June 18, 2015

「フィガロの結婚」 ~庭師は見た!~ 野田秀樹演出

●全国10都市13公演開催される野田秀樹演出、井上道義指揮によるモーツァルト「フィガロの結婚」。17日、ミューザ川崎の公演へ。オケは東響(公演ごとに異なる)。単に読み替え演出という以上に、オペラ上演のあり方について問い直すような新しい演出だった。舞台は長崎。黒船でやってきたのが伯爵と伯爵夫人、ケルビーノ(ズボン役ではなくなっていた。カウンターテナーが歌う)。この3人の歌手が西洋人で、お屋敷で仕えるのが日本人であるフィガ郎(フィガロ)やスザ女(スザンナ)、マルチェ里奈(マルチェリーナ)、バルト郎(ドン・バルトロ)ら。で、日本人同士は日本語で会話するばかりか、日本語で歌う。西洋人は原語のイタリア語で歌う。日本人歌手たちは日本人を相手にするときは日本語で歌い、西洋人相手に歌うときはイタリア語で歌うという離れ技を見せた。なるほど、筋は通っている。
●なぜ日本人がイタリア語で歌うのかというオペラの根源的な疑問への答えになっているばかりか、黒船到来時代の西洋人と日本人を描くことによって、本来台本が持っているはずの社会階級への批評性もあぶりだされる。さらに端役の庭師アントニ男を狂言回しにしたことで、物語がすっきりと明快になった。もともとこのオペラは(前にも書いたように)「進むにつれて話はグダグダ、でも音楽だけは神」という奇跡の名作だと思っていたけど、この演出ならたぶん初見でもちゃんとストーリーが理解できる。省略されている部分や伝わらない部分を、庭師アントニ男が手際よく説明してくれるので。ほかにも演出は細部に至るまでアイディアが豊富で、平凡な演出だと間がもたずに、オペラ的演技のオートマティズムで埋め尽くされるような場面であっても、さまざまに趣向が凝らされている。コンサートホールで上演するという制約も、制約と感じさせない。並の公演とはかけている手数もぜんぜん違うというか。
●なので「進むにつれて話はグダグダ」なオペラではなくなったし、「でも音楽だけは神」というオペラでもなくなった。で、じゃあストンと腑に落ちたかというとそうでもなくて、「これが正解ルートであるはず」という確信と「なんだかモーツァルトの音楽が背景に引っこんじゃったな」という当惑が入りまじっている。自分のなかで消化するためには、もう一呼吸おく必要があるのかも。

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