March 26, 2014

大井浩明/ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ連続演奏会最終回、スダーン&東響オペラシティシリーズ

●21日は大久保の淀橋教会で「大井浩明/ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ全32曲連続演奏会」最終回の第8回。ソナタ第30番、31番、32番。使用楽器は1802年ブロードウッド68鍵、イギリス式シングルエスケープメントアクション。端整な第32番はシリーズの掉尾を飾るにふさわしい心揺さぶる名演だった。
●このシリーズ、足を運ぶたびにフォルテピアノの響きの質がいかにモダンピアノから遠いかに毎回驚いているような気がするが、今回もそう。ソナタ第30番の第1楽章とか、空高く飛んでいくみたいな雄大な曲想を勝手に思い描いていたら、耳に聞こえる音像は物理的に驚くほど小さい。しかし音域ごとの音色の劇的な違いや、響きの明瞭さがもたらす質感など、モダンピアノには求めようがないニュアンスの豊かさがあって、楽器依存の音楽なのだなと改めて感じる。ベートーヴェンをオーケストラのピリオド楽器演奏、あるいはモダン楽器のピリオドアプローチによる演奏を聴いても(そういう機会が増えたせいもあるけど)、もはやそこまでとまどいは感じないんだけど、こと鍵盤楽器に関してはベートーヴェン存命中にリアルタイムで技術革新が進んでいたこともあってか、作曲者が思い描いていたであろうものとわたしたちが抱く作品観との深い溝を実感する。
●っていうか、ピアノっていう楽器、モーツァルトのときもベートーヴェンのときもショパンのときもずっと楽器に変化が起き続けてきたのに、むしろこの半世紀以上の「変化のなさ」のほうが異常なのかも。発音メカニズムの根本的変化、音色の劇的な変更といったメジャーバージョンアップがあっておかしくないのに、なぜ変化しなくなってしまったんだろう……といえば、それはレパートリーの固定化と表裏一体なのか。
●淀橋教会は寒い。なので中でもコートを脱がずにそのまま聴く。「神にはなんでもできるのです」みたいな貼り紙が掲げられていて、自分すっかり異教徒。近所のお寺さんには「他力とは如来の本願力なり」って書いてあったんですけど。
●翌22日、今度はピート・クイケンのフォルテピアノを聴く。東京オペラシティでユベール・スダーン指揮東響。ハイドンのピアノ協奏曲ハ長調(XVIII-5)と比較的よく演奏されるピアノ協奏曲ニ長調(XVIII-11)。しかし座席からステージの距離が遠かったため、空間の大きさのなかにすべてが飲みこまれていくかのよう。体積比で淀橋教会の100倍はあるんじゃないだろうか。ステージ脇のバルコニー席か1階前方ならまったく違ったものが聴けたのかも。作品としてはこのハ長調からニ長調への飛躍も大きいけど、逆説的に後期交響曲への飛躍がいかに神がかり的かを示しているような……。で、後半は交響曲第104番「ロンドン」。スダーンの求めるピリオド奏法が完全にオーケストラに浸透していてすばらしい完成度。これは会心の出来では。躍動感と愉悦にあふれた最強に強まったハイドン。

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