amazon

2025年4月アーカイブ

April 30, 2025

豊田スタジアムでJ1リーグ 名古屋グランパス対柏レイソル

豊田スタジアム
●29日は思い立って豊田市へ日帰り遠征。朝早くに家を出て、豊田市美術館と豊田スタジアムを巡る作戦。この行程はこれで3度目なので新味はないのだが、豊田スタジアムは競技場として最高である上に、建築物としても美しいので訪れる価値がある。前回は豊田大橋(スタジアムとともに黒川紀章の設計)から歩いて向かったが、今回は別ルートで久澄橋を通って向かう。座席がバックスタンドだったので、こちら側から入るともしかしたら近いのではと勝手に期待したが、ぜんぜんそうではなく、入場口は同じだった。

豊田スタジアム
●これまでは3階席だったが、今回はバックスタンドの2階席。たぶん、ここが最上のエリアでは。反対側のメインスタンドの2階席中央がVIPエリアっぽくなっている。3階も2階も急勾配なので、とても見やすい。さすがの球技専用競技場。

豊田スタジアム アウェイゴール裏
●観客数は34151人。アウェイ側にも大勢の柏サポがつめかけていた。往復には豊橋停車の新幹線ひかり(本数は少ない)を使ったが、行きも帰りも柏サポをたくさん見かけた。なんなら首都圏在住と思しき名古屋サポもいる。Jリーグでは観光とセットなった独自のアウェイツーリズムが発達していると言うが、まさにそれを実感。定時運行前提の高速鉄道網があるからこそ可能な文化だろう。

豊田スタジアム 名古屋 柏
●で、試合は長谷川健太監督率いる名古屋が開始わずか2分で稲垣祥のゴールで先制。リカルド・ロドリゲス監督の柏は劣勢だったが、前半に山田雄士のゴールで追いつき、後半5分に細谷真大が逆転ゴールを決めてこれが決勝点に。同じ3バックだが攻撃に手数をかけない名古屋に対して、柏はキーパーからボールをつなぐリスクをとるスタイル。キーパーとセンターバックの危なっかしいパス回しが、かつてのポステコグルー時代初期のマリノスをほうふつとさせる。これは選手のターンオーバーの影響があったかもしれないのだが、あまりうまく機能しているようには見えない。数少ないチャンスにゴールが決まったという印象。内容的には名古屋が勝っていたと思う。名古屋 1-2 柏。柏はこれで2位に浮上、名古屋は下から2番目の19位。その名古屋より下にいる唯一のチームがマリノスだ。トホホ……。親会社がトヨタと日産で残留争いとは。

April 28, 2025

ファビオ・ルイージ指揮NHK交響楽団のマーラー

ファビオ・ルイージ NHK交響楽団
●26日はNHKホールでファビオ・ルイージ指揮N響。プログラムはマーラーの交響曲第3番。N響はこの後、アムステルダムのマーラー・フェスティバル2025への出演を含む欧州6都市を巡るツアーに出発する。ツアーの演目のひとつがこのプログラム。その関係で、5月定期のAプロが4月中に前倒しされている。ロイヤル・コンセルトヘボウ、ベルリン・フィル、シカゴ交響楽団など錚々たるオーケストラが招かれるフェスティバルに出演するとあって、入念な準備と並ならぬ気迫がみなぎった演奏。コンサートマスターをはじめ、多くのパートで首席奏者がそろい踏みの豪華布陣。第1楽章からひりひりするような緊張感が伝わってきた。磨き上げられている。
●ルイージの造形はあらゆる角度から光で照らしたような明快でポジティブなマーラー。アイロニーやユーモア、グロテスクさといった要素は薄めで、壮麗な音響建築を仰ぎ見るといった趣。第1楽章は途中まで抑制的に感じたが、終盤ですさまじい追い込み。オレシア・ペトロヴァのメゾ・ソプラノ、東京オペラシンガーズの女声合唱、NHK東京児童合唱団の声楽陣は万全。児童合唱の「ビムバム」が始まるとそれだけでウルッと来る。終楽章は端正に始まり、進むにつれて白熱して壮大なクライマックスを築いた。曲が終わると完全な沈黙、その後は大喝采。楽員退出後、ルイージとコンサートマスター陣(長原幸太、郷古廉)がともに再登場してカーテンコール。客席も壮行演奏会といった雰囲気。
●1月から臨時営業されていたNHKホールのカフェコーナーが、継続営業することに。この日は休憩なしのプログラムなので開演前のみの営業で、大盛況だった。自分はザッハリッヒに自販機派。ガチャゴン。

