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Booksの最近のブログ記事

July 24, 2024

ガルシア=マルケス「百年の孤独」再読 その4 年金を待つ人

●(承前)えっ、またその本の話? そう、またその本の話だ。ガルシア=マルケス「百年の孤独」(新潮文庫)だ。再読には初読とは違った味わい方がある。マコンドという蜃気楼のような町で生きるブエンディア一族のなかで、唯一、国家の行方を左右するような並外れた軍事的才能を発揮したのが、アウレリャノ・ブエンディア大佐。だが、大佐は老年期に入るとすべてに幻滅し、世捨て人のようになって、ただひたすら仕事場で魚の金細工を作り続ける。

大佐が戦争と関係のある問題に最後にかかわったのは、約束ばかりでいっこうに実現しない終身年金を承認させるため、両派の旧兵士らがそろって大佐の援助を求めてきたときである。「その件は、あきらめたらどうかな」と大佐は答えた。「みんなも知っているように、わしが年金を断ったのも、じりじりしながら死ぬまで待たされるのがいやだったからだ」

●この一節で思い出すのが、ガルシア=マルケスの初期の代表作である短篇「大佐に手紙は来ない」。以前、「ガルシア=マルケス中短篇傑作選」で紹介したが、これは年金開始の手紙を待っている、ある退役した大佐の物語なのだ。かつて名を馳せた闘士が世間から忘れ去られ、もう食べ物に困るほど困窮し、ただ毎週金曜日になると郵便局に足を運び、年金開始の手紙が届いていないかを確かめる。手紙など来るはずがないのに。かつてガルシア=マルケスは、「大佐に手紙は来ない」を読んでもらうために「百年の孤独」を書かなければならなかったと言ったとか。報われないとわかりながら「いつまでも待ち続ける」というのは、ガルシア=マルケスの小説にしばしば登場するテーマだ。
●「百年の孤独」、初読では読み終えて頭が真っ白になるような衝撃があったが、再読してみると前半はわりと覚えているのに、終盤になるとぜんぜん覚えていないことに気づく。特にフェルナンダと、その子供たちの代は印象が薄い。なぜなのか。
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●宣伝を。ONTOMOの連載「おとぎの国のクラシック」第12話「眠れる森の美女」が公開中。12回シリーズなので、これが最終回。ご笑覧ください。

July 19, 2024

ガルシア=マルケス「百年の孤独」再読 その3 くりかえされる名前

●(承前)しつこく、ガルシア=マルケスの「百年の孤独」(新潮文庫)について。ゆっくりと再読を進めていたが、さすがにもう読み終えた。よく言われることだが、この小説は同じような名前の登場人物がなんども出てきて混乱しやすい。一族で名前を引き継いでいくので、どうしてもそうなる。そこで役に立つのが「百年の孤独」読み解き支援キット(池澤夏樹監修)。ウェブページで見てもいいが、PDF版がダウンロードできるので、そちらのほうが高密度で便利かもしれない。家系図とともに、だれがどうしたという一族の歴史が順を追って記されている。これは最後まで読んでしまうと結末を知ってしまうので、読んだところまでを確認用に目を通すのが吉。自分は再読なのに、わざわざ先を読まないように気を付けた。
●マコンドの町を作り出したブエンディア一族の祖は、ホセ・アルカディオ・ブエンディア。その息子にはホセ・アルカディオとアウレリャノ(大佐)がいる。一族の男子はおおむねホセ・アルカディオかアウレリャノの名前を受け継いでいる。半分近くまで来たところで、一族の祖ホセ・アルカディオの妻ウルスラはこう考える。

長い一家の歴史で似たような名前が執拗にくりかえされてきたという事実から、彼女はこれだけは確実だと思われる結論を得ていたのだ。アウレリャノを名のる者は内向的だが頭がいい。一方、ホセ・アルカディオを名のる者は衝動的で度胸はいいが、悲劇の影がつきまとう。どちらとも言えないのは、ホセ・アルカディオ・セグンドとアウレリャノ・セグンドのふたりの場合に限られていた。

