Booksの最近のブログ記事

April 3, 2019

「緋色の研究」新訳版 シャーロック・ホームズ

●先日の「シャーロック・ホームズの冒険」に続いて、そのままシャーロック・ホームズ・シリーズを新訳で読んでいる。もともとはアンソニー・ホロヴィッツが書いた続編「シャーロック・ホームズ 絹の家」に感心したことがきっかけなのだが、コナン・ドイルの原典を読んでみると、これが物語として古びていないことに驚かされるばかり。19世紀末に書かれた話を、21世紀の日本語訳で読んで違和感がない。もちろん、それは翻訳がいいからでもある。そして、19世紀末のロンドンになにがあって、なにがなかったのかがわかる。移動手段は短距離なら馬車、長距離なら鉄道。馬車はほとんどタクシーの感覚。急ぎの要件は電報で伝えるのが一般的。他人を訪ねるときは、まず電報で何時に行くと伝えてから出向く。人を使う「メッセンジャー」を利用する場合もある。これはバイク便感覚か。ピストルはある。コカインもアヘンもある。ホームズはコカインの愛用者だ。そしてホームズはヴァイオリンを弾く。楽器はストラディヴァリウス。当時の価格はどれくらいだったのだろう。
●さて、新訳にもずいぶんたくさんの種類が出ているのだが、角川文庫の駒月雅子/石田文子訳と光文社文庫の日暮雅通訳の両方から気の向くままに選んで読み進めている。どちらも訳はなめらか。角川文庫は表紙のイラストも魅力。今風で、デザインも良好。光文社文庫は訳者の注釈が秀逸で、多くを学べる。Kindleで読むと本文と訳注の往復が苦にならないのが紙にはない利点。惜しいのは表紙デザインでKindle Paperwhiteのサムネイルだと題名が読みづらい。
●長篇「緋色の研究」を読んで特にそう思ったが、コナン・ドイルってトリックだとかミステリーの仕掛けのおもしろさ以上に、冒険譚の語り口が抜群にうまい。同じ事件を前半はホームズとワトソンの物語として、後半は犯人側の物語として書いているのだが、後半のほうが生き生きとしている。この「緋色の研究」にはホームズとワトソンが初めて対面する場面が出てくるのだが、その部分を2種類の訳で比べてみよう。

「緋色の研究」 駒月雅子訳(角川文庫)

「初めまして」ホームズは誠意のこもった口調で言い、外見に似合わぬ強い力で私の手を握りしめた。「アフガニスタンに行っていましたね」
「えっ、どうしてそれを?」私は唖然とした。
「たいしたことじゃありません」ホームズはくすくす笑いながら言った。「それよりもヘモグロビンだ。この発見がいかに重大かは説明するまでもないでしょう?」

「緋色の研究」 日暮雅通訳(光文社文庫)

「初めまして」ホームズは温かくわたしの手を握ったが、思いがけない力の強さだった。「あなた、アフガニスタンに行っていましたね?」
「えっ、どうしてそれが?」わたしはぎょっとした。
「いや、なんでもありません」ホームズはひとりでくすくす笑っている。「それより、大事なのはヘモグロビンの問題です。この発見がとても重要なことはもちろんおわかりですよね?」

●大事なシーンだと思って選んでみたけど、どちらもホームズは「くすくす笑って」いた。

March 18, 2019

「シャーロック・ホームズの冒険」(コナン・ドイル著/石田文子訳/角川文庫)

●先日、アンソニー・ホロヴィッツの「シャーロック・ホームズ 絹の家」を読んだら、コナン・ドイルの原典を無性に読みたくなった。で、シャーロック・ホームズ・シリーズで最初に刊行された短篇集「シャーロック・ホームズの冒険」(コナン・ドイル著/石田文子訳/角川文庫)を読むことに。この短篇集が書かれたのは19世紀末。すでに著作権は切れていることもあって、日本語訳は新旧さまざまな訳で出版されている。どれにしようか迷った末に、せっかくなのでなるべく新しい訳にしようと思って、この石田文子訳を選んだ(表紙も今風だし)。
●古い物語なのに、日本語は新しい。すると、どうなるか。まず、とても読みやすい。かび臭さが皆無で、すきっとリフレッシュされたシャーロック・ホームズに再会。ホームズはいつも辻馬車とか汽車で移動していて、急ぎの要件は電報で伝えるような社会に生きている。19世紀末の時代が描かれているけど、言葉はまったく古くない。これってなにかに似てるなと思い当たったのは、名作オペラの新演出。中身は古いのに、演出のおかげで最近作られた物語として味わえる。
●英語圏のひとたちはシャーロック・ホームズを100年前の言葉でしか読めないのに、日本語圏のわたしたちは新旧さまざまな日本語訳で読むことができる。何パターンもの「シャーロック・ホームズの口調」があるという不思議な豊かさ。

