December 24, 2014

ポゴレリッチのリサイタル

●遡って14日はサントリーホールでイーヴォ・ポゴレリッチのリサイタルへ。なんだか自分のなかでうまく咀嚼できないまますっかり日が経ってしまった。前回以上に強烈な印象が残ったことはたしか。今回も開演前からニット帽をかぶってステージ上で気ままにピアノを弾いている、ときおり客席に視線をやってこちらを注意深く観察しながら。ポゴレリッチのリサイタルでは、開演前はピアニストがこちらを見るのだ。そして見られている客席の側は、普段の公演と何もかわらない様子で、「ポゴレリッチに見られている自分」をことさらに意識しない。
●今回もピアニストは祭司のようだった。かたわらに譜めくりのお兄さんが影のように寄り添うのも同じ。典礼がはじまる。前半はリストの巡礼の年第2年「イタリア」から「ダンテを読んで」、シューマンの幻想曲ハ長調。東京公演はアジアツアーのなかの一公演で、直前に上海で同じプログラムが披露されている。上海では極端な遅いテンポはほとんどなかったということなんだけど、幻想曲は聴いたこともないような遅いテンポの両端楽章と、猛烈なダイナミズムで演奏されていた。時間軸方向に迷子になるエクストリーム・シューマン。後半のストラヴィンスキー「ペトルーシュカ」からの3楽章もやはりテンポが独特で、まったく聴いたことのない作品を聴いたかのよう。最後はブラームスのパガニーニの主題による変奏曲。こんな重量級のプログラムが実現するのもスゴいし、強靭なタッチは最後まで陰りも見せない。ピアノから出てくる音そのものからして苛烈かつブリリアントという非凡さ。
●弾いた後の楽譜をバサッと音を立てて無造作に床に放ったり、最後の曲を終えた後にもう弾くものはないといわんばかりに足で椅子をピアノの下に押しこんだりというふるまいは、ピアニストとしても祭司としても異様。
●好きかといわれたら、答えに窮する。でもまた聴きたいかといわれたら、聴きたいと即答できる。仮にまったく同じプログラムだとしても聴きたい。テンポだけに特徴があるわけではないのでそこを強調するつもりはないんだけど、でもあの(音楽の流れというよりは)時間の流れが引き延ばされてゆく眩暈の感覚というのは、まず彼の公演でしか体験できないものだから。

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