April 25, 2025

最近の没ネタ集

●N響のベルリオーズ「イタリアのハロルド」でハロルドになり切って舞台をさまよい歩いたアントワーヌ・タメスティだが、この趣向を最初に披露するときはいろんなテストをしたと思う。舞台の後方まで移動しても客席に音が届くのかとか、狭すぎるところを歩いて他の奏者に接触しないかとか、さまざまな懸念があったにちがいない。タメスティは自分がやりたいことを、事前に指揮者とオーケストラにきちんと説明したはず。そして、リハーサルで試行した結果、これならうまくいくと納得した。試すてぃガッテン。
●レスピーギのローマ三部作といえば「ローマの松」「ローマの竹」「ローマの梅」。「ローマの松」を選ぶと豪勢なバンダが付いてくる。「ローマの梅」だと弦楽四重奏くらい。
●音楽の炒め物(AI画伯Grok 3さん作)。
音楽の炒め物

April 24, 2025

低音デュオ第17回演奏会 ~低音のカタログ~

●23日は杉並公会堂小ホールで低音デュオ第17回演奏会~低音のカタログ~。松平敬(バリトン、声)と橋本晋哉(チューバ、セルパン)による低音デュオで、プログラムは前半に福井とも子 doublet IV(2019)、川崎真由子「低い音の生きもの」(2023/25改訂初演)、山田奈直「内裏玉」(2025 委嘱初演)、後半に安野太郎「鏡の中」(2025 委嘱初演)、川上統 組曲「雲丹図録」(2025 委嘱初演)、野村誠「どすこい!シュトックハウゼン」(2021)。川崎真由子作品は初演時に聴いているが、改訂初演とされていた。
●動植物に由来する作品が多い。「低い音の生きもの」では声とチューバがインドサイ、コアラ、ダチョウなど低い音の生きものを描き、「内裏玉」とはサボテンの一種らしく、「雲丹図録」ではなんと全13曲で11種類ものウニを表現する。これら動植物に加えて音楽家(シュトックハウゼン)も加わるとなれば、これはさながらポストモダンの「動物の謝肉祭」。全6曲、いずれも趣向に富み、すべてを楽しんだ。印象的だったのは山田奈直「内裏玉」で、チューバに風船やホース(?)を装着し、ふたりが協力プレイする。痛快。安野太郎「鏡の中」はワレリー・ブリューソフの同名短篇を題材に、バリトンとセルパンが鏡に向き合うようにして立つ。朗読による言葉の要素と断片的な歌の要素の交替、そして声の電気的な変調から幻想的な世界を作り出す。この曲がこの日の「白鳥」か。川上統「雲丹図録」は未知の生物群のイメージを喚起させる。自分は現実のウニの種別をまったく識別できないので。曲調からすばしっこく動き回るウニすら想像する。
●桁違いのインパクトをもたらすのは野村誠「どすこい!シュトックハウゼン」。これはシュトックハウゼンが相撲について語った映像が元ネタになっている。シュトックハウゼンが四股を踏んでみせたりするのだが、その動作や語りが見事に作品化されている。事前に映像を見ておいて本当によかったと思える圧倒的なパフォーマンスで、思わず自分も四股を踏みたくなった。名作と呼ぶほかない。