このふたりは双子の兄弟で、子どもの頃はそっくりで見分けがつかなかった。ときどき、お互いが入れ替わって周囲の人間をだましたりした。しかし時が経ち、成長するとそれぞれはまったく違った男になった。アウレリャノ・セグンドが祖父ホセ・アルカディオに似た巨漢になり、ホセ・アルカディオ・セグンドはアウレリャノ(大佐)にそっくりのやせすぎな男に成長した。この名前と風貌の交錯を見て、ウルスラは双子が子どもの頃に入れ替わっているうちに、どこかでまちがいを犯して、入れ替わったまま大人になったのではないかと疑う。
●双子の兄弟はまったく別の人生を歩んだ後、同じ日の同じ時刻に世を去る。遺体は瓜二つで、棺桶を埋める際にどちらがどちらかわからなくなってしまい、まちがった穴に埋められることになる。ウルスラが疑ったように、ふたりは子ども時代のどこかで入れ替わっていたにちがいない。
●それで思い出したのだが、ワタシの知人の双子の兄弟も、子どもの頃に入れ替わって大人をだまして遊んでいたと言っていた。これは双子にとって定番の遊びなのだろう。実際に、入れ替わったまま大人になってしまった双子がいるのかもしれない……。(つづく

July 12, 2024

ガルシア=マルケス「百年の孤独」再読 その2 近親婚

●引き続き、ガルシア=マルケスの「百年の孤独」(新潮文庫)をゆっくりと再読している。その1で紹介したように、一族の祖ホセ・アルカディオ・ブエンディアは、生まれて初めて氷なる未知の物体に触り、「こいつは、近来にない大発明だ!」と感嘆する。このとき、彼は追加の料金を払って息子にも氷を触らせている。氷に触った息子は「煮えくり返ってるよ、これ!」と叫ぶ。この場面を序盤のハイライトと呼びたいのは、有名な冒頭の書き出しと呼応しているから。「百年の孤独」のはじまりの一文はこうだ。

 「長い年月が流れて銃殺隊の前に立つはめになったとき、恐らくアウレリャノ・ブエンディア大佐は、父親のお供をして初めて氷というものを見た、あの遠い日の午後を思いだしたにちがいない」

 このアウレリャノ・ブエンディア大佐が、上述のホセ・アルカディオ・ブエンディアの息子。この一文のように将来の最期の場面(少なくともそう読める場面)の記述とともに登場人物があらわれるパターンは、これ以降にも出てくる。循環的な時の流れは本書の中心的なテーマだ。だから、何世代にもわたって一族に同じ名前がくりかえし出てくる。
●ホセ・アルカディオ・ブエンディアはマコンドの町の創設者だが、どうしてこの町が誕生したかといえば、もとをたどればホセ・アルカディオ・ブエンディアとウルスラの結婚にたどり着く。ふたりはいとこ同士だった。結婚しようとすると親戚たちはこぞって反対した。近親婚により「イグアナが生まれる」ことを懸念したのだ。実際に一族には先例があり、豚のしっぽを持って生まれてきた男がいた。しかし、ホセ・アルカディオ・ブエンディアは「口さえきければ、豚に似ていようがいまいが、かまうもんか」と言って、ウルスラと結婚する。不吉を恐れたウルスラの母親は、貞操帯のようなものを娘に付けさせる。これが原因となって、ある男がホセ・アルカディオ・ブエンディアをからかう。侮辱されたホセ・アルカディオ・ブエンディアは、槍の一突きで男を殺す。すると、男は死後も悲しげな顔で化けて出て、ふたりにまとわりついた。ついにホセ・アルカディオ・ブエンディアはウルスラとともに村を出ていく決心をする。ふたりは冒険心にあふれた友らといっしょに何年も旅をして、たまたまたどり着いた土地にマコンドの町を建設したのだ。
●一族とマコンドの物語はこんなふうに近親婚ではじまっている。文庫本の最初に載っている家系図の一番下に「アウレリャノ(豚のしっぽ)」と記されており、最後まで読まずとも、いずれ巡り巡って近親婚から「豚のしっぽ」が生まれてくることが予想できる。それだけではなく、中盤ではアウレリャノ・ホセ(ホセ・アルカディオ・ブエンディアの孫)とアマランタが結婚しそうになるのだが、ふたりは甥と叔母の関係にある。アマランタはアウレリャノ・ホセに向かって、自分は叔母であり、ほとんど育ての母のようなものであり、「豚のしっぽのある子供が生まれるかもしれない」と説得する。アウレリャノ・ホセは「かまうもんか、アルマジロが生まれたって」と答える。これは初代のホセ・アルカディオ・ブエンディアの口ぶりにそっくりだ。
●音楽界でいとこ婚でまっさきに思い出されるのはラフマニノフとナターリヤ・サーチナ。ロシア正教会がいとこ婚を禁じていたため、この結婚は困難なものだったそうで、特別な許可を得て結婚にたどり着いたという。ほかにはストラヴィンスキーと最初の妻エカテリーナ・ノセンコもいとこ婚で、これも本来なら許されざる婚姻だったようだ。もっとも日本をはじめ、いとこ婚が許容されている国はまったく珍しくない、というか多数派だろう。ブエンディア一族のいとこ婚に対する忌避感はずいぶんと強い。(つづく

