November 17, 2010

「アンドレア・シェニエ」@新国立劇場

ギロチン●一昨日、新国でジョルダーノのオペラ「アンドレア・シェニエ」。このオペラはたぶん十代の頃にNHK教育でドミンゴかだれかの映像を見て圧倒されて(スゴい音楽、でもスゴい不条理ストーリー)、たぶんそれ以来ン十年ぶり。終幕のカタルシスが強烈なんだけど、一方でそれに至るまでの悲劇がハリボテ的という印象を事前に持っていたのであるが、今見るとわかることもたくさんある。
●被虐に耐え忍ぶ下層階級が闘争によって権力を手にしたとき、まず最初に彼らは加虐の悦びに目覚めるのであって、決して階級や派閥にかかわらずに相互の敬意と愛と自己犠牲を礎に社会を再構築しようとはしない。という歴史的真実がジェラールという役柄に託して描かれている。そういう意味では現代的なテーマが込められているのかもしれない。1幕でジェラールが父もオレも召使だ、こんな制服を着せるために父はオレを生んだのだと嘆くとき、ワタシは制服といわれてマクドナルドを思い浮かべたし、第3幕で老女が自分の最後の孫を兵士として、革命の犠牲者として差し出す場面では、革命軍は狂信的なテロリスト集団にしか見えない。
●そう考えると、マッダレーナは偉い。苦境に陥っても貴族としての矜持を決して失わず、最後は愛のために命を差し出す。もっといえばマッダレーナに仕えたベルシはもっと偉い。革命が起きて制度上はマッダレーナはもはや貴人でもなんでもない貧しい女に成り下がっているのに、ベルシは自分の美貌を売ってまでしてマッダレーナに仕え続けた。ベルシにとっては、マッダレーナとの関係性というのは社会制度とも報酬とも無関係なんである。ただマッダレーナという人と自分だけの間に結ばれる主従の関係だ。
●な、貴族もその従者も立派じゃないか、人として。やっぱり血筋がものをいうのだな、それにひきかえ革命だのやらかすならず者の精神的困窮といったらなんだ。人間性を回復するためにもう一回革命以前に戻そうぜ、ビバ王権神授説! あれ? これってそんなオペラだっけ。
●演出はフィリップ・アルロー。回り舞台と色彩豊かな照明を駆使して舞台装置の寂しさを補ってくれている、かもしれない。最後の場面の大人は全員倒れて子供だけが立っているみたいな趣向に微妙なオジサン臭を感じる。ミハイル・アガフォノフ(シェニエ)、ノルマ・ファンティーニ(マッダレーナ)、アルベルト・ガザーレ(ジェラール)。フレデリック・シャスラン指揮東フィル。これは気のせいじゃないと思うんだけど、新国の平日昼公演はなんとなく緩い雰囲気になることが多いと思う、劇場内全体に。客席の圧倒的な人生のベテラン度の高さも影響しているのかもしれない。少々のことでは泣いたり喜んだりしない落ち着きがあって。拍手もすうっと密度が下がり、カーテンコールを待たずに帰りたい人々も多く、熱しにくい。いや卵が先か鶏が先か、客席が先かピットが先か、ミルクが先か紅茶が先か、そのへんは謎であるが。
●幕間の緞帳に映されたギロチンのアニメって、前に別の出し物で見た気がするんだけど、なんだっけなー。
●最後にワタシがいちばん喜んだシーンについて。終幕、監獄にマッダレーナが別の女囚の身代わりになって入っている。彼女一人でいるところに「ジャーン!」と突然シェニエが登場して感動の再会を果たす。そのあまりの唐突感に思わず吹き出しそうになったワタシは血も涙もない男決定。でもそういうのが本気で楽しいんすよ、ワタシは。本物の感動は笑いと裏表の関係だと信じてるので。

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