March 13, 2019

「シュトックハウゼンのすべて」(松平敬著/アルテスパブリッシング)

●やっと読み始めた、話題沸騰の一冊、「シュトックハウゼンのすべて」(松平敬著/アルテスパブリッシング)。先日の「エドガー・ヴァレーズ 孤独な射手の肖像」に続いて、また強力な音楽書が登場した。シュトックハウゼンが残したほぼ全作品を作曲順にたどるという作品解説本の体裁をとりつつも、合間合間に伝記的な内容もさしはさまれていて、これが実に興味深い。また、冒頭には第0章として、シュトックハウゼンの創作史概観が記されており、コンパクトなシュトックハウゼン入門者向けガイドになっているという親切設計。なので、読み物として前から順に読んでいくこともできるし、興味のある作品を思うがままに選んで、読みたいところから読むこともできる。シュトックハウゼン作品について網羅的に解説が読めるという圧倒的な心強さ。
●著者の松平敬さんは、先日の新国立劇場「紫苑物語」の平太役で超人的な歌唱を聴かせてくれたばかりだが、歌手としての活動のかたわら、よもやこんな力作が書き進められていたとは。シュトックハウゼンと間近に接し、指導を受けたこの著者にしか書けない入魂の一冊。

February 26, 2019

ゾンビとわたし その38:村上春樹の「ゾンビ」

●話題のNHKドラマ「ゾンビが来たから人生見つめ直した件」は、最初の一回を見始めてすぐに、どうもこれは問題意識の方向性が違うゾンビであるなと気づいて、以来、見ていない。アポカリプス的なゾンビ観と、人間ドラマを描く媒介としてのゾンビ観の違いとでもいうべきか。
●で、たまたまネットで調べ物をしていて今頃知ったのだが、村上春樹に「ゾンビ」という短篇があったんである。「TVピープル」(文春文庫)に収載。著者が欧州に長期滞在中だった1990年の刊行ということで、今から20年ほど前に書かれた先駆的作品。といっても、文体の違いを別とすれば、テイストも長さも星新一のショートショートみたいな感じで、肩の力の抜けた小噺といったところ。気が利いている。パンデミックの恐怖よりも、人を食べるという性質をもってゾンビとしているあたりに時代が現われていて、ゾンビ考現学的な視点からも興味深い。
●で、この「ゾンビ」って書き下ろしなんすよ。なぜかといえば、せっかく書いたのに雑誌の編集者から掲載を断られたため、いきなり本で発表することになったのだとか。村上春樹の原稿をボツにする編集者がいた時代に驚くべきなのか、それともたとえ村上春樹でもダメだってくらいゾンビへの関心が薄かったのか。

>> 不定期連載「ゾンビと私

February 18, 2019

「紫苑物語」(石川淳著/新潮文庫 Kindle版)

●新国立劇場では西村朗作曲の新作「紫苑物語」が初演されたところである。後日足を運ぶのだが、先に予習も兼ねて、原作の「紫苑物語」(石川淳著/新潮文庫 Kindle版)を読んだ。もちろん、どんな場合でもオペラと原作は別物というのが大前提だが、情報量の多い舞台を予想して読んでおくことに。以下、すべて原作の話。
●主人公は国の守、宗頼。歌の家に生まれ、生まれながらの和歌の才に恵まれるが、やがて歌を捨て、叔父の弓麻呂を師として弓に生きる。宗頼はまず「知の矢」を習得する。しかし宗頼が放った矢はことごとく獲物を仕留めるが、射ると同時に獲物が消えてしまう。次に宗頼は「殺の矢」に開眼する。弓麻呂の導きにより、人を射ることを覚える。ついには「魔の矢」を身につけ、敵対する者を次々と殺め、さらには無辜の者まで手にかけるようになる。死骸の後には紫苑を植えよという。悪霊を背負うまでになった宗頼は、人の立ち入らない岩山で、岩肌に仏像を彫る平太なる者に出会う。ただ仏像を彫るだけの平太に、宗頼は自分自身の影を見て、宿敵とみなす。宗頼は仏像に立ち向かい、矢を射る……。
●といった一種の神話的な雰囲気をまとった自分探しの物語。主人公は「知の矢」「殺の矢」「魔の矢」と三段階にわたって弓術を究めることで、同時に三段階にわたって自己の分身を乗り越える。まずは父を越え、次に叔父を倒し、最後に平太と対決する。弓麻呂は主人公にフォースのダークサイドを教えるダースベイダーのようなもの。ならば平太はジェダイである。宗頼と平太の対決は、アナキン・スカイウォーカーvsオビ=ワン・ケノビか。ただ、剣ではなく、ここでの武器は弓矢だ。最後のエンディングは、炎のモチーフが少し「ワルキューレ」を連想させる。
●最後のシーンは、魔と仏、善と悪の対消滅と読むか、必定の合一と読むか。

