September 27, 2018

サイモン・ラトル指揮ロンドン交響楽団のバーンスタイン、ドヴォルザーク、ヤナーチェク

サイモン・ラトル指揮ロンドン交響楽団●ラトルといえばベルリン・フィル。そんな時代が終わって、ロンドン交響楽団(LSO)を率いて来日する日が来るとは。いや、うんと遡れば、赤いカマーベルトでバーミンガム市交響楽団を振った頃の記憶もあることはあるのだが。で、24日、サントリーホールでバーンスタイン、ドヴォルザーク、ヤナーチェクの3曲からなるプログラムを聴くことができた。
●前半はクリスチャン・ツィメルマンをソリストに迎えての、バーンスタインの交響曲第2番「不安の時代」。この曲、実演でも録音でも今年は演奏されまくっていて、バーンスタイン・イヤー最大のヒット曲じゃないかと思うほどだけど、なにしろツィメルマンには作曲者本人と同曲を共演しているという強みがある。ラトルとベルリン・フィルとも同曲を演奏して、DGの録音もDCHの映像もある。クラリネットの寂しげな弱音で始まる孤独な音楽が、刹那的なパーティを経て、最後は力強い肯定で終わるというこの音楽、作曲のきっかけとなったオーデンの「不安の時代」の構成をかなり忠実に音楽でなぞっていて、もとのストーリーがあらすじだけでも頭に入っていると断然聴きやすい。というか、オーデンの長篇詩の内容をなにも知らずに聴くと、なかなか前半の文脈が追いにくい。でも、「戦時における信仰の回復」というテキストから離れて、音楽のみから大きなドラマを感じられるようになるということが、「名曲」に登録されるということなんだろう。ジャン・パウルの「巨人」を一切知らなくても、マーラーの「巨人」に心動かされるように。この曲自体、かなりマーラー的な要素は感じられて、最後の肯定感はマーラーの交響曲第3番を連想させる。ポスト・マーラーの交響曲作家として、バーンスタインが振り返られるようになるのかも。
●後半はドヴォルザークのスラヴ舞曲集 op.72(全8曲)とヤナーチェクのシンフォニエッタ。ドヴォルザークがアンコールの先取りみたいで浮いているような気もするけど、同じチェコ音楽のくくりのなかでのボヘミアvsモラヴィア、19世紀vs20世紀の対比を聴かせるということか。各曲に思い切りよく性格付けが施された精彩に富んだドヴォルザーク。とはいえ、これって全8曲を順番に聴くようなタイプの作品なんだろうか。ヤナーチェクのシンフォニエッタはバンダのトランペット部隊までロンドンから呼んできたようで、輝かしく、くらくらするような高揚感を満喫。ラトルのもと、LSOは高いモチベーションでひとつにまとまっているよう。ラトルにとってもオーケストラにとっても、このコンビはハッピーなものであるにちがいない。客席の喝采にこたえて、最後はラトルのソロ・カーテンコール。ステージ上に並ぶ無人の椅子に向かって立ち上がるように指示しておどけるラトル。
●長らくラトルとベルリン・フィルのコンビが続いていて、ラトルの音楽とベルリン・フィルの音楽のつなぎ目みたいなのがすっかり見えなくなっていたような気がする。それをラトルとLSOを聴くことで「差分を取る」みたいな感覚があった。ラトル時代のベルリン・フィルはまちがいなく大きな成功を収めたけど、逆にベルリン・フィル時代のラトルはどうだったのかなと思うことがある。ベルリン・フィルは「ラトルのオーケストラ」と呼ぶ気になれない一方で、ラトルは「ベルリン・フィルの指揮者」であるという非対称性というか。たとえば、ラトルの2種類のベートーヴェン交響曲全集のレコーディングでいえば、古いほうはあのウィーン・フィルをラトルの色で染め上げている一方で、最近のベルリン・フィルとの全集は「ラトルのベートーヴェン」より「ベルリン・フィルのベートーヴェン」と語られるべき録音芸術だと感じてしまう。だから、まだまだ元気なうちにベルリン・フィルを去って、ロンドンで「マイ・オーケストラ」を持つのは、ラトルにとっての最高のボーナス・ステージになるんじゃないだろうか。サッカーで言えば、長年ビッグクラブで指揮を執ってきた監督が、キャリアの終盤で自国の代表監督を務めるのによく似ている。

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