴィーラは顔にピエロのメイクをしている(笑)。そうか、女ピエロだよなー、ドンナ・エルヴィーラって。
●ドン・オッターヴィオの役どころは愚鈍。「ドン・ジョヴァンニ」ってあらゆる脇役に対して作者がイジワルじゃないですか。そこが好きとも嫌いともいえる。
●おっと話がそれた。この演出でいちばんいいなと思ったのが死んだ後の騎士長の扱い。平凡な演出の「ドン・ジョヴァンニ」ではこれが見るに耐えない。石像がしゃべるとか、晩餐にやってくるなんてのでは、本来シリアスでなければならない場面が(少なくとも音楽はそうなってる)、どうしようもなくバカバカしい場面になりがち。で、この演出では石像は出てこない。レポレッロとドン・ジョヴァンニが墓場で出会うのは騎士長の石像ではなく死体そのもの。墓から出てきた死体が動く。つまり、これはゾンビだ。そうは明示されていないが、どう見てもゾンビ。ドン・ジョヴァンニはゾンビ騎士長を晩餐に招いたんである。これ、意外と歌詞もそのままで通るっぽい。石像でもゾンビでも触ると冷たいし。
●で、地獄落ちの場面だ。やってくるのは石像ではなく、生きている死者だ。その登場の仕方だけが無理やりすぎて思わず声をあげて笑ってしまったが(どんなかは内緒)、ドン・ジョヴァンニは騎士長ゾンビに襲われて血だらけになって地獄に落ちる。落ちても死体はちゃんと残ってる(描かれていないけど、後日談としてはドン・ジョヴァンニも甦り、次々と女たちを真の意味で襲い、死後バージョンのカタログが作られることになるだろう。また、騎士長は確かに食事にやってきたのだともいえる。人間の食い物は食わないけど、人間は食べちゃいます~的な)。
●なるほど、これはいいね。石像より生きている死体のほうが、ずっと話が通るし、今日的で、なによりモーツァルトの音楽が救われる。ジョナサン・ケント、鋭いな。と思ったら、デイヴィッド・マクヴィカーも騎士長ゾンビの演出をやってるらしい(未見)。そうだなあ、これたどり着く結論としてそうなるしかないってところもあるだろうし、もうこれからは騎士長=ゾンビを標準にしてもいいくらいなんじゃないか。少なくとも私たちの社会にゾンビ禍が訪れている間は、アイディアを共有していいってことにしてはどうか。頼むよ(誰に?)。
●昨日8月21日は本サイトCLASSICAの設立16周年なのでした。祝。

2010年10月12日

ゾンビと私 その18 御岳山ハイキング

●長かった夏が終わり、ようやく秋晴れの一日が。御岳山にハイキングに行って来た。
御岳山からの眺望
●ふー。いい眺めだこと。あっ、すいません、実はケーブルカー使って、一気に登っちゃいました。
●なぜ山へ行くのか。この不定期終末連載「ゾンビと私」をご愛読いただいている皆様には今さら説明するまでもないことであるが、念のため簡単に説明するとこういうことだ。地上がゾンビであふれかえるZdayに備え、私たちは人口過疎な場所を避難所として見つけ出す必要がある。東京のような高密度地域はあっという間に感染は広がる。感染者がお隣にガブッ、お隣がそのお隣にガブッ。都市秒殺。しかし山なら人口密度が薄い上に、ゾンビは理由もなく山を登攀しないであろう。という仮説に基づき、この数年間にわたり毎秋、東京近郊低山をリサーチしているわけだ。
御岳山の記念写真はこちらへ●はい、チーズ。パシャッ。うーん、御岳山は昭和の香りに満ちてるなあ……ていうか、ここ、山頂が超賑わってる! 地方都市の繁華街より賑わってるんじゃないかというくらい人多すぎ、みやげ物屋だらけ。しまった……。近年足を運んでいる奥武蔵方面の怖いくらいの寂しさに比べ、御岳山はなんと繁盛しているのであろうか。これ、場所がメジャーすぎてゾンビ・ハイキングの選択肢として失敗してないか!?

御岳山で神に祈ろう!
●山頂には関東有数の霊場、武蔵御嶽神社がある。そう、来るZdayにできることといったら、ここで神に祈るしか……しかしこんなに人が多いんじゃここに来るまでに自分もゾンビになってるぞ!
●ちなみに、この山にはコジャレた雰囲気の女子がいっぱいいました。山ガールだ。彼女たちもZが来たらみんな山ゾン……いやいや、ステキですねー、山ガール。

御岳山にも鎖場が
●おっとこんなとこに鎖が! この大岩を登れるようになっているようだ。なるほど、これは対ゾンビ的には優れた地形かもしれない。ゾンビは鎖を登らないだろう。しかし、登ってどうする? 下にウジャウジャとゾンビ・ハイカーたちが待ち構える中で、大岩の上で袋小路に入るだけかもしれない。いずれにせよ、鎖で登るような怖そうなところに近寄るつもりはないのでスルーして先へ。

御岳山ロックガーデン
●そしてやってきたのが、ロックガーデンだ! なんという爽快さ。苔むす岩をぬって流れる清流のせせらぎに耳を傾けていると、あまりの心地よさになにもかも忘れてしまいそうになる、この地上にゾンビ禍が訪れようとしていることまで……。

御岳山でキノコ狩り♪
●帰路はケーブルカーには乗らず、大塚山、丹三郎尾根、古里駅ルートを歩いた。写真は途中で見かけた2種のキノコである。左は白くて大ぶりで食欲をそそる。右は鮮やかな赤が魅惑的である。山へ逃げた場合、食糧の確保は重要な問題になる。したがって、どのような場所に何が生息しているかという植生を観察しておくことは大切である、mgmg、うひゃひゃひゃひゃひゃひゃ、とりわけ容易に採集できるキノコ類なんてサイコーだろ、うひょひょひょひょ、くっくっくっくっくっ、ふひゃひゃひゃひゃ……。

御岳山登山口
●はっ。下山したのだった。古里駅に通じる登山口には上記のような注意書きがある。獣害対策用に金網の開き戸があり、最上部には電流が流れている。これはいざというときには有効であろうか? いや、ヤツらを留めるにはあまりにも脆弱な金網であり、電流など猿相手ならともかく連中にはいかなる痛痒も与えないであろう。ヤツらは痛みを感じない。恐怖も感じない。ただひたすら「喰いたい」という本能のみを持つのである。今回確認した範囲では、御岳山の安全度は他の低山に比べかなり劣ると断定せざるを得ない。むしろここは純然たるハイキングに最適な山である。今後、さらなる調査に邁進したい。

2010年10月 5日

ゾンビと私 その17 「ワールド・ウォー・ゼット」(マックス・ブルックス著)

