October 1, 2021

「翻訳教室」(柴田元幸著/朝日文庫)

●これは新刊ではなく、ずいぶん前に出た本なのだが、最近少しずつ「翻訳教室」(柴田元幸著)を読み進めている。中身は東大文学部での翻訳演習の講義をほとんどそのまま収めたもので、毎回、課題文が配布されて学生全員が訳文を提出し、だれか学生の訳文例をもとに、他の学生や教師が疑問や改善案をぶつけ合うスタイルの講義。学生側から意見が活発に出ていて、その内容もかなり高度だと感じる。そして、それに対する柴田氏の回答に目からウロコが落ちまくる。プロの翻訳ってこんなにも一語一語を疎かにしないんだ、ここまで原文を読み込みながら訳語を選んでいるのだと感動する。正確でありながら日本語として自然であるというのは大前提で、その一段上のレベルの話。
●で、とてもためになったことを3つほど書き留めておく。まず「英語の語順で訳すほうがいいという大原則」について。これはいろんな人が言っている翻訳の基本だとは思うのだが(もちろん例外もいくらでもある)、その実例を見ると、どうすればいいのか、なぜそうなのかが腑に落ちる。たとえばレイモンド・カーヴァーにある一文。

He was in the bedroom pushing clothes into a suitcase when she came to the door.

これに対する学生訳の例が、「彼女がドアの所までやってきたとき、彼は寝室で洋服をスーツケースに詰め込んでいるところだった」となっている。受験英語だったらみんなwhen~を先に出して「~したとき」で始めるので正解だと思うけど、これに対して別の学生から語順通りに訳すべきだと指摘が入る。で、柴田先生が同意して、こういう訳文に直す。「彼が寝室で洋服をスーツケースに詰め込んでいると、彼女がドアの所までやってきた」。なるほど、そうだよなあと思うじゃないっすか。こちらが自然だし、本質的に原文に忠実だと思える。詳しい解説は本書参照で。
●ふたつめは、And~ と But~。バリー・ユアグローの一文で、ここは前後の文脈がないとピンと来ない話だとは思うんだけど、Andを「しかし」と訳すといい場合がしばしばあるという話。原文はこう。

And the carp flit about, swishing their tails, blinking grimly at the scene.

学生訳は「しかし鯉はすいすいと泳ぎ回っている。尾鰭を軽く振り、人間の演ずる一幕をまばたきしながら冷ややかに眺めている」。前の文がないとどうしてこういう訳なのかわからないとは思うが、とにかくAndを「しかし」と訳している。これに対して柴田先生は素直に感心している。柴田訳は「そして」なんだけど、学生の「しかし」を讃えているのだ。別の場所で、Butを「そして」と訳したほうがうまくいくケースがあるという話も出てきて、これもよくわかる話だと思った。普通の日本語の文章であっても「そして」と「しかし」が置換可能な場面は意外とあると思う。
●三つめはシンプルに単語の意味なんだけど、hurt。これもレイモンド・カーヴァーに出てくる文で、赤ん坊を父親と母親でひっぱって奪い合う場面で、You're hurting the baby という一節が出てくる。これは優秀な学生たちでもほとんどがまちがえてしまった文で、「赤ん坊が怪我するわ」みたいに訳している。柴田先生によればそれは単純な誤訳のレベルで、ここでのhurtは「痛い」「痛くさせる」の意。だから「赤ん坊が痛がってるでしょう」というのが正解。よく考えてみれば父親と母親で赤ん坊を引っ張り合っている場面で「怪我する」なんて日本語表現は出てこないので、なにかおかしいと感じるべきなんだろうけど、なかなか「痛がってるでしょう」は出てこない。ちなみに、注射をするときに「痛い?」と聞くときは Does it hurt? と言うんだとか。
●まだ冒頭の4分の1くらいしか読んでいないけどこの調子。自分の語学力の低さゆえでもあるのだが、かなり歯ごたえがあり、平伏しながら読んでいる。

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