●おっと、これもう年末に出ていたのか、「とりぱん」12巻、ようやく読んだ。東北を舞台に、野鳥たちに並んで金魚や昆虫、犬猫などさまざまなケダモノライフを描くこのマンガ、不思議とネタが尽きることなく快調に続いている。スゴい創作力。今回いちばんウケたのはコガモたちの生態かなあ。
●カモはいいっすよね、カモは。かわいいし、美しい。それでいて可笑しい。そしてときにはおいしい。カモ、ラブ!
●これ読んだ影響で、さっそく公園に出かけてしまうわかりやすい自分。都内もこの時期、公園の池には大勢のカモたちがやってくる。オナガカモが多い。キンクロハジロもいる。カルガモは渡らないので年中いる。少数派としてはハシビロガモのつがいが一組。カイツブリも健在。といったあたりを観察して満足する。ゴイサギ、カワウも見かけた。
●カモって飛ぶんすよね、あんな丸っこくてヨタヨタした感じなのに、いざ飛ぶとなったら猛烈に飛ぶ(渡り鳥だし)。泳げて、飛べて、しかもそこそこ歩ける。水陸空自在な最強鳥類なのに、ちっとも万能性を感じさせないところが好き。
●今回違う絵柄の描き下ろしマンガ「るりさんとめるりさん」が載ってて、これがまたいいんだな、繰り返して読みたくなるくらいに。
Booksの最近のブログ記事
とりぱん 12 (とりのなん子)
「都市と都市」(チャイナ・ミエヴィル著)
●気になっていた「都市と都市」(チャイナ・ミエヴィル著/ハヤカワ文庫)を読了。世界幻想文学大賞、ヒューゴー賞、ローカス賞等々を総なめにした上に、帯に「カズオ・イシグロ絶賛!」の惹句。そりゃ読むしか。
●舞台設定のアイディアが秀逸。ヨーロッパ(おそらくバルカン半島)に位置する架空の都市国家ベジェルとウル・コーマが舞台となるのだが、この両都市は物理的には同じ領土を共有しているんである。というと東ベルリンと西ベルリンみたいな感じかと思うが、壁で分断されているのではなく、モザイク状に土地を共有しているのだ。同じストリートのこの建物はベジェルに属するけど、こっちの建物はウル・コーマに属するとか、複雑に入り組む。
●で、ベジェルの住民はウル・コーマに属する建物や人を「見ない」ように法律で義務付けされ、見てはいけないものは「見ない」ように子供の頃から訓練付けられている(ウル・コーマ側も同じようにベジェルを「見ない」)。ウル・コーマ側でにぎわっている繁華街に出かけても、そこがベジェル側でさびれた街であれば、ベジェル人は「ああ、さびれているなあ」と感じるわけだ。ウル・コーマ側で人が倒れていても、ベジェル人はそれに気がついてはいけないし、事実気がつかない。相手側の国家を「見てしまう」ことは重大犯罪であり、この罪に対する監視機関は絶大な権力を持つ。両国家間にはうっすらとした緊張関係がある。
●この設定は、「本当は見えるはずのものを見てはいけないものとして過ごし、なかったものとする」という点で、とても寓意的だ。でもこんな設定を用意しておきつつも、ストーリーは完全に警察小説の意匠をとる。一人称の警官が犯人を追いかけるんである。ベジェルからウル・コーマへと。
●たとえばベジェルの住民がご近所のウル・コーマの家を訪ねるとしたら、それは海外旅行になるんすよ。「国境」の役割をする施設に出向いて、いったん出国手続きを経てウル・コーマに入国し、よく知っている街を知らない街として歩き直して、ウル・コーマの家にたどり着く。その際に、物理的には隣にあるわが家は「見えない」ものとして視界に入らないわけ(笑)。スゴいすよね、このアイディアは。
「ラテンアメリカ五人集」「砂の本」(ラテンアメリカの文学/集英社文庫)
●昨年集英社文庫で「ラテンアメリカの文学」として何冊か新装されたので。
●短編集「ラテンアメリカ五人集」。パチェーコ、バルガス=リョサ、カルロス・フエンテス、オクタビオ・パス、アストゥリアスの5人の作品が収録されている。パチェーコとバルガス=リョサがすばらしすぎて、この2作だけのために買っても損はない。