ワールド・ウォー・ゼット●ゾンビたちが跋扈する現代日本にあって必読の書ともいえる小説が刊行された。World War Z、もちろんZはゾンビのZ。「ワールド・ウォー・ゼット」(マックス・ブルックス著/文藝春秋)。「ふーん、ゾンビ小説ねえ、でも文字で読んだってゾンビの怖さなんて伝わらないんじゃないの?」と訝しむあなた。違うんですよ、これは。スティーヴン・キングがその並外れた筆力によって「呪われた街」でドラキュラという古典的すぎる題材に新たな生命を与えた、というタイプの話ではない。「ワールド・ウォー・ゼット」では小説的完成度なんてものは脇に置かれて、現実としてのゾンビに立ち向かっている。すなわち、まさにゾンビがこの地球上を覆うというときにわれわれはどうすればいいのかという切実な問題意識から生み出された小説といえる。この点で、本作はあらゆるゾンビ映画ともゾンビ小説とも一線を画している。
●「ワールド・ウォー・ゼット」は、世界Z大戦後にまとめられた報告書という体裁を採る。ゾンビ大戦を終えた後、さまざまな生き残った証言者たちにインタヴューするという形だ。そう、人類はゾンビに打ち勝ったのだ。当初、地球規模でパニックが広がり、地上の多くがゾンビで埋め尽くされることになるが、人類はそこから反転攻勢に出て、ふたたび文明を取り戻した……という大きなストーリーが前提にある。アメリカで、ロシアで、中国で、日本で、なにが起きたのか。これはまさにゾンビ禍に対する予習だ。たとえば日本は国土が狭く、人口が多い。そのためいったん感染が広がり始めると止めようがない。しかもゾンビ大戦以前の社会の安全性が高かったため市民の武装度が低く、ゾンビと戦うこともできず、結局は国土を見捨てて難民として海外に脱出せざるを得なくなったという。これでは第二の「日本沈没」ではないか。小松左京の先見性をこんなところで思い知らされようとは。
●著者のマックス・ブルックスは映画監督メル・ブルックスの息子なんだそうであるが、実はこのブログでは彼の著作をすでに一度ご紹介している。The Zombie Survival Guide: Complete Protection from the Living Dead (未訳)がそうだ。つまり、彼はまず「ゾンビから生き残るためにどうしたらいいか」というガイドブックを、あらゆるシチュエーションを熟慮して執筆し、続いてその成果を小説という形態に発展させたのだ。本書が実践的なサバイバル小説として、実用可能な水準に達しているのはそのためだ。ワタシたちは証言者の記録に耳を傾け、考えなければいけない。その日、どこを目指すのか。山か、森か、海か、都市か、あるいは北なのか。

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●ゾンビ関連記事まとめ:「ゾンビと私」特設ページ

2010年2月10日

ゾンビと私 その16 「高慢と偏見とゾンビ」を読んだ

高慢と偏見とゾンビ●ようやく読了、「高慢と偏見とゾンビ」(ジェイン・オースティン、セス・グレアム=スミス著/二見文庫)。いやー、なんと言ったらいいのか。おもしろかったっすよ。さすが「全米で誰も予想だにしない100万部を売上げた超話題作」(笑)。
●これ、ジェイン・オースティンの名著「高慢と偏見」を下敷きに(そう、思いっきり下敷きに)、ところどころゾンビが出てくるという小説なんである。8割方は「高慢と偏見」そのまんま。主要登場人物とその造形、ストーリー展開も同じ。ただ、ときどきゾンビ。設定上、18世紀末イギリスには謎の疫病が蔓延して、ゾンビ化していて、主人公エリザベスをはじめとするベネット家の五人姉妹は全員鍛えられた戦士、ダーシー様もきわめて高い戦闘能力を有しており、ゾンビをぶった斬ってくれる、たまに。
●で、ワタシはマジメに堪能したんすよ。あー、ダーシー様の最初の印象ってこんな感じだったなー、とか、長姉のジェインって奥ゆかしくていいよねー、とか、そういえばいたなあ、ウィカムとかいう軽薄な男が!とか。……ていうか、それ要するに「高慢と偏見」再読を楽しんでるだけなんでは。
●そう、実を言えばゾンビ成分は案外薄い(だから本国ではゾンビ3割増量のデラックス愛蔵版も刊行されているんだとか)。ただ、そこのところにワタシはリアリティを感じる。ゾンビうじゃうじゃだったら、人は生き残れない。これ、田舎の話なんすよ。今後世界がゾンビで埋め尽くされた後、これまでにも当連載で言っているように、生き残った人々は都市部を捨てて人口密度の低い農村地帯で暮らす可能性が高い。そうなったとしても、人はゾンビと戦いながらも日々の暮らしの中でロマンスを夢見ることを止めたりはしない。世界で戦争が起きようと、革命が起きようと、半径20メートルの世界で起きるロマンスが色褪せることはない。ならばポスト・ゾンビ時代においても。これは古典の再演出とでもいうべき、予言的なロマンス小説なのだ。
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●ゾンビ関連記事を「ゾンビと私」特設ページにまとめることにした。読み逃した方はぜひ、もう読んだという方は再読を。このゾンビ時代を生き残るために。

2010年1月14日

ゾンビと私 その15 「最後のクラス写真」(ダン・シモンズ著)

「夜更けのエントロピー」●「まだゾンビ・ネタ書くんですか?」と呆れないでほしい2010年。むしろこれからがゾンビ、本格的に。他者との共生能力を失いつつある私たちの社会は今まさにゾンビ化が進行中なのであって、そこで「いかに生き残るか」という問いを突きつけられているところなのだから。で。
●先日、Twitter上で春巻さんから教えていただきました、ダン・シモンズの短篇「最後のクラス写真」(「夜更けのエントロピー」所収。奇想コレクション/河出書房新社)。なんと、泣けるゾンビ小説なんである。主人公はベテランの女性教師。舞台は「世界がゾンビ化してしまったその後」だ。そう、これまでのゾンビ・エントリーでも繰り返し述べてきたことだが、世界のほとんどがゾンビ化してもごく少数の人類は生き残る。ダン・シモンズはその生き残った孤独な人物の日常に焦点を当てた。
●人が生き残った。すると「いかに生き残るか」という問いは自動的に「いかに生きるか」という問いに変換される。活動範囲内に生存する人間は自分ひとり。職場であり居住地である学校にはゾンビとなった子供たちがいる。そこで元教育者として、なにをよりどころにして生きるか。その回答はひらたくいえば「仕事」であり「愛」なわけであるが、そのいずれも自分以外の誰か対象を必要とする行為だ。人がいなければ、ゾンビを相手にするしかない。先生はゾンビ化した子供を前に教壇に立つ。どうやって?
●ラストシーンは感動的だ。人は一人では生きていけない。じゃあゾンビと生きていけるのか。絶対いやだ、そんなの。でもゾンビ禍という災厄がなぜ訪れたかといえば共生能力の衰退のためだったわけで、アフター・ゾンビ時代においても「オレだけが生きていればいい」という排除の論理で要塞みたいな場所に引きこもっていてはそれは何も学んでいないのと同じなんじゃないか。だから必要なのは「愛」。そう美しく解することができる。と同時に、人に必要なのは「幻想」であり「物語」であって、これはビフォア・ゾンビ時代となにも変わっていないよ、とも読める。ゾンビ小説の傑作。