April 23, 2025

JFL 横河武蔵野FC対FCマルヤス岡崎、J1最下位のマリノス

●久々にサッカーの話題をふたつ。といっても、まったく戦績が振るわず、どちらのチームも茨の道を歩んでいるのだが。
横河武蔵野FC FCマルヤス岡崎
●まずは19日、武蔵野陸上競技場でJFL横河武蔵野FC対FCマルヤス岡崎を観戦。JFL、つまりJ1、J2、J3の次のカテゴリーで、日本の4部リーグ。かねてより応援してきた横河武蔵野FCだが、近年は迷走しており、東京武蔵野シティFC、東京武蔵野ユナイテッドFCと名称を変更した挙句、また横河武蔵野FCに戻った。詳しい事情は知らないが、自分の理解としては文京区の下のカテゴリーのクラブに飲み込まれかけたが、先方に利がないことがわかって、提携が解消された。もともと無理のある話だとは思っていた。結果として、このクラブはJリーグを目指すのではなく、地域密着型スポーツクラブに留まることに。というか、戦力ダウンが著しく、Jリーグどころか今はJFLに残留することが目標になっている。いったんJFLから落ちると、戻るのは至難。がんばってほしい。
●と、願いながら観戦したマルヤス岡崎戦だが、前半19分、右サイドのクロスから岡崎の原耕太郎がヘディングで強烈なシュート、武蔵野のキーパー末次敦貴がいったんはボールを弾くも、そのまま原に押し込まれて失点。これが決勝点となって、0対1で負けてしまった。武蔵野は終盤、ゴール前に早めにボールを放り込むことでチャンスをいくつか作ったが、一歩及ばず。トップの田口光樹が奮闘。ゲームを組み立てるというスタイルではなく、有効な攻めの形が乏しいので、先に失点すると苦しい。もう少しカウンターでチャンスを作れれば、とは思うのだが。観客数は509名。
●一方、J1のマリノスは踏んだり蹴ったりで、現在J1最下位。Jリーグのオリジナル10でマリノスと鹿島のみがこれまで降格を免れてきたのだが、ついに今季は降格圏に沈んでいる。これも新監督のスティーブ・ホランド(解任済み)がチームを壊したからで、アタッキングフットボールを放棄して守備を立て直すはずが、攻撃力が極端に減ったのに守備もパッとしないままという、ナンセンスな事態に陥ってしまった。トップチームの監督経験のない人を呼んでチームがガタガタになるという、先シーズンのハリー・キューウェル元監督と同じ轍を踏んでしまった。いくらイングランド代表やチェルシーでアシスタントコーチとして実績を積んでいても、監督をするとなればまったく話は別で、しかも異国の地ではなにひとつ手腕を発揮できなかった。選手交代の遅さ、決断力のなさを見ても感じたが、「助言する立場」と「決定する立場」では背負う責任が違うということなのだろう。ひとまずヘッドコーチだったパトリック・キスノーボが暫定監督を務めているが、早く実績のある人を呼んでこないと、来季はJ2で戦うことになる。Jリーグを知悉する人がいいんじゃないかな。

April 22, 2025

佐渡裕指揮新日本フィル、大竹しのぶ、高野百合絵のバーンスタイン「カディッシュ」

佐渡裕 新日本フィル 大竹しのぶ
●20日はサントリーホールで佐渡裕指揮新日本フィル。恩師バーンスタインにちなんだプログラムで、ベートーヴェンの「レオノーレ」序曲第3番、バーンスタインの「ミサ」からの3つのメディテーション(チェロ:櫃本瑠音)、バーンスタインの交響曲第3番「カディッシュ」(朗読:大竹しのぶ、ソプラノ:高野百合絵)が演奏された。「カディッシュ」の合唱は晋友会合唱団と東京少年少女合唱隊。「レオノーレ」序曲第3番と「カディッシュ」は、1985年に来日したバーンスタインが広島平和コンサートで指揮した曲目。
●ベートーヴェンの「レオノーレ」序曲第3番は重心低めで雄渾。佐渡裕が音楽監督就任以降取り組んできた「ウィーン・ライン」の成果を感じる。かつてのアルミンク時代とはまた違った方向性の剛健なベートーヴェン。「ミサ」からの3つのメディテーションでは櫃本瑠音が集中度の高いソロを披露。ソリスト・アンコールにマーク・サマーの「ジュリー・オー」。
●白眉はやはりバーンスタイン「カディッシュ」。生前はスター指揮者として圧倒的な輝きを放っていたバーンスタインだが、没後35年を迎えた今、以前には予想もできなかったほど作曲家としての存在感が増しており、その管弦楽作品は20世紀後半のアメリカ音楽としてレパートリー化しつつあると感じる(逆に指揮者だったことを知らない人がだんだん増えているのでは)。今回の「カディッシュ」では松岡和子訳による日本語テキストを大竹しのぶが朗読。字幕もあるのだが、やはり日本語で朗読されるとテキストの重みがぜんぜん違ってくる。日頃、音楽ファンとしてごく当たり前にミサ曲などキリスト教音楽を宗教的文脈から切り離して聴いているわけだが、このユダヤ教音楽においても聴き方は変わらない。
●が、ひと味違うのは、この曲が神の礼賛にまったく留まっていないところで、むしろ人間が神を疑い、神を慰めるという点が現代的。神に向かって「私を信じなさい」と語り、最後は神と人が「お互いを創りなおそう」と呼びかける。これは「キャンディード」のラストシーンと通じるものがあるんじゃないかな。人と神との再構築宣言。「神が人を創った」と「人が神を創った」の立場が合一を果たす。終楽章で合唱によるフーガがくりひろげられる声楽入り交響曲という点では、ベートーヴェンの「第九」も連想する。

