March 16, 2015

錦織健プロデュース・オペラ/モーツァルト「後宮からの逃走」

●13日は錦織健プロデュース・オペラVol.6 モーツァルト「後宮からの逃走」へ(東京文化会館)。歌手自らがプロデュースし、オペラの楽しさをより幅広い層に向けて伝えるという志の高いシリーズで、東京の2公演を含めて全国各地で計8公演も開かれるというのが立派。歌手陣は佐藤美枝子(コンスタンツェ)、錦織健(ベルモンテ)、市原愛(ブロンデ)、高柳圭(ペドリロ)、志村文彦(オスミン)、池田直樹(太守役、台詞のみ)。現田茂夫指揮東京ニューシティ管弦楽団。
●特徴的だったのは、台詞を日本語で語っているところ。歌は原語だけど、台詞になると日本語になるというハイブリッド方式で、最初は違和感があったが、すぐに慣れた。喜劇的な作品に限っていえることだが、日本語台詞によって言葉のおかしさによって客席から笑いを取ることができるという優位を実感。レチタティーヴォだとそうもいかないかもしれないが、台詞ならこの方式もありかなと思う。
●佐藤美枝子さんのコンスタンツェは圧巻。全般に歌手陣の好演の一方で、「後宮からの逃走」元来の台本の起伏のなさ、余白の大きさも改めて感じる。このストーリー、キリスト教文化とイスラム文化の対立を背景とした取扱い注意物件だが、プロットはほとんどなんのひねりも意外な展開もなく、するすると一直線に太守の赦しに帰着してしまう。で、じゃあつまらないかというと、そんなことはまったくなくて、むしろ精彩に富んだオペラという印象がある。よくよく考えてみると「フィガロの結婚」だって、プロットは序盤こそ冴えているけど、途中からグダグダになっていて(っていう私見)、終幕の展開には目を覆いたくなる。にもかかわらず、オペラとしては人類史上最強クラスの神作品。モーツァルトの恐るべき天才性。なんとなれば音だけで成立してしまう。じゃあ、だったら台本はなんなのか……ということをいつも考えてしまうのだが。
●で、つらつらとこの日の演出とは無関係に「後宮からの逃走」について思ったことをメモしておくと、これはもう一つの「コジ・ファン・トゥッテ」であること。ともに二組のカップルが出てくる(それをいえば「魔笛」だってそうなんだけど)。「コジ・ファン・トゥッテ」では、貞節という概念をせせら笑うように、フィオルディリージとグリエルモ、ドラベッラとフェルランドの二組の恋人たちは互いに相手を交換した。一方、「後宮からの逃走」では、逆に恋人たちは命がけで貞節を守る。ベルモンテとコンスタンツェはともに死ぬ覚悟を見せる。ペドリロとブロンデはコミカルな存在だが、果敢で、勇気がある。
●そこで、この両者の登場人物は本質的に同じ人物であると考えてみたらどうだろう。フィオルディリージとグリエルモはもうひとりのベルモンテとコンスタンツェであり、ドラベッラとフェルランドはもうひとりのペドリロとブロンデである、と。つまり、命の危機に瀕してはどこまでも誠実で高潔な恋人たちも、大人の遊びの文脈では(と「コジ」を解するけど)いとも容易に恋人を交換してしまう。「男女はみんなこうしたもの」。
●もうひとつ思うのは、トルコ側の登場人物像について。太守セリムは単に「寛大な精神を持った高徳の人」ではない。たしかに最後にセリムは寛大な計らいをしてくれるのだが、そこまではコンスタンツェに対して「オレのものにならないのなら力づくでも」と脅しているんだから、この人は心の弱い人間であるはず。本当は最初から己の欲望に負けているんである、それもかなり堂々と。最後は体面を保つために、欲をあきらめたにすぎないとも見ることができる。一方、オスミンは粗野な小悪党のようでいて、人生を謳歌している人なんじゃないだろうか。後宮の番人としてこれまでにも楽しんできたからこそブロンデに言い寄るのだろうし、ペドリロに酒を勧められて飲んでしまうのも、それまでに散々禁を破って飲んでいるからだろう。オスミンにしてみれば、セリムは優柔不断で頼りなく、コンスタンツェやブロンデは不自由な女たちでしかないのかもしれない。

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