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February 20, 2017

東京芸術劇場「蝶々夫人」全国共同制作プロジェクト

●18日は金沢で初日を観た笈田ヨシ演出「蝶々夫人」を、もう一度。同じプロダクションではあるが、この日は題名役が小川里美さんで、オケは読響。あとは指揮者も含めて同じ。同じ演出、同じ指揮者であっても、主役の歌手とオーケストラが違えばずいぶん雰囲気が違ってくるなと実感。中嶋彰子蝶々さんで強く感じられた「失敗した女の崖っぷち感」はいくぶん薄まり、代わって蝶々さんの少女性が顔をのぞかせる。こちらも見事。本筋の部分では変わりはないのだが、幕切れのポーズも少し違う。室内オケであるOEKが精悍でシャープなサウンドを聴かせてくれたのに対し、読響は厚みのある豊麗なサウンド。第1幕は鳴らしすぎた感もあったが、停滞しないバルケの指揮は吉。
●演出面については金沢初演の際に書いた通りなんだけど、全公演終わったのでネタバレ的なことも書くと、第2幕に入って蝶々さんが姿を見せたときに「えっ?」ってなるんすよね。モンペみたいなのを履いてて。一瞬、これ誰?みたいな。でも、そうであるべき。だってこのウチ、3年も男がいないんだし、すかんぴん寸前だし、蝶々さんが着飾ってるわけがない。生活に疲れてなきゃおかしいもの。あ、あと第1幕の終わり、蝶々さんとピンカートンがラブシーンになって、「あれ、どこまで脱ぐの?」ってドキッとするじゃないすか。主にピンカートンについての心配なんだけど。笑。ワイシャツ脱いだら、下着がランニングシャツでオッサンの汗臭さが伝わってくる。15歳の嫁とランニングシャツ。なんだか妙に鮮烈。
●記者会見の際に指揮のバルケから話が出たが、ピンカートンの妻ケイトが蝶々さんと対面する場面のみブレシア再演版が用いられたということで、この役の存在感が通常よりも大きくなっている。彼女の人物像は旦那とは対照的に「しっかり者」っていうことなんすよね。旦那は逃げる。ケイトは向き合う。この場面によって、不在のピンカートンの人物像が一段深く描かれる、ということなのだろう。しかしケイトもイヤな女なんじゃないかな。だって、「この子の未来のために」みたいなことを言って、生きてる母親から子供を奪うってのはどうなのか。どす黒い善意を感じる。
●それと結末で、蝶々さんは死ぬところまでを見せていない。舞台上では死なないんすよ。死ぬ覚悟までは見せるが、その先は描かないという、開いた結末になっている。これがこの作品を救っていると思う。亭主に捨てられたからといって、幼い息子がいるのになんの逡巡もなく母親が死ぬなんて物語をワタシは受け入れられない。幕が下りた後に、蝶々さんにはたとえヤマドリにすがってでも息子とともに逞しく生き抜くという可能性が一分でも残されていてほしい。全世界全劇場の蝶々さんに言いたい。幼子のそばで死ぬな! どうしても死ぬってのなら子供を笑顔でアメリカに見送ってから死んでくれ。