April 21, 2025

東京・春・音楽祭「こうもり」ノット指揮東京交響楽団

東京・春・音楽祭 「こうもり」
●18日は東京文化会館で東京・春・音楽祭のヨハン・シュトラウス2世「こうもり」(演奏会形式)。なんと、ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団が登場。意外。アイゼンシュタインにアドリアン・エレート、ロザリンデにアニタ・ハルティヒ(当初予定から変更)、アデーレにソフィア・フォミナ、アルフレートにドヴレト・ヌルゲルディエフ、ファルケ博士にマルクス・アイヒェ、オルロフスキー公爵にアンジェラ・ブラウアー。充実の歌手陣。芸達者がそろった。アニタ・ハルティヒのロザリンデがすばらしい。アドリアン・エレートのアイゼンシュタインも笑える。マルクス・アイヒェ、この音楽祭ではおなじみだけど、シリアスな役でもコミカルな役でも本当にうまい。演奏会形式とはいっても、舞台にテーブルや椅子などが置かれ、衣裳も着用して演技するスタイルで、ほとんど舞台上演と変わらない。合唱は東京オペラシンガーズ。
●「こうもり」に限らずオペレッタ全般が自分はずっと苦手で避けてきたが、この公演に関してはノット指揮東響なのでぜひとも聴きたいと思ったし、期待通りに大いに楽しめた。劇場の練れた職人芸とはひと味違ったフレッシュな音楽。
●「こうもり」のストーリーって、とことん「陽キャ」の世界を描いていて、異世界ものみたいな感じなんだけど、もしあそこに自分が転生するとしたら、アイゼンシュタインになじられる吃音弁護士になると思う。
●5日間とか8日間の禁固刑って、少し不思議な刑だなって思うんだけど、たぶん、当時のウィーンでは普通にあり得たみたいで、比較的軽微な罪に対して数日間の短期拘禁が命じられたっぽい(AI調べなので話半分で)。