February 13, 2019

アシモフの「鋼鉄都市」

asimov_caves_of_steel.jpg●うんと昔に紙の本で読んだ本を、つい電子書籍で買い直してしまうというケースがある。Kindleでセールになっていたので、アイザック・アシモフの古典的SFミステリ「鋼鉄都市」(福島正実訳/早川書房)を購入して、「どんな話だっけ?」と思って最初の1ページを読み始めたらもう止まらない。最後まで読んで、ミステリとしての核心の部分も忘れていたことに気づく。まあ、30年以上も前に読んだきりなので、忘れていてもしょうがないし、どこかにあるはずの紙の本も再読できる状態ではないはず。
●で、再読してこれはまぎれもなく傑作だと思うと同時に、古き良き時代のSF小説を読んで感じる居心地の悪さからも逃れられない。なにしろ、アシモフほどの知性をもってしても予測できなかったのが、インターネット、そしてネットワーク化された社会におけるモバイルコンピューティング。恒星間宇宙船が実現するほど高度なテクノロジーが発達しているのに、だれもネットワークにつながっていない。「鋼鉄都市」で描かれる未来の地球では、人口増加問題に対処すべく、人々は「シティ」と呼ばれる千万人規模の超巨大集合住宅で配給制度のもとで暮らし、だれもが野外に出るという習慣を失って久しい。人口密度が極限まで高く、効率化のために食事をするときはみんな食堂に集まって食べる。人口爆発が社会問題として描かれているのも時代を感じさせる。ただ、それでも慧眼だなと思うのは、各個人の住居でライブラリを持つのではなく、集団向けの大規模ライブラリをみんなで共有するという設定になっているところ。

おのおのの家に持つ貧弱なフィルム図書のコレクションと、厖大な規模の総合ライブラリのコレクションとを比較してみるがいい。一軒一軒独立したヴィデオ設備と、現在の集団のヴィデオシステムとの経済的技術的な差違を。

ここで述べられるライブラリは物理ライブラリだと思うが、もしインターネットが予測できていれば、これはNetflixとかKindleみたいなものに近かったはず。SpotifyとかApple Musicとかも含めて。
●逆に当時の予測に現実がまったく追いついていないのは、宇宙開発とロボット工学。人類は別の惑星への植民どころか、久しく月にも立っていない。ロボット工学の3原則も生み出されそうにない。AIによる車の自動運転はまもなく実現しそうだが、ヒト型ロボットが運転席に座って車を運転するという形では決して実現しそうにない。取材音源の自動文字起こしもまもなく実現しそうだが、ヒト型ロボットがイヤホンで録音を聴きながらキーボードをカタカタ打つという形では決して実現しそうにない。くくく。
●でも、外形としてはいろいろ古びていても、ロボットや宇宙移民に対する憎悪や差別感情の描かれ方は今の排外主義にも通じている。記憶にあったよりずっとユダヤ色の強い小説で(初読のときはわからなかった)、主人公の刑事とコンビを組むロボットのダニールは、旧約聖書のダニエルに由来するようだ。ウォルトン作曲の「ベルシャザールの饗宴」なんかにも出てくる場面で、饗宴中に突然人の手の指が現れて壁に「メネ、メネ、テケル、ウパルシン」と書いたので、王がバビロン中の知者たちを集めるがだれも読めなかったところ、ユダの捕虜ダニエルひとりがこれを読み解いて、国の終焉を警告したという話があった。ダニエルは謎解き役の相棒にふさわしいということなのか。

February 8, 2019

「エドガー・ヴァレーズ 孤独な射手の肖像」(沼野雄司著/春秋社)

