May 9, 2016

LFJ2016を振り返る~嵐の音楽

●お祭りって終わってしまうとあっという間に記憶の彼方に去ってゆくもの。まだ記憶に残っているうちに書き留めておく。
●「ナチュール 自然と音楽」というとてつもない大きなテーマのなかで、選択的に足を運んだのは「嵐」の音楽。5月3日、ベートーヴェン「田園」の元ネタとして知られるクネヒトの「自然の音楽的描写」へ。演奏はリオ・クォクマン指揮シンフォニア・ヴァルソヴィア。LFJ公式本「ナチュール 自然と音楽」(エマニュエル・レベル著)によれば、ベートーヴェンの「田園」以外にも当時60作以上の「田園交響曲」が書かれていたが、田舎の場面に嵐のシーンを挿入した作品はまれで、その貴重な例のひとつがこのクネヒト作品(ほかにシュターミツも)。全5楽章で各楽章には詳細な標題が添えられている。たとえば第1楽章は「美しい田舎。太陽は光り輝き、風は穏やかに舞い、谷間では小川が流れ、鳥たちがさえずり……」。第2楽章で早くも雷鳴がとどろき、第3楽章では「嵐のなかで、風は荒々しくうなる……」。そのうち嵐は止んで、第5楽章は「喜びに満ちた自然が天に向かって声を弾ませ、甘美で心地よい歌によって、創造主に深い感謝を捧げる」と来たもんだ。やってくれたな、ベートーヴェン。そう思うじゃないすか。
●ところが曲を聴いてみると、これがもう拍子抜けするほど平板で、生温い。なるほどこれでは忘れ去られてもしょうがないか。ベートーヴェンが「絵画的描写よりも感情の表出」を目指したのに対して、クネヒトは描写に留まっている……といいたいところだが、その描写性ですらベートーヴェンに遠く及ばない。30分近い交響曲で、曲を前へ前へと進める原動力、聴く人に「次はどうなるの、それからそれから?」と小説のページを先にめくらせるように関心を持続させる力というのが、どれだけ稀有なものかを痛感する。ていうか、どんだけスゴいのよ、ベートーヴェン。やっぱりアイディアって思いつくことより、形にするほうがはるかに大変。いいアイディアは決して先駆的凡才に独占させてはいけない。
●もっともこの曲、録音でよければ各種音楽配信サービスでクリックするだけで簡単に聴けるわけで、なにもLFJまで待たなくてもよかったんだけど、わざわざこの日のために録音を聴かずにがまんしたのであった(禁ネタバレ的な意味で)。
●それからもうひとつ完全に未知の曲だったのが、やはり5月5日のフィールドのピアノ協奏曲第5番「嵐のなかの火事」。エル=バシャが独奏で、これもリオ・クォクマン指揮シンフォニア・ヴァルソヴィアの演奏。フィールドといえばショパンに先行する「ノクターン」の創始者として知られるが、こんな曲があったなんて。で、曲名が「嵐のなかの火事」だ。地震雷火事オヤジ級の猛烈な曲を予想していたら、これが肩透かしで、サロン的なムードのなかでくりひろげられるお上品な火事。嵐も火事もこんなに他人事みたいな様子で大丈夫なのだろうか。両肩をつかんで「お前さん、しっかりしろ、燃えてるよっ!」と言ってやりたくなる。
●あとは5月4日のそのものずばりの嵐プロで、シベリウスの劇音楽「テンペスト」序曲(ホントに嵐の描写だけで終わってしまう)、チャイコフスキーの交響幻想曲「テンペスト」、フィビヒの交響詩「嵐」をドミトリー・リス指揮ウラル・フィルの演奏で。フィビヒの「嵐」は初めて聴いたけど、かなりスメタナ風味で、特に終結部のところは「モルダウ」っぽい。こういうプログラムはかなり好き。
●「嵐」だけで、初めての曲をたくさん聴けた。楽しい。

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