Booksの最近のブログ記事

May 31, 2023

「HHhH: プラハ、1942年」(ローラン・ビネ著/創元文芸文庫)

●なるほど! この本って、そういうことだったんだ! と、膝を叩きながら読んだ「HHhH: プラハ、1942年」(ローラン・ビネ著/創元文芸文庫)。単行本で出たときに本屋大賞翻訳小説部門第1位とかTwitter文学賞海外編第1位になって話題を呼んだ一冊。文庫化されたのを見つけて飛びついたのだが、抜群におもしろい。書名のHHhHとは「ヒムラーの頭脳はハイドリヒと呼ばれる」を意味する符丁で、ナチスによるユダヤ人大量虐殺の首謀者ラインハルト・ハイドリヒのことを指している。この本はハイドリヒと、彼を暗殺すべく在英チェコ亡命政府がプラハに送り込んだふたりの青年についての史実を小説として描いている。が、史実にもとづくフィクションというのではない。ぜんぜん違う。普通、その種の小説は史実の間を埋めるための創作が入る。しかし著者ビネは創作を入れることを拒み、どこまでも史実だけを追いかける。
●だったら、それはノン・フィクションじゃないの、と思うかもしれないが、どこからどう読んでもこれは小説。そして小説内に著者がずっと居座っていて、ここでこんなことが話されたかもしれないと考えたり、登場人物に寄り添ったりしながら、この本をどう書いたらいいのかと悩んだりする。なので、フィクションではないのにメタフィクション的でもあるんだけど、こんな手法で小説が書けるんだというのが最大の驚き。
●で、本書を読むと、ナチスがどのような経緯でチェコのリディツェで住民を虐殺したうえで、村そのものを消滅させたのかということがわかるのだが、この事件を題材としているのがマルティヌー作曲の「リディツェへの追悼」。何年か前に下野竜也指揮N響定期でも演奏されたほか、ヤクブ・フルシャが都響でも指揮していたと思う。曲目解説等で事件のあらましくらいは目にしていたが、そこに至るまでの大きなストーリーをようやく知った。その恐ろしい不条理さも。


May 18, 2023

「クスクスの謎」(にむらじゅんこ著/平凡社新書)

●最近、クスクスを家に常備するようになった。なぜ今まで、こんなに手軽でおいしいものを食べていなかったのか。ご飯、スパゲッティ、蕎麦、うどんなどと並んで、主食のラインナップに加わりそう。クスクスはデュラム小麦を用いた粒パスタ。だから基本的にスパゲッティと同じような食べ方ができると思っているのだが、調理が圧倒的に楽なのがいい。スパゲッティなどロングパスタは大量のお湯を沸かして、そこで7分前後茹でるのに対して、クスクスは食べる分量と同量のお湯をかけて、数分放置するだけ。お湯で戻したら、オリーブオイルと塩をかける。戻すのも楽だし、後片付けも楽なので、ふだんのランチにちょうどいい。食べ方は無数にあるようだが、今のところ、スパゲッティ用のソースと合わせている。スパゲッティを食べるときと同じように、トマトソースやガーリックオイル系のソースを作れば、麺を茹でる必要がない分、手間が減るし、なんならレトルトのソースでもいい。
●で、これは本当はどういうふうに食べるものなのか気になって、手に取ったのが「クスクスの謎」(にむらじゅんこ著/平凡社新書)。クスクスがどういう食べ物で、どこから来て、どんなふうに広まり、どう食べられているのかが記されている。レシピ集ではなく、読んでおもしろい本。もともとアルジェリア、モロッコ、チュニジアといったマグレブ諸国で食べられていたクスクスがヨーロッパにわたり、フランスでは国民食といえるほど食べられている(著者はフランス在住)のに対し、イベリア半島では消えたとか、実に興味深い。
●いろんな国でいろんな食べ方がされているので、日本では日本なりの家庭の食べ方があってもいいわけで、もしかするとご飯オルタナティブな食べ方もあり得ると思った(最近、オートミールがそんな位置づけになりつつあるが)。ご飯の代わりにクスクスでカレーくらいは大ありだと思うが、卵かけクスクスとか、納豆クスクスもあり得るのかも?
●クスクスと関係ないけど、この本でひとつ知ったこと。ショートパスタの「マカロニ」とお菓子の「マカロン」は同じ語源。フランスでは17世紀頃まではどちらも「マカロン」と呼ばれていたのだとか。片や乾燥させ茹でるもの、片や甘いものだけど、加熱前はどちらもパスタ(ペースト)。