July 9, 2024

ガルシア=マルケス「百年の孤独」再読 その1 氷

●ガルシア=マルケスの「百年の孤独」(新潮文庫)をゆっくりと再読している。初読はもう30年以上も前のことで、水色と白の簡潔なカバーデザインだった。それから何度か改訳あるいは新装版が出たと思うが、なかなか文庫にならなかった。「文庫化される」という確からしい情報が出たこともあったが、それがどういうわけか立ち消えになったりして、そのうち「百年の孤独」は「文庫化したら世界が滅びる」などと言われるようになった。うかつにそんなことを言うものではないと思うのだが。そして、今年、ついに新潮文庫から発売されたわけだが、帯の惹句に「この世界が滅びる前に──」という一言が添えられていた。ええっ……。発売前から重版がかかる人気ぶり。
●初読では後半からページをめくる手が止まらなくなり、夜を徹して最後まで読み切って眩暈のような感覚を味わったが、再読は急がず、ゆっくりと読むことに。記憶に残っている部分とすっかり忘れている部分がある。ずっと昔に訪れた旅先にもう一度やってきたみたいな感覚だ。本を手にして思ったのは、意外と厚くない。いや、672ページの文庫本は厚いには違いないのだが、記憶ほど厚くない。厚い小説が増えたので、相対的に厚いと感じなくなっただけかもしれない。
●登場人物の表記が、最初に読んだときは「アウレリャーノ・ブエンディーア」だったと思うが、その後、改訳時に「アウレリャノ・ブエンディア」になったのだとか。音引きを削るだけで、全体で何ページだったか忘れたが、けっこう短くなるという話で、なるほど、それは冴えたアイディアだと思ったもの。もちろん、この文庫でも「アウレリャノ・ブエンディア」。音引きがないほうが表記として今風とも言える。
●ようやく、半分弱まで読んだ。ブエンディア家の家系図が最初に載っているので、これをなんども見返しながら読む。マコンドの街を創設した第1世代のホセ・アルカディオ・ブエンディア、その息子たちホセ・アルカディオやアウレリャノ・ブエンディア大佐の第2世代、アルカディオとアウレリャノ・ホセの第3世代の物語が綴られ、そろそろ第4世代のホセ・アルカディオ・セグンド、アウレリャノ・セグンド、小町娘のレメディオスが登場しつつある。「小町娘」っていう訳語がよい。
●序盤のハイライトは氷のシーンだと思う。探求心旺盛な第1世代のホセ・アルカディオ・ブエンディアがジプシーたちの市を訪れ(ここでメルキアデスの訃報を聞く)、子どもたちにせがまれて「メンフィスの学者たちの驚異の新発明」を見に行く。金を払ってテントに入ると、大男が海賊の宝箱のようなものを見張っており、ふたを開けると冷たい風がふきあげる。箱のなかにあったのは「夕暮れの光線がとりどりの色の星となって砕ける無数の針をふくんだ、透きとおった大きな塊」。ホセ・アルカディオ・ブエンディアはこれを「世界最大のダイアモンド」と呼んだが、大男が「そいつは氷だ」と諭す。ホセ・アルカディオ・ブエンディアはさらにお金を払って氷に触り、子どもたちの分も払って触らせる。息子のアウレリャノは氷に触って「煮えくり返ってるよ、これ!」と叫ぶ。

しかし、父親は息子の言葉を聞いていなかった。その瞬間の彼はこの疑いようのない奇蹟の出現に恍惚となって、熱中した仕事の失敗のことも、烏賊の餌食にされたメルキアデスの死体のことも忘れていた。彼はもう一度、五レアルのお金を払って氷塊に手をあずけ、聖書を前に証言でもするように叫んだ。
「こいつは、近来にない大発明だ!」

このくだりを読んで、冷凍庫から氷を取り出して、ホセ・アルカディオ・ブエンディアごっこをしたくなったのはワタシだけではないはずだ。真夏ならなおさら。(つづく

June 26, 2024

「ピュウ」(キャサリン・レイシー著/井上里訳/岩波書店)