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不定期連載「ゾンビと私」

2009年12月 9日

ゾンビと私 その14 「高慢と偏見とゾンビ」

●お便りです。「拝啓 iio様。もうゾンビの話は飽きました。そろそろ妄想もほどほどにして、現実の世界に目を向けてみてはいかがでしょうか。敬具」
●ちがーーーう! なんということであろうか、ゾンビの脅威を現実のものとしてとらえていらっしゃらないとは。先日もとあるコンサートで暴れだしたお客さんがいてレイジ・ウィルスの仕業ではないかと思ったのであるが、えっと、あれ、メモをなくしたぞ、どのコンサートだったか、とにかく世界はゾンビ化しつつある。インターネットがどうとか、仮想現実ばかりに目を向けてちゃダメだ。今、世界はゾンビ。ワタシだけじゃないし、日本だけでもない、世界的にゾンビ。
高慢と偏見とゾンビ●で、これが今ウワサになってるベストセラー本、「高慢と偏見とゾンビ」だ(Seth Grahame-Smith, Jane Austen / Quirk Books)。これはなにかというと、ジェーン・オースティンの名作「高慢と偏見」とゾンビが合体したという、ムチャクチャな話(らしい)。「高慢と偏見」のあのステキすぎるお上品な世界に、突如、ゾンビが乱入してくる。果たしてダーシー様はゾンビと勇敢に戦うのであろうか、あるいは醜いゾンビに成り果ててリジーを襲うのであろうか。すでに映画化権も売れたという。そして、朗報。1月には二見書房より邦訳「高慢と偏見とゾンビ」が出版されるんである。このどうでもいいエキサイティングなゾンビ小説、読まずにはいられない。
●だれかオペラ化したらどうかな。あるいは「トリスタンとイゾルデとゾンビ」とか。「ロメオとジュリエットとゾンビ」とか。「オルフェオとエウリディーチェとゾンビ」……あれ、これは意外とフツーか、黄泉の国にゾンビがいてもなあ。

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不定期連載「ゾンビと私」

2009年11月26日

ゾンビと私 その13 ゾンビ・アウトブレーク・シミュレーター

朝起きたら街がゾンビだらけになっていませんように……●昔の人はいいました。「備えあれば憂いなし」。ゾンビの脅威だって同じである。そこで朗報。「ゾンビ・アウトブレーク・シミュレーター」の登場である。Googleマップを利用したWeb2.0なサービスが、ワタシたちの未来を予測してくれるのだ。舞台はワシントンDC。ここにゾンビがやってきた場合、住民たちはどれだけ持ちこたえられるのか、どのように感染が進むのかを、シミュレートしてくれる。
●設定項目をチェックして、スタートした後は、BGMと効果音が醸し出す終末感を存分に味わいながら、ただ見ていればOK。昔からPCを使った「ライフゲーム」というのがあるが、これは「逆ライフゲーム」というか「デスゲーム」。設定項目はInfection Settings のところにある。ここで初期状態における市民の数、ゾンビの数、ゾンビがやってくる方角、ゾンビのスピード、感染に要する時間などが設定可能だ。
●特に注目すべきはArmed Civilians(武装市民)の率とNumber of Policeである。市民の多くは逃げるだけだが、なかには武装してゾンビと戦う者もおり、その割合の初期設定は10%である(ゾンビの襲来が予見できていないことを考えれば妥当なところだろう)。またPoliceはそれなりに頼もしい存在である。Civilian Accuracy、すなわち市民の攻撃の正確性がデフォルトで10%しかないのに対し、Police Accuracyは60%である。これまた妥当なところではないか。しょせん素人は武器を持ってもゾンビの頭部を撃ち抜けるのは10発に1発、しかし警官は訓練を受けている上に所持している武器の精度も違うので10発に6発が命中するというわけだ。
●実際にシミュレーターを標準設定で動かしてみると、思ったよりも偶然(特に初期状態の警官の配置)に左右されることがわかる。あっという間に全滅するパターンもある一方、警官が一人だけ生き残り延々と何時間もかけて2000体以上ものゾンビを倒したケースもあった(だがそれでも最後は敗れてしまったのだが……)。
●なかなか示唆的なシミュレーターである。ワタシたちが生き抜くためには、警官の数を増やせばいいのか、あるいは市民の命中率を高めることを考えたほうがいいのか。机上の空論となることのない、実効性のある研究成果を期待したい。

Zombie Outbreak Simulator

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不定期連載「ゾンビと私」

2009年11月 5日

ゾンビと私 その12 ゾンビの基本~復習と予習

●「あの……、iioさん、どうして今ゾンビなんですか」と先日尋ねられ、あれこれと説明をするうちにワタシはハタと気づいた。ワタシはこんなにもゾンビの話を続けているにもかかわらず、「そもそもゾンビとはなにか」(略して「ゾンビそもそも論」)という基本事項についてなにも説明していなかった。「えっ、今さらそんなの知ってるよ」といわれるかもしれないが、一応、復習も兼ねて記しておこう。
買い物大好き!●もともとゾンビとは資本主義が生んだ大量消費社会への批判精神から生まれたものだ。ジョージ・A・ロメロ監督の元祖「ゾンビ」では、ゾンビたちが巨大ショッピングモールに集まってくる。彼らは人間だった頃の記憶に基づいてモールに吸い寄せられるんである。肉体は朽ちているのに、欲望は生きている。「欲しい、もっとくれ、欲しい、死んでも欲しい、死んだけど欲しがります」。それが元来のゾンビ像だった。だから、よく「生きてるんだか死んでるんだかわからない生気を欠いたオジさん」を指して「あの人、ゾンビみたい」というが、それは適切ではない。むしろそういう人はゾンビから遠い。「先週新製品を買ったのに、今週もっと機能がパワーアップした新機種が出た。これも欲しい、買いたい」。そういうのがゾンビだった。もともとは。
●ちなみにゾンビの起源は吸血鬼にある(とワタシは解している)。ゾンビ映画はリチャード・マシスンの小説「地球最後の男」(現在は映画化にともない「アイ・アム・レジェンド」と改題されている)にインスパイアされており、そこに登場する怪物は吸血鬼化した人類だった(だから映画「アイ・アム・レジェンド」で怪物がゾンビとして脚色されているのはそれなりに筋が通っている)。
●で、ここまでが「ゾンビそもそも論」だ。ところが近年になって様子が変わった。「28週後……」で、人類がゾンビ化する原因となったのは「レイジ(憤怒)ウィルス」だった。レイジ・ウィルスの感染者はあっという間に凶暴化して、人間を襲ったり食ったりする。この現代型ゾンビは過去のゾンビと違い全力疾走するのも特徴だ。また、「バイオハザード」で猛威を振るったのは「T-ウイルス」だった。Tはtyrant(暴君)のTだ。つまり、かつての初期型ゾンビでは、資本主義大量消費社会を生み出した私たちの欲望が世界を滅ぼしていたのに対し、近年のゾンビ映画では憤怒、不寛容、怨嗟といった人間の負の感情が世界を破滅へと導くように変化してきたわけだ。これほど納得のゆく話はない。われわれは他者との共生能力を失いつつある。多くのクラシック音楽ファンが目にしているように、コンサートホールで、オペラ劇場で、人々は感情を暴発させている。美しい音楽を聴きに来たはずなのに、なぜ老人の取っ組み合いが起きるのか。なぜ些細なマナー違反を見つけて若者を恫喝するオジさんがいるのか。ゾンビの兆候はいたるところに見て取れる。
●ゾンビは怖い。でも「ヤツらが怖い」というのは問題の半分でしかない。残りの半分は自分がゾンビになるかもしれないという恐怖だ。ヤツらも怖いが自分も怖い。怪物を追うものは自らも怪物となる。「うぉ!ゾンビ、許せん、キモい、死ね死ね死ね!」と怒りに任せてチェーンソーを振り回してしまうようでは、「ゾンビ取りがゾンビになる」あるいは「ゾンビに油揚げ」である。
●ちなみに先日ソニー・ピクチャーズさんからいただいたメールによると、来年「ようこそゾンビランドへ」(仮) (ZOMBIELAND)なる映画が公開されるそうである。めでたく北米初登場1位を獲得したということであり、オリジナルの予告編を見たところコメディのようであるので怖い映画が苦手なワタシにも安心して鑑賞できる点がありがたい。必見であろう、生き残るために、生きるために、生き延びるために。