May 9, 2023

「ノー・カントリー・フォー・オールド・メン」(コーマック マッカーシー著/ハヤカワepi文庫)

●ハヤカワepi文庫から新刊として発売された「ノー・カントリー・フォー・オールド・メン」(コーマック・マッカーシー著/黒原敏行訳)を読んだ。新刊といっても、これは以前、扶桑社から刊行されていた「血と暴力の国」と同じ作品で、訳者も変わらない。出版社が違うので、これを「復刊」と呼ぶのはおかしいかもしれないが(でも呼んでしまう)、復刊にあたって「ノー・カントリー・フォー・オールド・メン」と改題された。なにしろこの小説はコーエン兄弟の監督により「ノーカントリー」の題で映画化されており、その映画があまりにも強烈で、よくできている。映画ではハビエル・バルデムが殺し屋を、トミー・リー・ジョーンズが保安官を、ジョシュ・ブローリンが大金を盗むベトナム帰還兵の役を務めた。2007年製作の映画は超ド級の傑作だと思うが、バイオレンスの要素が強すぎて、もう一度観るかといえばたぶん観れない。しかし、原作なら読めるんじゃないか。そう思って読みはじめたら、おもしろくて止まらない。コーマック・マッカーシーなんだから、傑作で当然なのだろうが、映画にあったスリルとサスペンスがそのまま原作にあり、同時に映画になかった文学性もあって、なるほど、こういう小説だったのかと納得。
●基本的なストーリーは原作も映画も変わらない。ベトナム帰還兵のモスがたまたま麻薬密売人の銃撃戦があった場所で大金を見つける。死にかけた男が「水をくれ」と言葉を絞り出している。モスは大金を盗む。だれにも見られずに、無事に自分のトレーラーハウスに帰る。ここでモスが賢くふるまっていれば、なにも起きずに話は終わっていた。だが、夜になるとモスは死にかけていた男のことが気になって、自分でもとんでもない愚かなことだと承知しながら、水を持って現場へと戻る。そして、追っ手に見つかる。そこからモスと異常な殺し屋シガーの追跡劇が始まる。さらにふたりを追う保安官が登場する。この保安官の独白が物語で大きな比重を占めているのが原作と映画の大きな違い。ノー・カントリー・フォー・オールド・メン、つまり(アメリカは)老いた人間のための国ではない、という諦念が保安官の独白に滲み出ている。
●もうひとつ原作で顕著だと思ったのは、ある種の神話性。殺し屋シガーは己の利益のためというよりも、余人には理解しがたい絶対的な行動原理にもとづいて殺戮をくりかえす。純粋悪であり、悪神のようでもある。一方、帰還兵モスは金に目がくらんだ人間だ。しかし彼が悪神に追われるようになったのは、金を盗んだからではない。生きているはずもない人間に水をやろうとした筋の通らない慈悲の心が、地獄への扉を開いたのだ。

April 14, 2023

「ハイドン」作曲家◎人と作品(池上健一郎著/音楽之友社)