April 18, 2025

パーヴォ・ヤルヴィ指揮NHK交響楽団のストラヴィンスキー、ブリテン、プロコフィエフ

パーヴォ・ヤルヴィ N響
●17日はサントリーホールで、ふたたびパーヴォ・ヤルヴィ指揮N響。プログラムは前半にストラヴィンスキーのバレエ音楽「ペトルーシュカ」(1947年版)、後半にブリテンのピアノ協奏曲(ベンジャミン・グローヴナー)、プロコフィエフの交響組曲「3つのオレンジへの恋」。前半から「ペトルーシュカ」を聴けるというサービス満点プログラム。後半にピアノ協奏曲があって、舞台転換後に別の曲を演奏するという流れは珍しい。曲順を丸ごとひっくり返しても成立しそうなプログラムだけど、それだと前半が長すぎるのと、「ペトルーシュカ」で静かに終わるのが難点か。
●「ペトルーシュカ」はカラフル。グロテスクなストーリーを伝える語り口の巧みさがありつつ、オーケストラの機能美も追求され、すこぶる痛快。ピアノに松田華音。先日のプロコフィエフと同様、ピアノを指揮者と向き合う形で配置。この形だと協奏曲的性格は控えめで、オーケストラと一体になる。
●ブリテンはこの日最大のお楽しみ。ライブで聴くのは2回目、かな。なかなか聴けない。1938年、25歳の年に書かれたピアノ協奏曲は、まだ真のブリテン誕生以前というか、珍しく乾いたモダニズムがあって、むしろ気軽に聴ける面がある。ストラヴィンスキー、プロコフィエフ、ラヴェル(第2楽章)、バルトーク(第3楽章)を少し連想。おもしろいのは楽章構成で、協奏曲ながら4楽章で書かれていて、2楽章のワルツを舞曲楽章、3楽章の即興曲を緩徐楽章とみなせば交響曲風の構成なのだが、一方で第1楽章のトッカータにプレリュード的な性格があるので、プレリュード、ワルツ、即興曲、マーチという20世紀版古典組曲にも見える。グローヴナーのソロは達者。すっかり作品を手の内に収めているようで、きらびやかで軽快。ソリストアンコールはなく、おしまいは「3つのオレンジへの恋」。切れ味鋭く、豪快。ブリテンのピアノ協奏曲に続いて、この曲にもマーチが出てくるのだった。

April 17, 2025

オクサーナ・リーニフ指揮読響のベートーヴェン他

オクサーナ・リーニフ 読響
●16日はサントリーホールでオクサーナ・リーニフ指揮読響。プログラムはブラームスのピアノ協奏曲第1番(ルーカス・ゲニューシャス)とベートーヴェンの交響曲第5番「運命」。ゲストコンサートマスターに小川響子。大躍進中のウクライナの指揮者リーニフは小柄で華奢だが、指揮ぶりはきわめてダイナミック。はっきりした動作で、鋭角的な棒の振りはショルティを連想させる。前半、ブラームスのピアノ協奏曲第1番は、ライブではいつも難物だと感じる曲。ゲニューシャスはなんどかラ・フォル・ジュルネで聴いた人だが久々。テクニシャンでパワーもある人だと思うが、力むことなくスマート。オーケストラは重厚ではなく、抑制的。ソリスト・アンコールにシューベルトのメヌエット嬰ハ短調D600。かなり遅いテンポ設定で、左手のスタッカートを強調して弾くので、異様な雰囲気があっておもしろかった。舞曲ではなく、漂泊するかのよう。
●後半の「運命」は苛烈なベートーヴェン。乾いた鋭い響きで直線的にぐいぐいと進む。猛進する第1楽章だが、オーボエのカデンツァだけは思い切りゆっくり朗々と歌う。第1楽章のおしまいの部分は、いったん音量をがくんと落としてからクレッシェンドして閉じる「飛び出す運命」仕様。仕掛けは多い。終楽章はリピートありで、冒頭に戻る部分はすこぶるパワフル。畳みかけるように一気呵成に駆け抜ける。息を止めて全力疾走したみたいな「運命」だった。曲が終わると盛大な喝采があった一方、意外と拍手はあっさりと収まった感も。

April 16, 2025

バルガス・リョサ vs バルガス・ジョサ vs バルガス=リョサ

●13日、ペルー出身のノーベル文学賞受賞作家、マリオ・バルガス・リョサ逝去。89歳。ガルシア・マルケスらと並んでラテンアメリカ文学の中心的な作家だったが(このふたりが殴り合いのケンカをしたというエピソードがある)、日本語では「表記の揺れ」に悩まされっぱなしの作家で、バルガス・リョサ、バルガス=リョサ、バルガス・ジョサの間でずっと揺れたまま落ち着くことがなかった。おまけに代表作「都会と犬ども」(著者名はバルガス=リョサ)が、光文社古典新訳文庫で刊行された際に「街と犬たち」(著者名はバルガス・ジョサ)になってしまった。検索エンジンに堂々と背を向けている。ちなみに訃報では朝日も読売も共同もBBCも「都会と犬ども」の表記だった。
●でも「街と犬たち」の新訳は本当にすばらしいし、小説としては最高の部類なので、これはぜひ広く読まれてほしい。シンプルに青春小説としておもしろいうえに、巧緻な仕掛けがあり、重層的な読み方が可能。
●ゴーギャンとその祖母フローラの物語「楽園への道」、ペルー沿岸部の町と原始生活が残るアマゾン奥地を舞台にした「緑の家」、都会を捨てアマゾンの未開部族の語り部として生きる青年を描いた「密林の語り部」も傑作。が、本の厚みに怯んでしまい「世界終末戦争」は未読なのだ。読もう読もうと思いつつ読めなかったのだが、岩波文庫編集部が夏に「世界終末戦争」を刊行するとXで発表しているではないか。夏の読書感想文は「世界終末戦争」で決まり!