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不定期連載「ゾンビと私」

2009年10月16日

ゾンビと私 その11 顔振峠~越上山ハイキング

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●先週末、また山に向かった。もちろん、これは来るべき人類ゾンビ化時代に備えて「逃れの地」を探しているわけであるが、まさに行楽日和と呼ぶしかない秋晴れの日に山を歩くというのは大変に気分が良いのである。今回目指したルートは「顔振峠~越上山ルート」。西武池袋線吾野駅より出発。歩行距離12km、標高差約400mというのは非体力派のわれわれにとっては丸一日かけてちょうど体力を9割方使い切るフルコースである。写真は駅からの眺め。駅前でこれくらいの人口密度であれば、都市部が完全にゾンビ化しても、まだある程度の人類は生き残っているものと考えられる。
●パンフレットやガイドでは3時間50分コースと書いてあるが、これは歩行時間の正味であり、昼食や休憩を込みにして6時間コースとみなす。朝に出て、夕方までに帰還する必要がある。なぜなら、人も住んでなければ電気も水道も通ってない山中で日が暮れてしまうと、どんな低山であれ完全なる闇夜が訪れるのであり、パニックになることは避けられない。山で夜になったらゾンビがいなくても怖い。ましてやゾンビがいれば「ゾンビとりがゾンビになる」事態は確実であり、不測の事態も考慮して夕方3時には下山する計画が基本だ。

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●顔振峠へ向かう山道からの光景はこんな感じだ。人口密度は極端に低い。以前にも書いたように、レイジウィルス(あるいはTウィルス)で汚染された場合、人は人に噛まれることによってゾンビになる。ゾンビは空気感染しないのだ。したがって、新宿や渋谷であれば1時間とかからず全員ゾンビ化するような状況であっても、このような峠であれば「噛みつこうにも噛みつく相手がいない」というゾンビ一人ぼっち状態がありうる。また、仮にゾンビがいても集団化する可能性は低い。相手が孤立した1体であれば、われわれはスティーヴン・セガールでなくとも戦い抜くことができる(こともある……気がする)。
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●が、顔振峠を越え越上山山頂を目指したところで意外な展開が。舗装道路も通っていないような山中に忽然とあらわれたのが諏訪神社である。事前に地図を見た段階では、無人の朽ちかけたような小さな神社を予期していたのであるが、これが大変に立派なものであり、しかも偶然にも祭りの日であったために人でにぎわっていたのである。えっ、この周辺に住んでる人、こんなにいたの? ていうか、ワタシの対ゾンビ田舎安全理論の根幹を脅かすような事態になってないか、これ。
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●そして山中の神社であるにもかかわらず、お神楽パフォーマンスが繰り広げられていたのである。気さくな地元市民が話しかけてきてくれて、これがいかなる祭りであるか説明してくれたのだが、ワタシの目は舞台に釘付け。あれは鬼とひょっとこ……いや、もしやゾンビとヒトと解釈すべきなのかっ!
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●そして笛と太鼓に先導されて、勇壮な獅子舞が登場。容貌は精悍、その動きは俊敏。なかなか戦闘力が高そうである。顎関節の発達が頼もしい。噛みつかれる前に噛みつけ。そんなメッセージをわれわれに伝えようとしてくれているようだ。ゾンビは「神なき世界」の住人だが、西洋の神とワタシたちの神は違う。古来より越上山は信仰の山と崇められている。ヤツらの即物的散文的な感染力に対し、山中の霊的存在がなんらかの対抗力を発揮することは十分にありうることと期待できる。
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●下山はふたたび写真のような山道を歩くことになる。標高差や歩行距離は高尾山あたりと変わらないのだが、奥武蔵方面は断然ヒトが少ない。いざゾンビの侵入を許した場合、高尾山では麓のゾンビ・ハイカーが目の前のハイカーをガブッ、さらにそのハイカーが前のハイカーをガブッっ、さらに前をガブッ、ガブッ、ガブッ……と咬噛の連鎖がそのまま頂上までつながることは避けられない。その点、東吾野から西吾野にかけての低山は、行楽日和の週末であっても道程の大半は、前後にヒトがいない状態で静かに歩行することが可能である(逆に言えば地図や水、食糧の携行は必須。高尾山のように頂上に自販機とか水洗トイレがあったりはしない)。
●憤怒と不寛容がもたらす人類ゾンビ化の危機をわれわれはいかに乗り越えるべきか。準備を怠ってはいけない。今後も引き続き低人口密度地域の取材に努めたい。

参考文献:
駅から山あるき 関東版 大人の遠足BOOK
The Zombie Survival Guide: Complete Protection from the Living Dead

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不定期連載「ゾンビと私」

2009年9月24日

ゾンビと私 その10 多峯主山~天覧山ハイキング

●えっと、シルバーウィークっていうんすか? 連休らしく、行ってきました、山に、ハイキング。昨秋よりしばしば東京近郊の低山をいくつか巡っているわけだが、そろそろその目的が読者のみなさまにも明らかになってきたことと思う。来るべきゾンビ化した社会において、ワタシたちはどこに逃れるべきか。先人たちの知恵を検討してきた結果、わたしたちの選択肢は山あるいは海のいずれかしかない(日本にはツンドラ、ジャングル、砂漠はない。またあったとしても生存には不利である)。
●そこで山である。ゾンビは山を能動的には登らない。彼らが登るとすれば、そこに人がいるからである。人は山に登る。そこに山があるから。ゾンビは登らない。そこに人がいないから。
●しかし山といっても、本格的に登山しなきゃいけないような山では困るんである。そういった山はゾンビが登れない以前にワタシも登れない。そこで、ワタシも容易に登れて、なおかつゾンビは登らないという前提で、標高差は500メートル以内、総歩行距離10キロ以内のハイキングコースを調査対象としている。昨日、偵察してきたのは飯能の多峯主山~天覧山コース。こちらはなんといっても小学生の遠足コースになるくらい踏破が容易。それでいて十分に山の静けさを味わえる。最寄り駅は飯能で、これが「えっ、ここからハイクするの?」と一瞬戸惑うほど街が開けているのだが、駅から20分も歩けば登山口に到達できる。お弁当は多峯主山頂上がオススメ。
多峯主山(とおのすやま)●こんな山道を歩いていると、どんどん気分が和んでくる。は~、平和だ、緑が目にまぶしい……。世界はこんなに美しいのに、まさか下界でゾンビたちの死の饗宴が繰り広げられているなんて!