●新刊「ハイドン」作曲家◎人と作品(池上健一郎著/音楽之友社)を読む。このシリーズはどれも資料として有用なものばかりなので、だいたいの巻は目を通しているが、今回の「ハイドン」はためになるばかりではなく、純粋に本としておもしろい。こういった読書の楽しみまで提供してくれる評伝は貴重。おもしろい理由はふたつあって、ひとつは著者の筆致が巧みだから。ニュートラルな文体で、語り口が抜群にうまい。もうひとつはハイドンの人生そのものが興味深いから。
●ハイドンの人物像はエキセントリックとはいえないが、その人生の歩みはかなり特異。長いエステルハージ家時代は、はたから見れば音楽家としての成功だけど、ひとりの人間の生き方として見れば囚われの身だったのだと痛感。エステルハーザが豪華だという話はたびたび目にしていても、その周囲が貧しく悲惨な土地であるということまではわかっていなかったので、当時のハイドンへの見方が少し変わる。ハイドンが手紙に記した「奴隷であり続けるというのはみじめなものです」という一言が刺さる。そしてずいぶんと年をとってからロンドンへの大旅行を敢行し、そこでハイドンがどれだけ甘美な瞬間をくりかえし味わっていたか。想像するとくらくらしてくる。人生を取り戻してやろうというくらいの強い気持ちを抱いていたのかもしれない。
●ロンドンでのザロモン・コンサートの評が載っていて、これがまた会場の熱気を伝えてくれていて、とてもよい。以下引用するけど、どの曲を指しているか、わかるだろうか。

ハイドンによる他の新しい交響曲の2回目の演奏が行われた。中間楽章(第2楽章)は再び大変な喝采の声とともに受け入れられた。すべての席からこだまする「アンコール!アンコール!アンコール!」の合唱。淑女たちでさえも声を抑えることができないほどであった。

●いいっすよねー。人々の興奮が伝わってきて。曲は交響曲第100番「軍隊」。第2楽章の軍隊風趣向が熱狂を巻き起こしている。上記の評はこう続く。

戦地へと進攻し、人々が行進し、突撃の音が鳴り響き、攻撃の音が轟き渡り、武器がぶつかり合い、傷を負った者たちがうめき声をあげる。そして地獄のような戦争の鳴動というべきものが増していき、ついには恐るべき崇高の極みへといたるのだ!

こういう記事を読むと、18世紀末に比べると、現代の演奏会はずいぶんと作品も聴衆もおとなしくなったものだと思わずにはいられない。なんというか、ワタシたちはハイドン時代よりも枯れている。

March 17, 2023

「タタール人の砂漠」(ディーノ・ブッツァーティ著/脇功訳/岩波文庫)

●Twitter上で万城目学氏が「普段滅多に好みが一致しない私と森見登美彦氏が、今年めずらしく『これはおもしろい』で一致した一作」とつぶやいたことをきっかけに、10年前に発売された岩波文庫が話題になっている。ディーノ・ブッツァーティ著の「タタール人の砂漠」。そうなのだ、ワタシもそのツイートを目にして、反射的に買ってしまったひとり。なにせ「何も起こらないのにおもしろい」と紹介されていたので。1940年刊の名作。
●主人公は青年将校ジョヴァンニ・ドローゴ。士官学校を出て中尉の制服を身につけて最初の任地である辺境の砦にやってくる。「何年来待ち焦がれた日、ほんとうの人生の始まる日」から最初の1ページが始まる。だが、この国境線上にある砦の目の前には砂漠が広がっているだけで、敵の襲来などありそうにない。もしかすると敵がやってくるかもしれない、そして自分が活躍して英雄になるかもしれないと、漠然とした期待を抱きながら規律正しく日々を過ごすが、なにも起きない。
●そんな寂しくて単調な暮らしなど、若者には耐えがたいだろうと思うじゃないすか。でも一方で、慣れてしまえばそこは心地よい場所になることもありうる、とワタシらは知っている。

もう彼のなかには習慣のもたらす麻痺が、軍人としての虚栄が、日々身近に存在する城壁に対する親しみが根を下ろしていたのだった。単調な軍務のリズムに染まってしまうには、四か月もあれば充分だった。(中略)勤務に習熟するにつれて、特別な喜びも湧いてきたし、兵士や下士官たちの彼に対する敬意も増していった。

●見たことのある光景のような気がする。若いドローゴは無限に自分の時間があるように思っている。自分の意思で砦から出ようと思えばいつでも出られる。そう思いながら、なにも変わらないまま(変えようとしないまま)月日が過ぎていく。きっといつかなにかが起こる、だから、住み慣れたここに居続けるのだ。そんなふうに自分に言い聞かせているうちに、やがて、かつての自分と同じような新任の若い将校が砦に配属されてくる……。
●少し辛辣な物語ではあるのだが、隅々まで味わい深い。

