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March 12, 2018

バッティストーニ指揮東京フィルのグルダ&ラフマニノフ

●9日はサントリーホールでアンドレア・バッティストーニ指揮東フィル。前半に小曽根真のピアノとロバート・クビスジンのエレクトリック・ベース、クラレンス・ペンのドラムスを迎えて、グルダの怪作「コンチェルト・フォー・マイセルフ」。後半にラフマニノフの交響曲第2番というプログラム。同一プログラム3公演(ただしすべてホールは違う)にもかかわらず、この日は全席完売。
●グルダのコンチェルト・フォー・マイセルフ。だんだんフリードリヒ・グルダをピアニストとして記憶する人も少なくなってきていてもおかしくはないが、没後18年経った今こうして作品が演奏されているわけで、ひょっとして作曲家として名が残るんだろうか。この曲では、モーツァルト風だったりジャズ風だったり独奏ピアノの即興だったりロマン派風だったりロック風(?)だったりといろんなジャンルのごった煮のような音楽が自由奔放にくりひろげられる。第3楽章の「自由なカデンツァ」では小曽根真が内部奏法をふんだんに取り入れて、作曲者の「あらゆる効果を用いたぶっ飛んだ演奏」という指示にこたえた。で、自分の理解では、この曲ではピアニストが創造的な精神を、オーケストラが模倣しかできない凡庸さを表現している。冒頭、オーケストラが演奏する「モーツァルト風」の音楽は、モーツァルトのパロディではなくて、「モーツァルト時代に凡作を書いて消えていった作曲家、あるいはモーツァルトの模倣をして歴史に埋もれた作曲家」を表現している。だからわざとダサく書いてある。ジャズなどほかの音楽をまねても、逐一模倣にしかならなくて、冴えない。そんなオーケストラに対抗して、創造性の火花を散らすのがピアノ。常套的な表現しかできないオーケストラを触発しようと孤軍奮闘を続けるが、第3楽章ではもうやってられないとばかりオーケストラを見放してひとりでカデンツァを弾き続ける。しかし、ピアニストだってひとりでは寂しいし、孤高の存在になんかなっちゃダメだ、やっぱり手と手を取り合おうよと友情宣言をして第4楽章では仲良くハッピーエンドを迎える……というストーリー。どこにもそう書いてないけど。ソリスト・アンコールにトリオで小曽根真「ミラー・サークル」。すばらしい。
●ラフマニノフの交響曲第2番は、これまでに聴いたバッティストーニ指揮東フィルの演奏のなかでも、一二を争う充足度。起伏に富んでいて、ダイナミック。それでいて細部まで彫琢されている。今の在京オーケストラはどこもいい指揮者をシェフに迎えて充実しているんだけど、このひたむきな熱量は貴重。あと、ピアノを用いない曲における作曲家ラフマニノフの魅力を再認識。この曲にしても交響的舞曲にしても「死の島」にしても、ピアノがないことでラフマニノフはヴィルトゥオジティから自由になれる。

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