●関連する過去記事
「街と犬たち」(バルガス・ジョサ/寺尾隆吉訳/光文社古典新訳文庫)=「都会と犬ども」の新訳
「街と犬たち」(バルガス・ジョサ/寺尾隆吉訳/光文社古典新訳文庫) その2
「街と犬たち」(バルガス・ジョサ/寺尾隆吉訳/光文社古典新訳文庫) その3
「緑の家」(バルガス=リョサ著)

April 15, 2025

パーヴォ・ヤルヴィ指揮NHK交響楽団とアントワーヌ・タメスティ

パーヴォ・ヤルヴィ NHK交響楽団
●12日はNHKホールへ。N響に2シーズンぶりにパーヴォ・ヤルヴィが帰ってきた。前首席指揮者ながら、なかなか聴けなくなってしまったが、このコンビならではの切れ味鋭く引きしまったサウンドは格別。どんなレパートリーであっても、オーケストラを聴く喜びを堪能させてくれる。プログラムは、ベルリオーズの交響曲「イタリアのハロルド」(アントワーヌ・タメスティ)とプロコフィエフの交響曲第4番(改訂版)という少し不思議な組合せ。
●前半の主役はヴィオラ独奏のタメスティ。協奏曲のように始まりながらもソリストの出番がだんだんなくなってしまうという「イタリアのハロルド」の特徴を逆手に取るような演劇的なアプローチで、作品の新たな魅力に気づかせてくれた。なにしろ、ソリストが登場しないまま、曲が始まってしまう。第1楽章の途中で舞台袖からそっと現れる。で、ハープの隣で一緒に弾いたりしながら、ハロルドになりきってステージ上をさまよい歩く。けっこう舞台の奥にも行くのだが、タメスティの音はどこからでも同じように客席にしっかり飛んでくる。終楽章の頭の一撃に、タメスティはビクッとして上手の袖から退出する。そして、おしまいのほうで下手袖から再登場して弾く。トゥッティの部分でも第一ヴァイオリンの後方でいっしょに弾く。これなら終楽章で手持ちぶさたでずっと立っているなんてことにはならない。ソロがめっぽう上手いうえに、オーケストラ全体を鼓舞する効果があって、完全にタメスティ劇場。この曲で演出を工夫した例は過去にも記憶があるが、ここまでの成功例を知らない。曲が終わると盛大なブラボー。ソリスト・アンコールにバッハの無伴奏チェロ組曲第1番の前奏曲をヴィオラで。快速テンポで颯爽と。
●楽しさ抜群の前半に比べると、後半のプロコフィエフの交響曲第4番(改訂版)が渋く感じられるのはしかたがないか。この曲、第1楽章にはマシーンの音楽というか工業音楽的な魅力を感じるのだが、先に進むにつれてとらえどころがなくなってくる。とはいえ、終楽章のおしまいは怒涛の勢いでスリリング。ピアノを指揮者の正面に向き合うように配置していたのもおもしろい。
●前後半ともタンバリンが活躍するプログラムは珍しい。
---------
●フォントの話。数日前のアップデートで、Windowsのブラウザの標準フォントが、メイリオからNotoに変わった。Noto、いいフォントなんだろうけど、字面が小さいので、その分、読みづらくなった感じがする。慣れるとまた違うのか、どうか。当欄はフォントを指定しているのでWindowsではメイリオのままだと思うが、AndroidではもともとNotoのはず。どうしたものかな。