●「エドガー・ヴァレーズ 孤独な射手の肖像」(沼野雄司著/春秋社)を読んでいる。日本語初のヴァレーズの本格評伝。500ページ級の大部な本で、ようやく第5章まで読み進めたところだが、これがめっぽうおもしろい。そもそもヴァレーズ、曲は聴いたことがあっても、どんな人物なのか、どんな人生を歩んできたのか、ぜんぜん知らなかったわけだが、こんなにも型破りな人だったとは。そして、会う人会う人がことごとくヴァレーズに支援の手を差し伸べてくれるという不思議に驚かずにはいられない。リヒャルト・シュトラウス、ホフマンスタール、ロマン・ロラン、ドビュッシー、ストコフスキ……。みんなヴァレーズを助けようとしてくれる。よほど人間的な魅力があったのか。
●この本は、資料的な価値が高いだけじゃなくて、「おもしろく読める」のがすばらしい。評伝とはこうあってほしいもの。序章でかの有名なストラヴィンスキー「春の祭典」初演のシャンゼリゼ劇場でのスキャンダルに触れて、それから41年後、同じ場所でヴァレーズの「砂漠」がヤジと嘲笑にさらされたことが述べられる。しかもヴァレーズは「春の祭典」初演にも立ち会っていたのだとか。一冊の本の書き出しとして、これほど魅力的なエピソードもない。
●そして、これは大事なことだが、読んでいるとヴァレーズの音楽を聴きたくなる。ヴァレーズの曲、正直なところ自分は年齢を重ねるにしたがって作品に向き合うエネルギーが不足してきているかもしれないんだけど(先日、ノット&東響の「アメリカ」を聴いてそう思った)、でもやっぱり聴きたくなるんである。Naxos Music Libraryにアクセスして検索してみよう。アルカナ、あるかな~。

February 6, 2019

「かぜの科学」(ジェニファー・アッカーマン著/早川書房)

●風邪が猛烈に流行している(含むインフルエンザ)。先日、仕事上の必要に迫られて(本当に)「かぜの科学 もっとも身近な病の生態」(ジェニファー・アッカーマン著/早川書房)を読んだのだが、これは大変おもしろく、ためになる一冊だった。先に結論的なことを言っておくと、人間は風邪をひかずに済ますことはできないし、風邪を治療してくれる薬もないし、民間療法はどれもことごとくエビデンスを欠いている。そりゃそうだ。もし風邪を防ぐ本当に有効な方法があったら、全世界に爆発的に広まっているはずであり、医療業界は血眼になって商品化を急いでいる。本書によれば風邪には200種類以上の異なるウイルスが関与しており、最大派閥はその40%を占めるライノウイルス群に属する。風邪の流行パターンはだいたい毎年、決まっている。

例年のように、感染病流行は9月の一連のライノウイルス感染に始まり、やがて10月と11月のパラインフルエンザウイルスの蔓延に至る。冬期には呼吸器系シンチウムウイルス、ヒトメタニューモウイルス、インフルエンザ、コロナウイルスが活発に活動する。そしてライノウイルスが戻ってきて、3月と4月に小さな感染の波を起こしてサイクルが一巡する。夏期はエンテロウイルスの独壇場だ。

読んでいるだけでも熱が出てきそうだが、これほどパターン化されるくらい、すっかりヒトはウイルスと共存している。しかし、その割にはワタシらは風邪についてあまりよく知らないし、そもそもわかっていないことも多い。本書のなかで印象的だったことをいくつかメモしておこう。
●まず、寒さと風邪には関係がない。多くの研究が寒いと風邪をひくという迷信を否定している。で、風邪が秋から冬にかけて流行する理由について、人々が屋内で過ごすことが多くなるので、ウイルスが人から人へと簡単に移りやすくなる等の説明があるのだが、本当だろうか。湿度や学校の夏休みなども理由のひとつに挙げられている。だが、この部分は著者が地域による気候条件の違いや学校制度の違いを忘れているようで、あまり説得力はない。ともあれ、寒いから風邪をひくのではないという実験結果はたくさんあるようだ。
●一方、300人の学生ボランティアを風邪に感染させた研究によると、疲労と風邪も関係がないという。これもずいぶん意外。しかし、睡眠不足ははっきりと風邪のひきやすさと関係がある。さらに慢性的なストレスも大いに関係がある。あと、これは直感に反するのだが、社会的ネットワークが広い人のほうが風邪をひきにくいのだとか。一見、人と接触しないほうが風邪の心配がなさそうだが、ある研究によると、対人関係が1~3種類しかない人は、6種以上の人と比べて風邪をひく回数が4倍以上になるのだという。
●ひとつ、クラシック音楽ファンにも関係のありそうなエピソードが紹介されている。カーネギーホールのコンサートで、常連の年配の婦人の近くで、女性が咳をし始めた。婦人はすぐにハンドバッグからヴィックスを取り出して、咳き込む女性に渡した。女性は感謝してこれを飲み込み、咳は収まった。コンサートが終わった後で年配の婦人は自分のまちがいに気がついた。あれはヴィックスではなく、花屋からもらった切り花を長持ちさせる錠剤だ!

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