March 2, 2023

「昼の家、夜の家」(オルガ・トカルチュク著/白水社)

●あれ、この本、なんのきっかけで読みはじめたんだっけ……Amazonのオススメだったのかな? 2018年にノーベル文学賞を受賞したポーランドの作家オルガ・トカルチュクの「昼の家、夜の家」(小椋彩訳/白水社)。とてもゆっくりと時間をかけて少しずつ読み進めたので(そうしたくなるタイプの小説)、なぜこれを読みはじめたのかを忘れてしまった。どんな話かを一言で表すとすれば「辺境小説」。舞台はポーランドとチェコの国境地帯にある小さな町ノヴァ・ルダ。町はずれの山村に移り住んだ語り手と風変わりな隣人たちとの交流を軸に、土地に伝わる聖人の伝説やらキノコ料理のレシピやら寓話だとか妙な事件だとかが語られる。そして、ときどき背景に戦時の記憶や社会主義の残滓みたいなものが垣間見える。
●たとえば、あるドイツ人の話。かつて自分が住んだ家を見ようと、国境を越えてポーランドへと旅する。しかし登山中に発作を起こし、チェコとポーランドの国境を両足でまたいで絶命する。不思議な話、可笑しい話、怖い話、いろんな小さな物語が集まっているのだが、どれも多かれ少なかれ辺境的な要素を備えている。
●ノヴァ・ルダという町についての記述から少し引用。

太陽が昇らない町。出ていった人が、いつか必ず帰る町。ドイツが掘った地下トンネルが、プラハとヴロツワフとドレスデンに通じている町。断片の町。シロンスクと、プロイセンと、チェコと、オーストリア=ハンガリーと、ポーランドの町。周縁の町。頭のなかではお互いを呼びすてにするくせに、実際に呼ぶときには敬称をつける町。土曜と日曜には空っぽになる町。時間が漂流する町。ニュースが遅れて届く町。名前が誤解をまねく町。新しいものはなにもなくて、現われた途端に黒ずみ、埃の層に覆われ、腐っていく街。存在の境界で、みじんも動かずに、ただありつづける町。

●いろんなキノコが出てくる。ポーランド人はキノコ狩りやキノコ料理が好きなのだとか。おいしそうにも思えるし、ひょっとして毒キノコなんじゃないのという怪しさも漂う。

February 3, 2023

「親愛なるレニー レナード・バーンスタインと戦後日本の物語」(吉原真里著/アルテスパブリッシング)

●話題の本、「親愛なるレニー レナード・バーンスタインと戦後日本の物語」(吉原真里著/アルテスパブリッシング)を読んだ。題材となっているのは著者がワシントンの議会図書館で出会った、バーンスタインに宛てられた数百通の手紙。日本では最初期のバーンスタイン・ファンであるカズコ、バーンスタインと激しい恋に落ちたクニ(橋本邦彦氏)のふたりの日本人との交流をひも解きながら、ステージ上からは見えないバーンスタインの姿を描き出す。2019年に英語で原著が出版されており、それを著者自身が改稿の上、自ら日本語で書き直して出版したというノンフィクション。生前のバーンスタインがこれらの手紙を手元に保管しており、それがいま図書館にアーカイブされていて閲覧できるというのもすごい話。
●もっとも印象深かったのは橋本邦彦氏とバーンスタインのラブストーリー。橋本氏からバーンスタインに宛てた手紙がたくさん引用されているのだが、当然のことながらとてもプライベートな内容で、熱烈な愛の手紙が続く。他人が読んではいけないものを読んでしまった感が半端ではない(本人の許諾はとれている)。そして、読むと憂鬱になる。だって、ふたりの関係性はどう転んだって不均衡なものだから。たとえ濃密な時間をふたりで過ごせたとしても、それはひとときのもの。相手は世界中を飛び回るスーパースターであり、独占することはできず、ともに人生を歩むことはかなわない相手。いちばんグサッと来たのは、橋本氏と同席していた場で、ゼッフィレッリがバーンスタインに向かって「海で魚を釣ったら、魚をいったん眺めた後は、海に放してやらなきゃいけない」と諭したという場面。つまり橋本氏が魚。これはゼッフィレッリのやさしさでもあるだろうけど、しんどい一言なわけで……。ただ、その先に待っているのは決して暗い結末ではない。バーンスタインというより、橋本邦彦の物語が美しい。
●もうひとつ柱になっているテーマは、書名にもあるように「戦後日本の物語」。これは最初のほうは知らない過去の話だけど、途中から自分も知っている時代になってきて、「そういうことだったんだ!」という発見がいくつもある。バーンスタインがイスラエル・フィルと来日したとき、ワタシはまだ大学生で、名古屋公演を聴くことができたんだけど、あのときのツアー実現の経緯なんかも興味深かった。コミュニケーションの行き違いでチケット発売後に演目の変更があったと書いてあったけど、まさに名古屋公演がそれで、当初の発表からマーラーの交響曲第9番に変わったんである。この変更を知って、ワタシは思わず「マジか?ヨッシャーーーー!」とガッツポーズをとったのだった(最初からマーラー9番だったら、チケットが取れなかったかもしれないと思った)。初めて目にした実物のバーンスタインが、あまりに身長が低くてイメージと違っていたのも忘れられないが(大男だと信じていた)、やっぱり同じ感想を持つ人も多かったんすね。あの公演の後、バーンスタインは名古屋に泊まらずに、能を鑑賞するために新幹線で大阪に戻ったという話は初耳。あと、日本はバブル期があったから、今とは違った景色が広がっていて、あの頃の時代の空気も伝わってくる。

