amazon
October 11, 2018

新国立劇場 モーツァルト「魔笛」(ウィリアム・ケントリッジ演出)

zauberflote.jpg●10日は新国立劇場でモーツァルトの「魔笛」。大野和士芸術監督就任第一作となる2018/19シーズン開幕公演。2005年にブリュッセルのモネ劇場でウィリアム・ケントリッジが初めて本格的なオペラ演出に取り組んだ定評あるプロダクションが東京にやってきた。今回は一回限りのレンタルではなく、新国立劇場が上演権を購入するという形なんだとか。そしてケントリッジによれば、現在は2005年当時よりも映像技術が格段に進化しているので、大々的に映像に手を入れて、最先端の技術にふさわしいように組み立て直されたという。ちなみに、その後、ケントリッジはショスタコーヴィチ「鼻」とベルクの「ルル」を演出しているのだが、両者ともMETライブビューイングで上映されている(当ブログでも紹介した)。
●というわけで、最大の見物はドローイング、アニメーションを巧みに用いた舞台。「魔笛」の光と闇の二元論的な世界観にふさわしい黒と白の対比、歌手の動きと連動して描かれる光の線、鳥や望遠鏡、天体、プロビデンスの目など映写されるさまざまなモチーフなど、とても洗練されていてクール。ここからシンボリックな意味合いを読み解くこともできるのだろうが、純粋に舞台として変化に富み、視覚的に飽きさせないというだけでも感嘆。くりかえし観ることができる舞台。というか、洗練されているがゆえに、「魔笛」という物語の奇天烈さが際立つ。指揮はローラント・ベーアで、ピットには東フィル。キレのあるシャープなモーツァルト。もうひとつ躍動感が欲しかった感も。ときどきピアノの即興がさしはさまれるのがおもしろい。最初、モーツァルトのソナタ第4番K.282のアダージョ(だったかな)がピットから聞こえてきてびっくり。歌手陣ではサヴァ・ヴェミッチのザラストロが立派。豊かな声量と威厳があって役柄的にも納得。タミーノにスティーヴ・ダヴィスリム、パパゲーノにアンドレ・シュエン。ルックス的にはこのふたりはむしろ逆なんだけど、イケメンなパパゲーノがいてもいい。鳥の扮装じゃなくてよかったー。夜の女王に安井陽子、パミーナに林正子、パパゲーナに九嶋香奈枝、モノスタトスに升島唯博。
●それにしても、シカネーダーの台本はぶっ飛んでいる。日頃、モーツァルトのオペラについてダ・ポンテ台本にも文句を言ってるが、シカネーダーはそんなレベルじゃない。いま舞台でだれがなにをやろうとして、どこに行こうとしていて、そこにどうしてその人が登場するのか、といった舞台の「てにをは」レベルの事柄がわかりづらくて、何回観てもさっぱり腑に落ちない。いや、わかるんすよ、通り一遍の事柄は。でもこれって、やっぱりフリーメーソンの内輪受けみたいなところがあったんじゃないかなー。で、わからない大きな要因としては、当時の人々のザラストロ観と、現代人であるワタシたちが見たザラストロ観に相当な乖離があるということなんだろう。このオペラへの入門書向けの説明として「前半と後半で善玉と悪玉が入れ替わってしまっている」みたいな記述がよくあるわけなんだけど、たぶん、本当はそんなアクロバティックな見方を必要としていない。現代の視点としては、ザラストロの光の教団はカルトそのもの。いかがわしいから「光」とか「善」を連呼する。この人たちの集団ではミソジニーが浸透していて、女はダメだから男が指導してやらなきゃいけないとか平気で言うし、タミーノとパパゲーノに無意味な試練を与えて、その報酬として両者に女を与えている。ストーリー上、自分で考えて行動することを放棄したダメ男たちが「なんでもお見通しの指導者」に洗脳されて教団に取り込まれるという敗北が描かれている。そうとしか読めない話なんだけど、大問題としてモーツァルトの音楽はまったくそう言っていないという齟齬がある。音楽だけは神の領域。
●闇に対抗する光って、おおむね不信感を伴うもの。「スター・ウォーズ」だってそう。最初はジェダイ=光=正義で問題なかったけど、どっかでジェダイの連中って胡散臭いな、カルトだなって、みんな思うわけじゃないすか。フォースの修行するぞ、修行するぞ、修行するぞって言ってるし(言ってない)、やたら自己犠牲を求めるし。闇も怖いけど、実は光も怖い。つまり「魔笛」はおおむね「スター・ウォーズ」と同じことを教えてくれる(←どんな結論だそれ)。

このブログ記事について

ひとつ前の記事は「「アフリカのことわざ」(東邦出版)」です。

次の記事は「ベートーヴェンの「第十」」です。

最新のコンテンツはインデックスページへ。過去に書かれた記事はアーカイブのページへ。