August 7, 2020

「ウィトゲンシュタインの愛人」(デイヴィッド・マークソン著/国書刊行会)

●ピンと来るものがあったので読んだ、「ウィトゲンシュタインの愛人」(デイヴィッド・マークソン著/木原善彦訳/国書刊行会)。柴田元幸、若島正両氏の推薦で「アメリカ実験小説の最高到達点」と銘打たれた一冊。登場人物はたったひとりだけ。というか、世界の最後のひとりとして生き残ったのが主人公。しかし世界の終末を描いたものではなく、ひたすら主人公の独白が続くだけの小説だ。彼女は世界中を旅しながら、あちこちで美術館等を訪ね歩いているのだが、すべては主観として語られているのみ。そして、その語り口は端的に言って狂っている。もちろん、世界でただひとりという孤独な状況に陥ればだれもが狂う。漂流するような焦点の定まらない思考が延々と書き留められており、そこで大きな比重を占めるのが美術を巡るトリビアというか、オタトークみたいなもの。美術、さらには文学、そして音楽にもしばしば話題が流れ、特にたまたまそこにあったブラームスの伝記本に異様な執着ぶりを示す。記憶が混濁し、錯誤を含んでいる上に、なんども繰り返しているような話題が結局のところどうでもいいような話だったりする。中心は美術なのだが、ブラームスについて述べた部分をいくつか引用してみる。それぞれぜんぜん違った場所で突然出てきたりする。

ここへ戻る途中、ふと、ブラームスが聞こえた気がした。『アルト・ラプソディ』と言いたいところだが、『アルト・ラプソディ』をちゃんと記憶している自信はない。
『アルト・ラプソディ』を歌っていたのはキャスリーン・フェリアだ。
昨日、キルステン・フラグスタートが『アルト・ラプソディ』を歌うのを耳にしたとき、厳密には私は何を聞いていたのか。
イグニションキーを回したら、ブラームスの『四つの厳粛な歌』が聞こえてきた。ひょっとすると私の頭にあるのは、リヒャルト・シュトラウスの『四つの最後の歌』かもしれない。
残念ながらもう一軒の家には、これに関してもっと詳しく調べられるブラームスの伝記がない。ベートーベンの伝記はおそらく何の役にも立たなかっただろう。ちなみに、もう一軒の家にあったベートーベンの伝記のタイトルは『ベートーベン』だ。私が以前見たブラームスの伝記のタイトルは確か、『ブラームスの一生』だった。これは簡単に確かめられる。
ところで、以前から、ブラームスはあまり好きな作曲家ではない。確かにブラームスの名は、ここに何度も登場しているけれども。でも実は、ブラームスが登場した回数はそれほど多くない。言及した回数が多いのはブラームスの伝記だ。タイトルはおそらく、『ブラームスの一生』か、『ブラームスの生涯』か、ひょっとすると『ブラームス』。
ただしもっと具体的には、私が解きたい謎は、例えば、ベルリオーズ作曲の『トロイアの人々』のことを考えているのに、あるいは『アルト・ラプソディ』のことを考えているのにどうしてヴィヴァルディの『四季』が聞こえてくるのかという問題だ。
それを聞くたびにいつも、聞こえているのは『アルト・ラプソディ』だと考えていたけれども。だから明らかに、私がこれまで『アルト・ラプソディ』と言ったときはいつも、『ブラジル風バッハ』と言うべきだったということだ。

●えっ、「アルト・ラプソディ」の話をなんどもしてたのに、それがヴィラ=ロボスの「ブラジル風バッハ」のかんちがいだったっていうの? でもキャスリーン・フェリアが歌ってたのは「アルト・ラプソディ」でしょうが。ブラームスの伝記の書名も混乱してるし……。と、いった調子で、全体にわたってなにが確かでなにが記憶違いで、どこから正気でどこから狂っているのか、まったく客観性のない自意識の移ろいだけで綴られていくのだが、そもそも世界にただひとりしかいないのなら、客観という概念に意味があるだろうか。世界は事実の総体であって、事物の総体ではない。
●意外にもこの小説はとても読みやすい。そして、まちがいなくユーモアがあって、なんどもワタシは大笑いして読んだ。作者はこの原稿を出版社に持ち込んだところ、合計54社もから刊行を断られたという。もし自分が出版社の編集者だったら? うーん、やっぱり断ったにちがいない。

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