June 4, 2018

新国立劇場「フィデリオ」(カタリーナ・ワーグナー新演出)ネタバレ編


●さて、全日程も終わったところで、カタリーナ・ワーグナー新演出による新国立劇場のベートーヴェン「フィデリオ」を振り返っておこう。主な配役はレオノーレにリカルダ・メルベート、フロレスタンにステファン・グールド、ドン・ピツァロにミヒャエル・クプファー=ラデツキー、マルツェリーネに石橋栄実(好演!)、ロッコに妻屋秀和、
●1回見ただけなので見落としや勘違いもあるだろうが、舞台は一回性のものなので気にせずに書く。舞台は4階建てというか4層構造になっている。地上1階と2階が刑務官たちの世界で、地下1階が見捨てられたフロレスタンの独居房、地下2階が一般囚人たちの雑居房。通常、フロレスタンの出番は第2幕からだが、第1幕からフロレスタンは姿を見せて、黙役として孤独な演技をずっと続ける。一方、地下2階は最初は見えないのだが、後で舞台装置全体がせりあがって姿を見せる。くすんだ灰色の舞台のなかで、ひとりだけ明るく華やかな衣装を着ているのがマルツェリーネ。彼女はフィデリオに恋する乙女で、自分の周りで起きていることがまったく見えていない過剰にラブリーな存在。上から当てた照明が、マルツェリーネの影を地下1階の独居房に投影する。それを見て、壁に女の絵を描き出すフロレスタン。妻レオノーレの姿を描いているのだろうか。そして、レオノーレは女の姿であらわれて、控室(?)で男の姿に変装してフィデリオになる(まあ変装といっても軽い着替えとカツラ程度なんだが)。
●第2幕、フロレスタンが発する第一声はさすがのグールドの声の力を感じさせるが、元気なのは声だけ。そのうち、フロレスタンは地面を掘り出す。むむ、これは地下2階へ通じる穴でも掘っているのか、それとも脱獄でもしようとしているのかと一瞬思うが、どうやらこれは自分の墓穴を掘っている。笑。この囚人はもう体力も気力も衰えている。ロッコとレオノーレが独居房に入ってきたシーンで、ロッコはうっかりレオノーレのカツラを取ってしまい、男装がバレる。レオノーレは狼狽しつつも、またカツラをかぶって男になる。ピツァロがあらわれて、フロレスタンが絶体絶命となったところで、レオノーレが助けに入る。ここからがカタリーナ・ワーグナーの真骨頂。話は本来のストーリーとはまったく違ったところに転がっていく。
●レオノーレはピツァロの手からナイフを奪う。男の服とカツラを捨てて自分の正体を明かす。しかし、大臣到着のファンファーレとほぼ同時に、ピツァロは難なくレオノーレの手からナイフを奪い返す。そして、まったく易々とフロレスタンを刺してしまう。で、ピツァロはさらにレオノーレをねちっこく抱きしめて、やっぱり刺す。えっ、もうここでふたりとも死んじゃうの? いや、死んだらその後の話が続かない。そして、「レオノーレ」序曲第3番が挿入される。この場違い感と来たら。勝利の大序曲の間、なにが起きるかというと、ピツァロが地下1階の入り口に石を積み上げて、瀕死のフロレスタンとレオノーレを幽閉する。「アイーダ」の地下牢かよっ!
●なるほど、この話では正義の大臣が到着してなにもかも解決するというのいちばん素っ頓狂なところだから、大臣が到着してもふたりは救われないという結末は大いにありだろう。大臣は正義の味方などではなかった。だけど、音楽はまだ続くんである。終場の輝かしい合唱はどうするの? すると、地下1階でレオノーレとフロレスタンはそのまま歌い続けるんである。普通なら「愛は勝つ」みたいなことを歌うハッピーエンドの場面を、刺されたまま石牢で瀕死で歌っている。そう、現世的には「お前はもう死んでいる」状態だが、観念的には愛の勝利なのかもしれない。「アイーダ」のように? あるいは演出家の曽祖父が作った「トリスタンとイゾルデ」のように?
●一方、地下2階では囚人たちは解放されて喜んでいる。囚人たちの妻がやってきて喜び合う。そこにピツァロが変装してニセ・フロレスタンとして姿を見せる。さらにニセ・レオノーレもあらわれる(この人、だれ? 最初はマルツェリーネかと思ったけど、違ってた)。ニセ者が囚人たちと喜びをわかちあっている。で、曲が終わるやいなや、ニセ・フロレスタンとニセ・レオノーレはすばやくゲートを閉じて、囚人とその妻たちを全員閉じ込めて、してやったり。なにそのバッドエンディング。口封じのためにか、家族もろとも(おそらく)あの世行き~、というオチ。なんという後味の悪さ。
●この日の公演では、すでに演出家は帰国していたようで、カーテンコールに姿を見せなかった。客席の多くの人たちがブーイングする気満々だったはずだが、対象が不在。好演の歌手陣や指揮者にブーをぶつけるわけにもいかず。こういうときは、代わりにカタリーナ人形みたいなパネルかなにかを出すと、みんな(ブラボーも含めて)発散できていいかも。演出の方向性とはまるで違って、飯守泰次郎指揮東京交響楽団は格調高く滋味豊かなベートーヴェン。ピットからとてもいい音が出てくる。20世紀巨匠風味の心地よさ。
●自分はこの演出、大いに楽しんだ。最後はもう大笑いしたくなる。情報量が多すぎるので、できれば再演でまた見たいもの。もちろん、ツッコミどころは満載だ。最大の問題点は最後の場面で、鳴っている音楽と起きている出来事の齟齬。もし「フィデリオ」の最後の合唱が、たとえばショスタコーヴィチやマーラーの交響曲第5番のフィナーレのように、「一見輝かしいけれども、これってひょっとしてパロディ?」みたいな二重性のあるもの、アイロニカルなものだったら、この演出はぴたりとハマるが、この場面のベートーヴェンはどう考えても全肯定の音楽。ちぐはぐだ。それから事前の記者会見で演出のカタリーナ・ワーグナーとドラマトゥルクのダニエル・ウェーバーが語っていたことに対しても違和感は残って、そんな大上段に構えてオペラの演出とはかくあるべきとか、自由は、権力は、愛は、などと語らなくても、「ハハッ! おもしろいアイディアがあるんだ、みんな、楽しんでくれよなっ!」くらいのノリでいいんじゃないかって気がする。でもまあ、そんなのは些細なこと。素の「フィデリオ」台本がどれほど白々しく、天才の音楽からかけ離れているかを思えば、カタリーナはベートーヴェンを救ってくれたといってもいいほど。ワーグナー家はベートーヴェンに奉仕している。

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