●パチェーコの「砂漠の戦い」は、40年代末のメキシコを舞台に、友達の母親に恋をした少年を描く。子供が友達の家に遊びに行ったら、そこのお母さんがステキな人でときめいたという他愛のない話のはずなんだけど、当時のメキシコ社会の背景や、後になって知る事の顛末が物語に奥行きを与えている。いたく切ない。年老いた主人公の回想として語られるという点も秀逸。そんな話の題が「砂漠の戦い」なんだから、もうこれは。
●バルガス=リョサの「小犬たち」も名作。これはクソガキたちの世界、最初は。ガキどもの中に転校生がやってきた。勉強ができる。クソガキたちはサッカーが好きだ。転校生は努力家で、一生懸命練習してサッカーでもエースストライカーになった。そんな人気者のカッコをつけたガキが、ある悲しい事件を境に「ちんこ」って呼ばれるようになる(笑)。「ちんこ」すよ、「ちんこ」。どうやってもカッコよくない。で、クソガキ時代は「ちんこ」なんてカッコ悪い名前がついてしまったよー、てへ、くらいの凋落で済んでいたんだけど、だんだん思春期を迎えると彼の苦悩はそんなものじゃ済まなくなる。大人になるとともに彼の傷口は開き、人生から輝きが失われ、そしてエネルギーのぶつけどころを見失ってしまう。複眼的な文体もすばらしいし、あと、話の閉じ方が最高にうまい。これもどうしようもなく切ないんだな。
●ついでに同じシリーズからもう一冊。ボルヘスの短編集「砂の本」。いろんな作品が収録されているけど、「書物」というのが基調テーマになっている。大半は(もしかすると全部)以前に読んだことのあるものだったが、改めて読むと結構わけのわからない話も多い。表題作「砂の本」、「円盤」みたいなそっけない奇譚も味わい深いが、好みで選ぶなら「鏡と仮面」か。アイルランド大王と宮廷詩人の話。王は詩人に頌歌を求める。詩人は見事な詩句を披露し、王はそれを玩味し称賛するが、さらに一段の彫琢を期待する。詩作のやり取りを経て、ついに二人は禁断の美を知ってしまい、その罪を分かち合う。言葉の力をこんなにも美しく信じた物語はない。
「小澤征爾さんと、音楽について話をする」(小澤征爾、村上春樹)
●あっという間に読んだ。「小澤征爾さんと、音楽について話をする」(小澤征爾、村上春樹著/新潮社)。とんでもなくおもしろい。村上春樹による小澤征爾のロングインタビューということなんだけど、なにしろ一年の間に世界のあちこちで語り合ったというもので、密度も濃ければ量も多い。知らなかったエピソードも山ほどあっておもしろいし、小澤征爾の音楽に対する率直な考え方もうかがえる。
●すぐれた小説と同じように、すぐれたインタビューも重層的に読んで味わえるものなんだな、と感じた。つまり、まず一次的には話される内容が興味深い。村上春樹はすごくよくクラシック音楽を聴いているし、感じ方とか見方はほとんど完璧にワタシらのよく知るクラシック・ファンというか「クラヲタ」のセンスと一致しているんすよ。質問もいい。小澤征爾も相手が音楽関係者ではなく、以前より交友のあった作家であるからこそ、これだけオープンに話してくれたにはちがいない。
●でもそれ以上におもしろいのは対話の作法だと思う。インタビューといっても、これはただのQ&Aじゃなくて、対話なんすよ。で、この対話は音楽を演る人と聴く人の対話の常として、ときどき必然的にすれ違う(これはちゃんとすれ違ってくれないと対話が成功しない)。かみ合ったときもすれ違ったときも小澤さんは「そうですね」と文面上肯定するんだけど、微妙に「そうそう」と「うん、そうだねえ」の間に違いがあって、そのニュアンスが文章にあらわれている(たぶん)。これは演奏する側が真実で聴く側が幻想を抱いているっていう一方的なことじゃないんすよね。同じものを入り口から見たときと、出口から見たときの違いで、もちろん客席は出口の側だから出口に真実がないはずがない。このすれ違いが相互の敬意と共感のもとに起きると対話はおもしろくなる。聞き手は躊躇しない。
季刊「アルテス」
●ついに「アルテス」Vol.1(アルテスパブリッシング)が刊行された。「質の高い評論や批評、研究を掲載する季刊ペースの音楽言論誌」とあるように、手にとった感覚で言えば「ユリイカ」の音楽版みたいな雰囲気。音楽のジャンルもまったく限定していない。今までにこういった音楽誌はなかったのでは。企画にもデザインにもとても力が入っているのがひしひしと伝わってくる。
