January 26, 2008

「ラ・ボエーム」で自分モッサリ

●金曜夜に新国立劇場でプッチーニ「ラ・ボエーム」。マウリツィオ・バルバチーニ指揮東響、粟國淳演出。オケの響きがすばらしかった。視覚的に侘しくならない舞台も大変に吉。とても楽しんだ。ミミはマリア・バーヨ、ロドルフォは佐野成宏。
●でもワタシは昔からこのオペラが嫌いだった。どうしてかなと思い出してみると、たぶんリアル若者だった頃に接した第一印象が非常に悪かった。こんな悲恋に涙してはいかん、という意地もあったんだろうけど、たぶんあちこちにオヤジ臭を感じてしまっていたせいであり、たとえば主人公と愉快な仲間たち。
●ボエーム、すなわちボヘミアン。ロドルフォもマルチェッロもショナールもコッリーネも、みんなカネも食い物もないけど志だけはあって、不確かな己の未来に賭けることを躊躇しない若者たちじゃないっすか。詩人とか画家って配役表にはあるけど、詩人の卵であり画家の卵であって、本当はまだ何者でもない。でもリアル若者視点で見ちゃうと、舞台上の歌手たちが全然そう見えない。声質じゃないんすよ。体の動きのキレというか、ニンゲン30歳を超えたあたりから徐々に動きにモッサリ感が出てきて、若者を装っても椅子に座るとか立つとかそういう単純な動作がごまかせない。で、ヘタをすると、2幕のカフェ・モミュスの場面なんか、テーブルを囲んでモッサリどっしりドッコイショと腰かける芸術家の卵たちが、居酒屋で管を巻く人生にくたびれたオッサンたちに見え、一方でそのそばに立つ黙役の給仕がスラッとした若者だったりすると、「あの給仕こそが休日に詩を書き絵を描き思索に耽るにふさわしいのではないか」などと、つい考えてしまったりする。という罠。しかし、そんなことを思いつくのは自分自身がまだ体にキレがある頃だったからであり、自らモッサリと劇場の椅子に座る年齢になってしまえば、もはや気にならない。は~、ドッコイショ、ミミ、なんとかわいそうに。滂沱。ヨイショっと。
●ミミの歌う歌詞って、かなりお花畑系だけど、でも本当に美しい。どこかに適当な訳詞があれば引用したんだけど、見つからない、まあいいか(→と思ったらふくきちさんからトラバが。ここに訳詞。感謝)。私の名はミミ、でも本当の名前は呂場耳子ルチア、空を眺めて小さな部屋で暮らしています、雪が融けると最初の太陽が私のもの、四月の最初の接吻が私のもの、みたいなのが。
●そういえば「ボエーム」はクリスマス・イヴで始まるのだった。イヴにふさわしい光速一目ぼれで物語がスタートするけど、結末が不憫すぎるから終わる頃にはクリスマスのことなんてすっかり忘れている。もし今ワタシが劇場支配人か楽譜出版社の担当編集者とかで、作曲家からこのオペラを受け取ったら、きっと黙ってられない。「どうしてハッピーエンドにしないんだ!! 頼むから書き直してくれ、そうすればこのオペラはきっとクリスマスの定番になれる。ディケンズの『クリスマス・キャロル』やチャイコフスキーの『くるみ割り人形』みたいに、毎年クリスマスになったらみんながこれを見たくなる。ミュージカルにも映画にもテレビドラマにもなる。だからハッピーエンドに書き直してくれっ!」
●もちろんワタシは100%まちがっている。プッチーニの「ラ・ボエーム」は世界中の劇場で一年中上演されている。そんな名作をクリスマスものに貶めてどうする。

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ふくきち舞台日記 - 私の名はミミ (2008年1月26日 23:55)

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