●天覧山から多峯主山へ向かう途中には「雨乞いの池」と呼ばれる池がある。これは水源確保の意味からも潜伏時の重要な拠点となる。日照りが続いたときはここで祈ればオーケー。さらに池の中には小型ながらも10~20程度の鯉が泳いでおり、緊急時の食糧確保にも役立つ。
雨乞いの池
●さらに見逃せないのが、天覧山山腹にある「十六羅漢像」である。これは五代将軍綱吉公が重い病に罹った際、生母・桂昌院が能仁寺の住職に祈願をお願いしたところ綱吉公の病は快癒し、そのお礼に奉じられたという由緒ある羅漢像である。ゾンビに対して神が無力であることはこれまでもたびたび証明されている。彼らは神なき世界に生きている(いや、死んでいるというべきか)。だが、仏はどうだろうか? ゾンビに対して御仏の力が及ばないなどと誰が言えようか。
十六羅漢像
●帰りは飯能河原に寄って、ゴロリと寝そべって休憩することも可。ハイキングの後のソフトクリームは格別であり超オススメ。川沿いのお店で飲食もできる。もちろん彼らがゾンビになっていなければ、だが。

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不定期連載「ゾンビと私」

2009年9月17日

ゾンビと私 その9 「斬撃-ZANGEKI-」

●さわやかな秋晴れの一日。こんな日にふと思い出してしまうのは……そう、ゾンビの脅威だ。
●ソニーピクチャーズさんからご案内をいただきました。

斬撃-ZANGEKI-』のご案内

いつもお世話になっております。

強すぎて戦う相手がいなくなってしまったスティーヴン・セガールが、ついにゾンビと戦うサバイバル・アクション映画『斬撃-ZANGEKI-』が10/3(土)公開されます。

●おいおい!(笑)。「強すぎて戦う相手がいなくなってしまった」って。いや、ありがたいっすよ。これまでに考察してきた対ゾンビ・サバイバル術のいずれもが決め手に欠けるものであったという現状、よもやひとりの男が人類をゾンビから救ってくれるなどという解決策があったとは! 最強の人類vsゾンビ。
●「斬撃」というタイトルからして、武器は刃物なんだろう。これは前回ご紹介したThe Zombie Survival Guide: Complete Protection from the Living Deadの教えにも合致している。「ゾンビの攻撃から生き残るための10のレッスン」にもあるように「刃物は弾切れを起こさない」から。
ゾンビ・サバイバル・ガイド●ちなみにこの The Zombie Survival Guide、やっぱり読めてないんである、英語だし。一刻も早い邦訳が待たれるところである。ただ、放置しておくのもなんなので、おそらく結論部分と思われる個所を拾い読んでみた。すなわち、地上がゾンビにあふれかえった場合、仮にそこまで生き延びることができたとして、私たちはどこで暮らすべきか。その挙げられた候補は、ワタシのこれまでの考察とそうは変わらない。基本は人間の非居住域だ。

1. 砂漠
2. 山
3. ジャングル
4. 森
5. ツンドラ
6. 極地
7. 島
8. 海で生きる

 それぞれの地域において、生存に有利な点、不利な点を、The Zombie Survival Guideは冷静に検討してくれている。たとえば山はゾンビにとって登攀不能である反面、食糧や水、物資の補給のために地上と往復する際に危険であること、ジャングルは食糧に困らないが、伝染病や昆虫の脅威があること、島は次々と遭難者が押し寄せてくるため意外と安全性が低いこと。基本的に、人間が容易に定住可能な地域は、ゾンビ以外に生き残った人間の暴徒や海賊に襲われる可能性も高いことが指摘されている。食糧が枯渇する冬の森では、カニバリズムさえ起こりうる、と。ゾンビ化された世界にあっても、人間にとって人間は脅威であり続ける。一方、人間は共同体を作ることでしか生存できないという二律背反がある。憤怒、不寛容が現代型ゾンビの危機を作り出したと考えられる以上、ゾンビ以後の世界においてもわたしたちがいかに他者と共存するかという問いはさらなる切実さをもって有効であり続けるだろう。
●で、結局どこが安全なのよ? このガイドは安易な解答を用意してはくれない。ひとまずはスティーヴン・セガールの方策に頼るしかないのか。人類最強の男が、いかにこの危機を乗り越えるのか、注視したい。

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不定期連載「ゾンビと私」

2009年7月24日

ゾンビと私 その8 - The Zombie Survival Guide: Complete Protection from the Living Dead

フランクフルトに数百人の「ゾンビ」が出現(ロイター)。この記事には写真が少ないので探してみた。Zombies Invade Frankfurt
●フツーに怖いよ、これ。どうしてこんなことするの。「ゾンビのメイクを施した」っていうけど、本物が混じってたらどうするのか。これが皆既日蝕と重なってたら、確実に街は壊滅していた。
ゾンビ・サバイバル・ガイド●そんなゾンビ恐怖症のみなさまとワタシにとって、生き残るために必読の書と思われる本を発見した。その名も The Zombie Survival Guide: Complete Protection from the Living Dead (Max Brooks著)。これだ! これぞまさしくワタシたちが必要としている本では?
●同書の案内文に書かれた「ゾンビの攻撃から生き残るための10のレッスン」はこんな感じだ。

1. ヤツらが生き返る前に準備せよ。
2. ヤツらは恐怖を感じない。ならばあなたも怖がるな。
3. 自分の頭を使え。ヤツらの頭を切り落とせ。
4. 刃物は弾切れを起こさない。
5. 最善の防具は、ぴったりとした服と短い髪。
6. 階段を昇れ。そして破壊せよ。
7. クルマから降りよ。自転車に乗れ。
8. 動き続けろ、姿勢を低くしろ、静かにせよ、警戒を怠るな!
9. 安全な場所はない。より安全な場所があるだけだ。
10. ゾンビが去っても、脅威は続く。

●なるほどー。いちいちタメになることばかり。でもこれ英語なんすよね。読めないと思うが、一応注文しておくか……。どこかの出版社で翻訳してくれないだろうか?

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不定期連載「ゾンビと私」

2009年5月21日

ゾンビと私 その7 「アイ・アム・レジェンド」

ウィルス●あの「ゾンビ」化してしまうウィルス、「レイジ・ウィルス」でも「T-ウィルス」でもなんと呼んでもいいと思うんだが、あれが日本で蔓延しだしたとき、まず起きるのはパニックではなくて、もっと陰湿な何かだと思う。
●国内第一感染者が高校生だったと報道される。すると、それが××町の○○高校の生徒だということがネット上の掲示板で伝わり、その学校の生徒や教師、感染者の家族や親戚に対して、無数の嫌がらせ電話や脅迫、イジメが起きる。××町と同じ県内の住民だというだけで、みな不潔であると忌み嫌われる。
●そうこうしているうちに、××町の住民はものすごい勢いでゾンビ化してゆく。報道で最初は1人と発表された感染者が、10人になり、100人になり、1000人になる。高機能マスクが売れ始める。一部の専門家が「ゾンビ・ウィルスはマスクでは防げません」と指摘するが、だれも耳を貸さない。それどころか、マスクを装着しない人間が非難される。メディアは迅速に対応しない厚労省を批判する。「ゾンビは人災ではないか」と追及する人まで出てくる。だが、いくら他人を批判したところで、ゾンビ人口の増大は止まらない。1万人が100万人になり、1000万人になり、1億人になる。
●すると、今度は感染から無事だった人たちが怨嗟の的になる。オレの妻は、子は、親兄弟は、ゾンビになってしまった。それなのに、あの家族は全員が無事でありけしからん。あいつらを襲え! あの家の娘をゾンビ様への供物として差し出せっ!ついに人が人を襲い始める……。
アイ・アム・レジェンド●はっ。ワタシはなにを妄想しているのであろうか。「アイ・アム・レジェンド」の話をしようと思っていたのだった。リチャード・マシスンがホラー小説「アイ・アム・レジェンド」を書いたのは1954年のこと。もう半世紀以上前だ。この小説は長く「地球最後の男」の題で親しまれてきたが、最近ウィル・スミス主演で「アイ・アム・レジェンド」として映画化されたことから、原作の書名も「アイ・アム・レジェンド」に変わっている。これはゾンビ小説ではなく、吸血鬼小説で、自分以外の全人類が吸血鬼と化してしまったというシチュエーションで話が進む。
●吸血鬼は日光に弱い。そこで主人公は昼は自由に行動できる。夜は自宅に立てこもる。ちなみに、この主人公は結構クラヲタで、夜になるとベートーヴェンとかブラームスとか、レコードを聴いてるんすよ。バーンスタインの交響曲第2番「不安の時代」とかも聴いてる。そりゃたしかにこれほど不安な時代はないよなー。しかし1954年の小説でですよ。まだステレオ録音がない頃なのに、もうバーンスタインの最新作を聴いている。
●死者がよみがえって吸血鬼になる。吸血鬼は人を噛む。噛まれると吸血鬼になる。これってゾンビっぽくない? というか、これがゾンビ誕生のモデルとなったのかもしれない。映画版の「アイ・アム・レジェンド」では、思い切ってこの「吸血鬼」を「ダーク・シーカー」という化け物に設定を変更しているのだが、これはどこからどう見てもゾンビ。それも最近の「走るゾンビ」同様の、凶暴で素早いヤツで、こいつらに出会ったら勝ち目はない。
●が、救いがひとつある。もとが吸血鬼だっただけに、こいつらは日光の下では活動できない。夜行性ゾンビなのだ。もしゾンビに日光という弱点が与えてもらえるのなら、ワタシたちはどうすればいいのか。生存戦略上、日照時間の長い地域が有利である。日照量の多い赤道直下を目指すべきなのか、あるいは白夜を求めて北欧や南極圏に行くのか、それとも渡り鳥のように季節ごとに最適な土地を目指すのか。来るべきゾンビの襲来に備えて、ワタシたちは準備を怠ってはいけない。