●まだ半分ほどの記事を読み終えたところだが、様々な立場やジャンルの方々が執筆しているので、それぞれに違った手触りがある。特集のテーマは「3.11と音楽」。高橋悠治さんのインタビューが圧巻。「地震が起こっても津波が起こっても、芸術が変わったというためしはない」。「音楽は必要じゃないんですよ。それは最初からわかっていることでしょ」。このインタビューは別格。
●後半の特集以外の記事の「それぞれ書きたいことをのびのび書いている」感のほうがワタシは好きかな。濱田芳通さんのテレマンの話とか、すばらしい。卜田隆嗣さんの「音声、いろいろ」も(門外漢なりに)抜群におもしろいと思った。
「スターバト・マーテル」(ティツィアーノ・スカルパ著/河出書房新社)
●ようやく読んだ、「スターバト・マーテル」(ティツィアーノ・スカルパ著/河出書房新社)。ヴィヴァルディが登場する小説として、翻訳前から話題になっているのをチラッと見かけて気になっていた。読んでみてびっくり。こんなスタイルの小説だったとは。やや長めの中篇程度なのですぐに読める。
●舞台はあのピエタ養育院。ヴェネツィアにあって孤児たちの少女に音楽教育を施し、少女たちの何人かは楽団を作って演奏した。主人公はヴィヴァルディではなく、ピエタ養育院で特にヴァイオリンの才能に秀でた少女。少女の独白という形で養育院が描かれる。あるとき、養育院に新任の司祭がやってくる。彼は前任者とまったく違った驚くべき音楽を書いた……それがヴィヴァルディ。
●著者スカルパはかつてピエタ養育院の中にあったというヴェネツィアの病院で生まれている。そしてヴィヴァルディを敬愛するというのだから、書くべくして書かれた小説なんだろう。ただし、これは小説であって、伝記的な読み物ではまったくない。ヴィヴァルディよりも少女の物語で、特に前半は陰鬱なトーンで進む。手触りはグロテスクといってもいい。著者はよく承知の上で史実とは異なる設定を用いている(もちろんなんの問題もない、小説なんだから)。イタリア最高の文学賞ストレーガ賞を受賞したというのだが、評価のポイントはどのあたりだろう。虚実ないまぜとはいえ、養育院の少女を主人公にするというアイディアはおもしろいと思った。
プロコフィエフとラヴェル
●「プロコフィエフ自伝/随想集」にラヴェルのエピソードが紹介されている。プロコフィエフはラヴェルのことを高く買っていた。ラヴェルの訃報を聞いて、ラヴェルの音楽は「現実からかけ離れすぎているというまちがった思考のせいで」ソヴィエトではあまり演奏されないが、同時代でもっともすぐれた作曲家であったと讃えている。ラヴェルとは1920年に初めて会ったそうだ。ボレロや弦楽四重奏、パヴァーヌを例に挙げ、彼の死を悼んでいる。
●プロコフィエフはパリ・オペラ座でラヴェル自身が指揮したバレエ「ボレロ」初演に立ち会ったという。ラヴェルは決して指揮を得意としていないが、曲の最後まで見事にオーケストラをコントロールした。で、最後の和音が鳴って、ダンサーたちがピタッと固まった姿勢をとった後、なぜか幕が下りてこない。ラヴェルは平静を保とうとしたが、いらついていた。ダンサーたちはじっと同じ姿勢をとり続けている。突然、ラヴェルは譜面台の上にあったボタンを押した。すると幕が下りた。ラヴェルがボタンを押し忘れていただけだった……。
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「小澤征爾さんと、音楽について話をする」
●明日22日深夜25:05から、フジテレビで「第23回高松宮殿下記念世界文化賞」特別番組。小澤征爾&征悦親子対談がある、と。
●小澤征爾と村上春樹の対談本「小澤征爾さんと、音楽について話をする」(新潮社)が発売される。以前「モンキービジネス」でお二人の対談が載っていたのを読んだが、とてもおもしろかったし、なんというか風通しの良さ(?)を感じて気持ちよかった。あれはこの単行本のための企画だったのか。
●対談の人選として最高なのでは。読むしか。