●昨年刊行されていた本なのだが今ごろ読んだ、「ピュウ」(キャサリン・レイシー著/岩波書店)。アメリカの南部の小さな町の教会で、信徒席に眠るよそ者が発見される。この人物は外見からは男子のようにも女子のようにも見える。そして、白人のようにも黒人のようにも見える。言葉はほとんどしゃべらない。名前がわからないので、住人たちは「ピュウ」(信徒席)と名付け、コミュニティに受け入れようとするのだが……。
●といった展開なのだが、特筆すべきはこの物語が「ピュウ」の一人称で語られていること。よそからやってきた謎めいた人物を本人の視点で書いているのだ。これは秀逸。ピュウはなにも語らない。すると、相手が勝手に自分の物語をしゃべりだす。みんな戸惑いながらも、勝手にピュウのなかに自分の見たいものを見ている。
●この南部の町には年に一度の独特の祭りがあって、それがコミュニティの結束を保っている。すばらしい祭りだという人が多いが、嫌悪する人もいる。わわ、それってシャーリイ・ジャクスンの名作短篇「くじ」じゃないの。もちろん、 「くじ」のようなイヤ~な後味は残さないのではあるが。
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●EURO2024は第3節の中盤。クロアチア対イタリアが劇的だった。クロアチアは決勝トーナメント進出のために勝利が必要。イタリアは引分けでもOK。後半、クロアチアはモドリッチがPKに失敗するが、その直後にモドリッチがゴールを決めて先制。イタリアは反撃に迫力を欠き、このままクロアチアの2位、イタリアの3位が決まるところだったが後半53分、長いアディショナルタイムのラストプレーでイタリアのザッカーニがデル・ピエロばりの美しいゴールを決めて笛。歓喜のイタリアは1位通過。クロアチアは3位。38歳の英雄モドリッチは代表から引退するのだろうか。

June 13, 2024

「近衛秀麿の手形帖 マエストロの秘蔵コレクション」(近衛音楽研究所監修/アルテスパブリッシング)

●なんだかスゴい本が出た。「近衛秀麿の手形帖 マエストロの秘蔵コレクション」(近衛音楽研究所監修/アルテスパブリッシング)。いったいこれはどういう人が買うのだろうか。日本楽壇の父、近衞秀麿が戦前から最晩年にわたるまでに集めた大音楽家たちの手形コレクションが原寸大・オールカラーで収められている。交流のあった音楽家たちに手形帖を渡して、そこに手形とメッセージを残してもらったというのだが、そのラインナップが半端ではない。フルトヴェングラー、ストコフスキー、クレンペラー、コルトー、シャリアピン、エーリッヒ・クライバー、ストラヴィンスキーなどなど。
●手形っていうのは手の輪郭をペンでなぞったものなんだけど、みんな手がでかい。フルトヴェングラーもストコフスキーも大きい。クレンペラーとかピアティゴルスキーなんて、びっくりするほどでかい。シゲティも。いや、これはワタシの手が手が小さいから、そう思うのか。小さいのはオーマンディ。ワタシと変わらない。珍しいところでは、映画にもなった女性指揮者の草分け、アントニア・ブリコが入っている(映画「レディ・マエストロ」)。会ってたんだ、近衞秀麿。
●ストラヴィンスキーはどうかなと思ったら、左手の人差し指しか書いてくれてない。性格悪いぜ。

June 4, 2024

「スカウト目線の現代サッカー事情 イングランドで見た『ダイヤの原石』の探し方」(田丸雄己著/光文社新書)