参考:
渡り鳥は山を越えて~月別・緯度別の日照量シミュレーション付き (Junkyard Review)

不定期連載「ゾンビと私」

2009年5月11日

ゾンビと私 その6 「大西洋漂流76日間」

●前回の「イントゥ・ザ・ワイルド」で書いたように、人類が次々とウィルスに感染しゾンビ化してしまった場合、おそらく荒野というのは安全な地となりうる。しかしそれはもともと荒野が人間にとって生存困難な苛烈な土地であるからにすぎない。では荒野以外にゾンビ化を免れる安全地帯はないのだろうか、といえば実はある、あることはあるのだ、たっぷりと。
●地球においてもっとも活動的な種族が人類であるというのは大きな勘違いである。この地球において、海は地表の71%を占める。陸地よりも断然海のほうが広い。地球とは魚類の惑星なのだ。地球上の大半を占める海において人類は生息しておらず、人類がいないということはゾンビもいないということに等しい。そう、今後たとえ人類がウジャウジャと総ゾンビ化したとしても、地球上のほとんどの地域はなにひとつその姿を変えはしない。じゃあ、海ならワタシたちは生きていけるのか。
「大西洋漂流76日間」●その疑問に答えるためには、スティーヴン・キャラハンが自らの体験を綴ったノンフィクション「大西洋漂流76日間」(ハヤカワ文庫NF)を読まなければならない。小型ヨットに乗った著者キャラハンは大西洋上で嵐に襲われる。ヨットは沈没し、キャラハンは救命ボートで脱出し、ボートに積んだ最低限の装備とともに海上に一人放り出された。ここから壮絶なサバイバルが始まる。書名にあるように76日間という史上まれに見る長期間の漂流が続く。
●水はどうする、食糧はどうする。嵐が来たらどうなる、サメはいるのか、夜はどんなに恐ろしいのか。そんなワタシたちが想像する問題以前にある恐怖として、著者は残酷な統計を読者に示す。遭難者のほとんどは3日で死ぬ。つまり食糧や水が尽きる前に、どこまでも続く大海原で孤独に漂流するという絶望に耐えられなくなるという。ではキャラハンがなぜ76日間も生き延びたかといえば、それは最悪の事態を前もって想定していた準備周到さと、いざ最悪の状況に陥ったときに可能な手段の中から冷静に最善の方策(1%でも自分が生き続けられる可能性の高い選択肢)を選ぶ強い精神力と知性に恵まれていたから。
●サバイバルキットには簡易な飲料水製造機が積んであった。これは海水をわずかづつ太陽熱で蒸溜して真水(といってもまだかなり塩分が高いようだが)を作るという、原理からしても相当に頼りなさそうなものだが、この扱いの難しい装置を苦心して使いこなして飲料水を確保し、生存に必要な最低限を日々飲み続ける。
●食い物はどうするかといえば、それは魚だ。海上に浮かぶボートは、海の生き物から見れば小島である。漂流するうちに底面に貝類や藻類が付着し、それを食べる小魚が集まり、それを目当てにまた魚が集まる。ボートに周りには常にシイラが群れを成し、シイラたちはボート目がけて体当たりを続ける。もしキャラハンがボートから投げ出されれば(あるいはボートが修復不可能なほどに破損すれば)、彼はシイラの餌になるだろう。だがそれまではキャラハンがモリでシイラを獲る。ここには「食うか食われるか」という自然界の基本的な関係がある。
●最初はシイラの一匹を仕留めるのにも大変な苦労をする。しかし何十日も漂流するうちにシイラの捕獲は日常となる。そのうちボートと並んで泳ぐシイラの一匹一匹を区別できるようになる。そして最後の最後、絶望的な場面ではそれまで敵対関係にあったはずのシイラがまるで自分を獲れとでもいうかのようにキャラハンに向かって腹を差し出してきたというのだ。「食うか食われるか」というのは同時に「どちらかがどちらかを食べさせてもらうことで生きる」ということでもある。敵対関係は共生関係の礎なのだ。
●ゾンビの恐怖はここにある。彼らはワタシたちと敵対関係しか作らない。ゾンビはわれわれを喰う。ゾンビを喰うものはいない。そして何より恐ろしいのは、ゾンビは別に人を喰わなくても生きていられる点だ。彼らはいかなる共生関係も必要としない。捕食相手を根絶させてしまっても困らないという反自然性が、その恐怖の源になっている。
●キャラハンが76日間を生き延びた母なる海もまた、荒野と同じようにワタシたち人にとって過酷な場所であった。都市では今後感染者がますます増えていくことはまちがいない。ワタシたちはどこへ逃げればよいのか。

