ドミノ・ピザ
February 9, 2017

新国立劇場「蝶々夫人」

●先日の金沢での笈田ヨシ演出「蝶々夫人」に続いて、8日は新国立劇場で「蝶々夫人」。勝手に「蝶々夫人」祭り絶賛開催中。こちらは何度も再演されている栗山民也演出。指揮はフィリップ・オーギャン。短期間に異なるプロダクションで「蝶々夫人」を目にすることになったわけだが、演出と指揮が対照的なアプローチだったので、とても同じ演目を観たとは思えないくらい手触りが違う。笈田ヨシ演出が現代人にとって共感可能なリアルな蝶々さんとピンカートンを描いていたのに対し、こちらは伝統的で様式化された「蝶々夫人」とでもいうか。舞台上にドンと大階段を設置し、大空間なのに簡素な舞台でずいぶんそっけなく壁面が広がっているなと思ったら、要所で登場人物の影を壁面に映し出す趣向になっている。オーギャンの指揮はプッチーニの音楽の持つ甘美さをたっぷりと伝えるもの。金沢でのバルケのきびきびとしたシャープなプッチーニとは好対照。ピットには東京交響楽団。
●で、今回は題名役が安藤赴美子さん。日本人歌手が主役を歌う貴重な機会だったわけだけど、蝶々夫人の少女っぽい初々しさや信念の強さが、みずみずしい声から伝わってくる。舞台姿も美しく、納得の蝶々さん。このオペラで唯一バランスのとれた大人の役柄、シャープレス(甲斐栄次郎)が醸し出す信頼感は絶大。リッカルド・マッシ(ピンカートン)、スズキ(山下牧子)、ゴロー(松浦健)他。
●で、作品についてなんだけど、オーソドックスな舞台で観て改めて思うのは蝶々さんの不条理。純粋な愛を貫いた人物として共感を寄せることは、自分には無理。だって、幼子がいるのに自ら命を絶つんすよ?(しかも子供のすぐそばで)。いかなる自分内倫理基準に照らしても受け入れられない結末。坊やのために、ヤマドリに助けを求めることはできないものか。いや、でもヤマドリは最低の男かもしれん。しかしヤマドリが無理なら第2ヤマドリ、第3ヤマドリを探せないのか。3年間もただ待つだけってのを「信じてる」とするなら、この人のなかではピンカートンはなにをしていることになっていたのか。手紙も来ないんすよ。もうこっちから捨ててやるくらいのことを言っていい。一念発起して「美人教師蝶々さんが教える英会話教室」とか開いたら商売繁盛したんじゃないか。など、余計な雑念がどんどん入ってくる。
●ピンカートンがただの邪悪な存在だと、このオペラはおもしろくない。彼は凡庸なだけ。むしろ「悪」という信念を欠いているのがピンカートンの弱さ。

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