●知らないことばかりでびっくりしたのが、「スカウト目線の現代サッカー事情 イングランドで見た『ダイヤの原石』の探し方」(田丸雄己著/光文社新書)。著者はイングランドとスコットランドでスカウトの仕事を経験している。スカウトというと、引退した選手が務める仕事という印象を持っていたが、そのバックボーンはさまざまで、著者にプロ選手経験はない。そして、スカウトという仕事の規模は想像をはるかに超えて大きい。プレミアリーグのクラブならどこでもアカデミーに50人近く、トップチームに20人くらいはスカウトがいるし、ビッグクラブならそれ以上だとか。プレミアだけでなく、2部や3部のクラブも大勢のスカウトを雇っていて、著者が一時期所属していた8部のクラブでさえ、ファーストチームに7人のスカウトがいたという(!)。ちなみにイングランドは4部までがプロ、5部以下はセミプロ・アマチュアという区分。育成年代から大人の試合まで、ありとあらゆる試合にスカウトがやってきて、レポートを書いているという感じ。
●すごいと思ったのはスカウトの仕事を巡る競争率。「プレミアリーグであれば、ボランティアスカウトと呼ばれる無給のスカウトでも一つのポジションに500人くらいの応募がある。パートタイムやフルタイムとなればそれ以上だ」。チームに所属していないフリーランスのスカウトもいる。大学にスカウト学部があったりするが、そこから仕事を得るのは容易ではなさそう。「イングランドではスカウトを目指す99%の人が、スカウトを始めて最初の数年(長いと10年以上)はお金をもらえるポジションにつくことができない」。なりたい人が多すぎると、無給のポジションができてしまうのはどこの世界も同じかもしれない。
●あと、インパクトのあった言葉は「Jリーグはすでにレッドオーシャン」。ええっ。
●ひとつおもしろいなと思ったのは、左サイドバック問題について。

筆者がイングランドに来た2019年からずっとタレントが枯渇しているポジションがある。左サイドバックだ。この4年間、ロンドン中のスタジアムやグラウンドで他のクラブのスカウトと話をしてきたが、左サイドバックはいつでもどのクラブでも追っていた印象だ。 "We are looking for a left-back...." がもはやスカウトの会話の枕詞かのような時期もあった。

な、なんと。このブログで何度か話題にしているように、ニッポン代表はオフト時代からずーーっと左サイドバックの選手層が薄くて苦労しているのだが、イングランドでもまったく同じ問題があったとは。右サイドバックは次々とタレントが出てくるけど、左サイドバックはいつも足りない。利き足が左の選手が少ないからということではあるのだが、攻撃の選手となると、左ウィングが足りないという話は聞かない。中盤の司令塔にもレフティはけっこういるイメージ。足りないのはいつも(レフティの)左サイドバックなのだ。

May 17, 2024

「俺の人生まるごとスキャンダル グルダは語る」(フリードリヒ・グルダ著/田辺秀樹訳/ちくま学芸文庫)

●少し前にグルダのチェロ協奏曲について書く機会があって、その際に参照したのが「俺の人生まるごとスキャンダル グルダは語る」(フリードリヒ・グルダ著/ちくま学芸文庫)。これは最近の本ではなく、90年代に洋泉社から刊行された「グルダの真実 クルト・ホーフマンとの対話」が改題のうえ文庫化された一冊。以前はお堅い雰囲気の書名だったが、今の書名のほうが内容に即している。「歯に衣着せぬ」という表現がぴったりで、言いたい放題。グルダはハインリヒ・シフのためにチェロ協奏曲を書いたのだが、その経緯を語りながらシフのことをけちょんけちょんにけなしている。「ヤツは男を下げた」「気骨なんてまるでない」「彼は俺を裏切ったんだから、俺としては彼はもう過去の人物さ」といった調子。ただ、チェロ協奏曲が成功作になったという点では感謝しているそうで、とくにレコードは大成功だったという。
●で、別の章でお金について話していて、そこでもチェロ協奏曲の話題が出てくる。演奏だけじゃなく作曲の収入も年々増えてきているという話で、こんなことを言う。

 作曲による収入では、チェロ協奏曲が断然トップだ。今、仮にもう何もしないとしても、チェロ協奏曲だけで生活していけるだろう。それも、かなりいい生活をね。

えっ、ホントに。いや、たしかに当時は今と違ってレコーディングがもたらす収入は大きかったとは思うけど、いったいどれだけ売れたの、チェロ協奏曲。ミリオンセラーとかになったんだっけ?
●あとはバーンスタインとパーティでいっしょになって、ふたりでピアノを連弾することになったので、当然ジャズはできるだろうと思ってガーシュウィンの「レディ・ビー・グッド」をやろうとしたら、バーンスタインがジャズの決まりごとをまったくわかってなくて腹が立ったとか、カラヤンが亡くなったときは仰々しい葬儀が執り行われたけど、やっていた連中はみんなカラヤンがいなくなってホッとしていたとか、そんな調子。
●でも、ベームとセルのことは手放しで称賛している。「リハーサルをやっていて、これは俺と同じくらい強力な奴だって感じる指揮者」がベーム。一緒に演奏できて心から満足できたという。セルのことも「演奏していて、いつも、それ以上のものは考えられない」と褒めちぎっている。

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