January 11, 2023

「ブラック・フォン」(ジョー・ヒル著/ハーパーコリンズ・ジャパン)

●昨年読んだ本でひたすら感心したのがジョー・ヒルの短篇集「ブラック・フォン」(ハーパーコリンズ・ジャパン)。この本、以前に小学館から刊行された「20世紀の幽霊たち」を改題した新装版で、表題作の「ブラック・フォン」(以前の題は「黒電話」)がイーサン・ホーク主演で映画化されたことをきっかけに再刊されたらしい。映画のほうは未見で、見るつもりもないのだが、この短篇集は秀逸。一応はホラー小説というジャンルにくくられるのかもしれないが、メタフィクション的趣向もあれば、青春小説もあれば、挫折した大人の物語もあって、一言ではとてもくくれない。ただ全体のトーンとして「ほろ苦さ」があって、そこがなんとも味わい深い。英国幻想文学大賞短篇集部門受賞作。
●特によいと思ったのは、「ボビー・コンロイ、死者の国より帰る」。主人公はショー・ビジネスの世界を夢見て都会に出たものの、売れないまま故郷に帰った男で、エキストラとしてゾンビ映画に出演している。もちろんただのゾンビ役のひとりだ。そこでやはりゾンビ役のエキストラとして参加している高校時代のガールフレンドと再会する。ふたりは高校時代は人気者のベストカップルだった。彼女は息子を連れて参加している。ふたりは適切な距離感を探り合いながら会話を進め、やがて現在の境遇にあらためて目を向ける。そんな場がゾンビ映画の撮影だというのがたまらない。他にもかつての親友は風船人間だったという素っ頓狂な設定で書かれた青春小説「ポップ・アート」だとか、カフカの「変身」ばりにある日とつぜん昆虫になってしまった男が、その能力に目覚める「蝗の歌をきくがよい」、ホラー小説についての小説でありつつそれ自体が一級のホラーになっている「年間ホラー傑作選」等々。巧緻な作品が目立つ。むしろ表題作が弱いか。
●で、ワタシは知らなかったのだが(あるいは知っていたけど忘れていたのかも)、著者のジョー・ヒルはあのスティーヴン・キング(とタビサ・キング)の息子なのだとか。これにはびっくり。いや、文才を受け継いでいるという意味では納得か。しかしキングの息子であるということは大金持ちの家に生まれているわけで、それでいてこんなにもやさぐれた世界、敗者の世界を巧みに描けるというのは、どういうことなのか。父親の名を伏したまま、無名の新人としてこの短篇集でデビューしたそうだが、後でキングの息子だと知った人は心底驚いたのではないだろうか。

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