June 29, 2007

アニメ版DEATH NOTE終了(ネタバレ注意)

●今週で最終回だったアニメ版 DEATH NOTE。最後から2回目の迫力に比べると、最終回はやや寂しかったかもしれない。絵柄も少し雰囲気違ってたし。もうひとつ腑に落ちない感があったけど、原作とは違ってたんすね。デスノート最終回@ars combinatoriaを読んで、「見れなかったけど見たかったはずのシーンがなにか」がわかった気がする。やっぱり原作を読まなきゃダメなのか。
●最後は死神リュークの存在感がもっと大きくなるのかと思っていた。当然主人公夜神月(=キラ)の死生観も問われるだろうと期待していたのに。DEATH NOTEを手にしたものは他人の名前をノートに書くことによって、その命を奪うことができる。さらに死神と取引をすることで、自分の残りの寿命の半分と交換で、他人の名前と寿命を見通せる目を手に入れることができる。弥海砂(ミサ)は二度にわたってこの取引を行なった(恋人夜神月のために)。DEATH NOTEを手に入れた他の者が次々とこの「目の取引」をするなかで、夜神月は決して己の寿命を犠牲にしようとはしなかった。この物語でもっとも自身の生に執着したのは、大量殺人鬼である主人公夜神月だ。父親も弥海砂も松田もメロも、さらには死神であるレムですら、他者のために命まで賭すことをいとわなかったが、夜神月は社会正義のために人を裁くことはしても、だれかのために何かを捧ぐ、仕える、与えるといったことをいっさいしない、というかおそらくできない。
●夜神月の物語は、大人になることを拒んだ者の物語ともいえる。高校生の時点ですでにだれよりも聡明で明晰であった夜神月が、最期の瞬間まで決してしなかったこと、それは他者から学ぶことだった。学ぶほど知るほど、どんどん他者を裁くことができなくなってしまうという、人が自然と歩むプロセスを拒まざるを得なかった、暗黒のピーターパン、キラであり続けるために。「明日死ぬつもりで生きよ。永遠に生きるつもりで学べ」(ガンジー)というのは人の命が有限かつ不定であるからだけど、夜神月は永遠に生きるつもりで生きていた。たとえ千年帝国を打ち建てても、百年すら生きることのできないモータルな存在であることを忘れたかのごとく。

トラックバック(0)

このブログ記事に対するトラックバックURL: http://www.classicajapan.com/mtmt/m--toraba.cgi/860

このブログ記事について

ひとつ前の記事は「スペイン、とっておき! (中丸明著)」です。

次の記事は「キング・カズvsウルトラ兄弟」です。

最新のコンテンツはインデックスページへ。過去に書かれた記事はアーカイブのページへ。

ショップ

国内盤は日本語で、輸入盤は欧文で検索。