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不定期連載「ゾンビと私」

2009年4月28日

ゾンビと私 その5 「イントゥ・ザ・ワイルド」

●CNNとかABCとかのニュース映像で「メキシコから豚インフルエンザが発生し……」と報道されてて、猛烈な既視感。これはまるでゾンビ映画の導入部ではないか。映画ではたいがい事件は最初は小さく発表され、既知の病の新型のように伝えられ、そのうち未知の脅威に格上げされ、しまいには想像を絶した全人類的パニックになる。「人混みを避けましょう」「なるべく外出はしないように」「非常事態宣言が発令されました」……。だが、いくらゾンビ映画が予言的な物語であっても、現実に新型インフルエンザが猛威をふるうのはまっぴらごめんなのであって、事態が沈静化することを願う。
「荒野へ」●アラスカの荒野で死体となって発見された青年について取材したジョン・クラカワー著のノンフィクション「荒野へ」。この本の最初の刊行は1997年で、当時これを読んでもワタシはいまいちピンと来なかったのだが、最近、ショーン・ペンが「イントゥ・ザ・ワイルド」として映画化してくれた。これは圧倒的にすばらしい(ゾンビは一切出てきません。実話だし)。裕福な家庭に育った22歳の青年が、ハーバードのロースクールへの進学も決まていたにもかかわらず、2年間の放浪の旅に出かける。親にも黙って出発し、お金もカードも捨てて、アラスカを目指す。現代社会の欺瞞にはもううんざり、オレは大自然と一体になるぜ! 知性にも体力にも恵まれた青年は、アレクサンダー大王にちなみ自らをアレックス・スーパートランプ(超放浪者)と名乗り、人のいないアラスカの広大な大地で、独りで生活を始める……。で、どうなるか。もちろん死ぬ。
「イントゥ・ザ・ワイルド」●彼の死体は山中に打ち捨てられた廃バスのなかで発見された。餓死である。これはいろいろな解釈が可能な事件ではあるが、狩のスキルをはじめとして自給自足するための知恵や技術を何も身につけずに、人間の居住地を離れてしまえば、人は死ぬのである、いかに勇気ある若者でも。青年は死と直面して悟ったことを手帳に記す。たとえば「幸福は他人と分かち合うことで実体化する」といったように。アレックス・スーパートランプなどというふざけた名前を捨て、孤独の中で本名を再び名乗る。つまり、理想に燃えた若者は大人になる。が、同時に彼は文明社会へと帰る道を見失い、このまさに命がけの跳躍に失敗し、死を迎える。では彼は単なる愚か者なのか? いや、誰がそんなことを言い切れるものか……。
●原作になく、映画にあるのは圧倒的な映像美。アラスカの大地の雄大さに言葉を失う。自然は恐ろしいから美しいのだ。電気も水道もない、誰一人居住していない土地というものが、どんなに神々しく峻烈であることか。そして、閃いた。そうだ! ここだっ! ここなら、町にウィルスが蔓延してみんながゾンビ化しても助かるかもしれないっっ!(←ここ本題)
●そう、たとえ自分以外の全人類がゾンビになっても、人っ子ひとりいない土地なら、そのままゾンビっ子ひとりいない土地になるだけであって、感染する心配は無用である。アレックスは孤独のうちに死んでしまったが、もし生き延びるとしたら何が必要だったのか。狩なのか、農耕なのか、孤独に耐える強靭な魂なのか、仲間なのか。クルマとガソリンなのか、小型自家発電装置とパソコンなのか。もはやゾンビ化することを避けられそうもない社会に生きる者にとって、このアレックスの失踪事件はきわめて示唆的である。果たして人は荒野で生きてゆけるのだろうか?

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不定期連載「ゾンビと私」

2009年4月22日

ゾンビと私 その4 「ショーン・オブ・ザ・デッド」

●最近、続けて演奏会で怖い場面に遭遇したんすよ。どちらもかなり年配の方なんだけど、大声で他のお客さんに怒鳴っている。ある人は、ロビーの本来なら腰掛けるべき場所に荷物を置いた若者に対して、「そこは荷物を置く場所ではない!」と激昂していた。ある人は、他のお客の座席の足元にカバンか何かが置いてあったのに足を取られたのか、「荷物はクロークに預けろ!」と怒鳴りつけていた。怖い。相手に小さな非があるとここぞとばかりに怒りを爆発させ、大声を発しながら襲いかかる。ワタシは気づいた、あ、これはレイジ・ウィルスだ。ワタシも感染すると憤怒のみに衝き動かされるにちがいない。
●ホントはゾンビ映画を見たいわけじゃないんすよ。そうじゃなくて、このゾンビ化せずには済みそうもない社会の中で、どうやって生き抜けばいいのか、それを考えるためのゾンビ映画。ぜんぜんダメかもしれないけど、もしかしたら予習が有効かもしれない。隣人がゾンビになったらどうするのか。街がゾンビであふれたらどうするのか。「砂漠に行けば助かるかもしれない。ただしガソリンスタンドの場所は事前に要チェック」とか先に知っておくと、少しは安心かもしれないし。いや、クルマ持ってないけど。あと、「窓のそばに立ってると死亡フラグが立つ」とか、知っておいたほうが知らないよりはマシなんじゃないか。
ショーン・オブ・ザ・デッド●基本的に登場人物が全滅しがちなゾンビ映画の中で、唯一、明るい結末が待っているのはどれだろうと考えると、やはりこれしかない。「ショーン・オブ・ザ・デッド」(エドガー・ライト監督)。「ホット・ファズ~俺たちスーパーポリスメン!」の人と同じ監督&役者なんだけど、こんなに可笑しいゾンビ映画はない。だって、これ、大人になりきれないダメ男がゾンビとの戦いを通して、真の大人の男になるという物語なんすよ。
●で、はっと気づいた。ゾンビと戦うためには何が必要か。「お前ら、全員ぶったぎる」とか言ってチェーンソーとか振り回すと、即座に死亡フラグが立って、そのチェーンソーが自分に向かってくることはこれまでのゾンビ映画の傾向から明らか。言うじゃないですか、「怪物と対決するものは自ら怪物になる」って。それが字義通りの意味で適用されてしまう。これは方法論としてまちがっているのだ。それに対して、「ショーン・オブ・ザ・デッド」が教えてくれるのは「大人になれ」ということ。これは生易しい戦いではない。だが怪物にならないために、演奏会に出かける前に鑑賞しておくべきゾンビ映画というと、今のところこれしか思いつかない。
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不定期連載「ゾンビと私」

2009年4月14日

ゾンビと私 その3 「バイオハザード」

●読者の方よりお便りをいただきました。「拝啓、iio様。先日貴サイトにて『ゾンビと私』の記事を読み、さっそく「ドーン・オブ・ザ・デッド」のDVDを鑑賞することにいたしました。ですが、どうしてもゾンビの恐ろしさに耐えられず最後まで見ることができません。「28週後……」も借りてみたのですが、やはり気分が悪くなってしまい、目を開けていられませんでした。一緒に見ていて主人もこんな気味の悪い映画を見るなと申しております。わが家でも楽しく鑑賞できるゾンビ映画はないのでしょうか?」
「バイオハザード トリロジーBOX」Blu-ray●ありますっ! そう、ワタシも同感なのです。ゾンビは好きだけど、ゾンビ映画は怖いから見てられない。近年次々ゾンビ映画が製作されてるけど、到底見る気になれない。でも、そんな臆病なゾンビ・ファンにも安心してオススメできるのが、こちらの「バイオハザード三部作」。もともとカプコンのゲームソフトを原案としてできた映画なので、ユルさという点ではゾンビ映画界でも抜群(たぶん)。そして意外にも三部作になってるほど、人気が高い。
●もちろん本質的にゾンビなので、人がどんどん襲われるゾンビ大盛り映画なんだけど、他のシリアス路線と違うのはあくまでホラー・アクションなので、「もう人類どうしたらいいの!」的な絶望に襲われずに済む。普通、「絶望」を基調とするゾンビ映画に「ご都合主義」は不要なんだけど、このシリーズではそれが立派に生きているのが救い。
●あと、目を見張るべきは、「バイオハザードIII」の舞台。まるで「マッドマックス2」みたいに、砂漠の中で生き残った人類たちが殺伐とした共同体を作りながら暮らしている。これは実に示唆的なのであって、いくら人類の大半がゾンビ化したところで、ゾンビそのものは増殖しない。つまり、人類が密集して暮らしていない場所は、ゾンビ化した世界でもやはり人口(いやゾンビ口か)が少ないままだから、都市部よりは生き残れるチャンスがずっと大きい。ラスヴェガスなんて街を少し出れば荒涼たる砂漠が広がっているんだろう、そんな砂漠ではゾンビが群れを成すほど大勢棲息している可能性はかなり低い。
●今後、ワタシたちの世界がゾンビ化した場合のことを考えると、これは重要なヒントになる。ただ、砂漠のように人口密度が極端に低い場所というのは、人間にとって生存の容易な場所ではない。自力で移動は困難なため、クルマなりバイクが必要になる。となれば、欠かせないのはガソリン。都市が放棄された終末的世界ではいかにガソリンを確保するかが己の生存確率を大きく左右することになる以上、「バイオハザードIII」が「マッドマックス2」に似てくるのは必然だ。1981年の「マッドマックス2」において世界を荒廃させたのが核戦争であったのに対し、2000年代の「バイオハザード」では「T-ウイルス」の感染拡大が原因であった。Tはtyrant(暴君)のT。「28日後……」&「28週後……」における「レイジ(憤怒)ウィルス」もそうだが、現代において世界を破滅させるのは人間の感情の暴発なのだ。

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不定期連載「ゾンビと私」

2009年4月 8日

ゾンビと私 その2 「ドーン・オブ・ザ・デッド」

●最近、海外のネットラジオを聴いてるとやたらと受難曲だのオラトリオだのにぶつかるなあと思ったら、もうすぐ復活祭じゃないっすか。えーと、今年は4月12日か。復活するかなあ、死者が……ウジャウジャと。ってわけで、本日もゾンビについて語りたい。
「ドーン・オブ・ザ・デッド」●ゾンビ映画における21世紀の新しいスタンダードはどれかと問われたら、迷わず挙げたいのがこの「ドーン・オブ・ザ・デッド」(ザック・スナイダー監督)だ。なんて偉そうに言ってみたくて言ってみたが、ホントはそんなことをいう資格はワタシにはないのだ、なぜならばこの「ドーン・オブ・ザ・デッド」、ジョージ・A・ロメロの歴史的傑作「ゾンビ」のリメイクとして作られたというのだが、ワタシはその肝心のオリジナルのほうを見ていない。ていうか、見はじめたんだけど、怖くて見てられなくて序盤で脱落したんすよ、ホント気持ち悪いし。そんな根性なしがどうしてこの「ドーン・オブ・ザ・デッド」を最後のエンディングまで見れたのか、今にして思うと謎すぎるのだが、この新「ゾンビ」のほうも相当に怖い。怖いといってもホラー的な、あるいはスプラッター的な恐怖ではない。とにかく「感じが悪い」。見てるとどんどんイヤ~な気分になる傑作なのだ。ここに予告編があるから見たい方はどうぞ。この映像はそんなに怖くないので比較的安心、たぶん。
●で、このゾンビも「28週後……」と同じく、走るんすよ。全力疾走するゾンビ。「疾走する悲しみ」といえば、これほど悲しい状況はないだろってくらい。で、これはオリジナルの設定を引き継いでいるようなんだけど、みんなでショッピングモールに立てこもるんすよ。何でもモノがそろってるから立てこもるにはいい場所でもあり、また人間のエゴとエゴが醜くぶつかり合う場所として消費社会のシンボルであるショッピングモールほどふさわしいところもない。とことん絶望的な状況である一方で、全般にかなりブラックなユーモアが散りばめられており、どんよりした気分で歪んだ笑いで引き攣りながら鑑賞するには最適な映画である。オリジナルとは別物と批判されることも多いようだが、この過剰なバッドテイストはゾンビ映画の王道なんじゃないだろうか。
●暗闇で出会って怖いものといったら、そりゃ幽霊も怖いし、野生動物とかも怖いし、虫とかも怖い、場合によっちゃ鳥も怖い、でもいちばん怖いのは人間だよね、すなわちゾンビ。
●DVDについているオマケ映像「番組の途中ですが緊急特別番組をお送りします」(ニコ動なので要登録でスマソ)がまたエグい。ホント、ヤになるね、ひどいね、ゾンビは。でもまだまだ不定期に続きます、「ゾンビと私」。

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不定期連載「ゾンビと私」

2009年4月 6日

ゾンビと私 その1 「28週後……」

「28週後……」●どうしてこんなにもゾンビにひきつけられるだろうか、そしてなぜゾンビはこんなにも恐ろしいのだろうか。ゾンビ、見たい、すごく見たい。でも怖い、すごく怖い。ワタシは怖い映画が苦手なのだ。昨夜、意を決してWOWOWで録画しておいた「28週後……」(ファン・カルロス・フレナディージョ監督/ダニー・ボイル製作総指揮)を見はじめた。いきなりゾンビ映画ならではの「イヤ~な感じ」が満載で、20分ほど見たらもう怖くて見てられなくなった。「怖さ」が「怖いもの見たさ」を超えてしまいギブアップ。もう忘れよう、前作の「28日後……」も怖かったが、この続編「28週後……」はそれを超えるバッド・テイスト。この映画はもう見ない。
●翌日、太陽が天高くまで昇ると、昨夜「見ない」と決めたばかりの「28週後……」の続きがどうしても気になった。今なら明るいからきっと大丈夫。ふたたび再生すると、そこには予想通りの、いや予想以上のイヤ~な展開が繰り広げられる。
●舞台は前作と同じくロンドン。ダニー・ボイル監督の前作「28日後……」では、霊長類を凶暴化させるレイジ・ウィルスが猛威をふるって、イギリスから人が死に絶えるという話だった。これは「ゾンビ」とは名乗ってないんだけど、ルール的にはゾンビと同様。レイジ・ウィルスの感染者はあっという間に凶暴化して、人間を襲ったり食ったりする。襲われた人間はすぐに感染して、自分もゾンビ化する。血液とか唾液でも感染するけど空気感染はしない。感染者は知性も言語も失う。これは最近のゾンビ映画の潮流みたいなんだけど、こいつら、走るんすよ。全力で疾走するゾンビ。これが怖い。太陽と緑に輝く美しい田園地帯を、人間が死に物狂いで走って逃げ、それを血まみれになったゾンビの集団が大またで走りながら追いかける。怖すぎる。もうイヤです、かんべんしてください……。
●で、前作でロンドンはゾンビの街になるんだけど、爆発的なゾンビ人口の増大によって食糧難になり、ゾンビは餓死したという設定で、28週後、アメリカ軍の管理のもとでロンドン復興がはじまっている。もちろん、復興するどころか、またウィルスが大暴れするわけだ。人としての正しい行為、勇気、愛、自己犠牲、そういうものが一切報われない容赦のない悪夢的世界が描かれる。怖いだけじゃなくて、嫌なもの、醜いものをたくさん見せつけられる。前作同様、物語を支配するのは「絶望」だ。
●「ゾンビ」ではなく「レイジ・ウィルス」っていうふうに名づけたところが秀逸。「憤怒ウィルス」ってことだろうけど、まさにこれに感染したとしか思えないように突然怒り出す人って、今の世の中たくさん見かけるじゃないっすか。突然キレる。で、たしかにこれは猛烈な感染性があって、誰かがキレると、他の人もキレる。電車の中とか、恐ろしいことにコンサート会場とかでも見かけるんだな……。なにかささやかな不快がきっかけとなって、「レイジ・ウィルス」に感染しちゃう。これは大都市が憤怒のパンデミックにより滅ぶという予言的な物語なんすよね。感染者も怖いし、自分が感染したらと思うともっと怖い。
●これ、さらなる続編として「28ヵ月後」ってのが作られるんだろうなあ、あの結末の場面からすると。あそこだけは少し笑った。辟易しつつも。

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不定期連載「ゾンビと私」

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