April 14, 2025

東京・春・音楽祭 リッカルド・ムーティ指揮東京春祭オーケストラの「ローマの松」他

東京・春・音楽祭 リッカルド・ムーティ
●11日は東京文化会館で東京・春・音楽祭のリッカルド・ムーティ指揮東京春祭オーケストラ。イタリア音楽プログラムで、前半はオペラの管弦楽曲集。ヴェルディの「ナブッコ」序曲、マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」間奏曲、レオンカヴァッロの「道化師」間奏曲、ジョルダーノの「フェドーラ」間奏曲、プッチーニの「マノン・レスコー」間奏曲、ヴェルディの「運命の力」序曲。後半は珍しいカタラーニの「コンテンプラツィオーネ」(瞑想、っていうの?)、レスピーギの交響詩「ローマの松」。最初の一曲からビシッとムーティの音、というか、春祭オケの音がする。ヴィオラの刻みまで雄弁。すごくハイテンションな音が出てくる。メンバーも若返っていると思うのだが、いつも固有の音が出てくる不思議。ただ、今のムーティの音楽はかなり重くなっている。十八番、「運命の力」序曲はもちろんすばらしいのだが、抒情的な曲にいっそうの魅力を感じる。
●カタラーニの「コンテンプラツィオーネ」は発見。甘美なのだが、軽く鬱っぽいところがよい。「ローマの祭」は期待通りの音の饗宴で、ゴージャスなバンダを伴って文化会館の広大な空間に音が飽和しそうなくらいのスペクタクル。少し短めのプログラムだったが、完全に充足。喝采にこたえるムーティはオーケストラを称えながら満足げ。カーテンコールで、鈴木幸一実行委員長が大きな花束を持って袖から登場してムーティに手渡したのはびっくり。鈴木幸一氏とムーティの長年の交流から生まれた最高の成果が東京春祭オーケストラだろう。
●ムーティはとても83歳とは思えない姿勢のよさ。姿勢って大事だなと思った。指揮する際の腕の振りもしっかりしているし、くっと腰をかがめる姿勢とか、よくできるなと思う。あと、最後のソロカーテンコールで袖から小走りで出てきたんすよ。これにはさすがに客席がどよめいた。人類?

April 11, 2025

フォークナー「野生の棕櫚」(加島祥造訳)

●先日、ヴィム・ヴェンダース監督の映画「PERFECT DAYS」を紹介したけど、あの映画で主人公がフォークナーを読んでいる場面があった。読んでいたのは「野生の棕櫚」みたい。ということで、中公文庫から復刊したフォークナー「野生の棕櫚」(加島祥造訳)を読む。フォークナーはこれまでに「響きと怒り」「サンクチュアリ」「八月の光」「アブサロム、アブサロム!」を読んできて、このブログでも触れてきたが、「野生の棕櫚」は初読。この作品って、前述の傑作群よりも後に書かれているんすよね(読んだ後に知った)。で、長さはほかの長篇に比べれば短いんだけど、私見では読みづらい。フォークナーはどれも読みづらいよ、って言われるかもしれないけど、他の長篇とはまた違った読みづらさがあって、それはおそらく前半のストーリー展開がしんどいから。
●「野生の棕櫚」でおもしろいのは作品の構造。この本はふたつの中篇が交互に語られる形になっておりて、「二重小説」と謳われる。ひとつは書名にもなっている「野生の棕櫚」。これがホントに救いのない話で、苦学生だった主人公ハリーは、医者になるべく一切の青春を知らないまま爪に火をともすような暮らしをしてきたんだけど、あと少しでインターンが終わるってところでパーティで2児の母であるシャーロットと出会って、恋に落ちる。そこからすべてを投げうって、ふたりだけの世界を求めて転々とするのだが、どんどん境遇がひどくなり、ついにシャーロットが妊娠して、堕胎手術を求められる。
●もうひとつの話は「オールド・マン」。こちらの主人公は囚人。ミシシッピ川で洪水が起きて、囚人たちは住民救助のために駆り出される。ところが主人公のボートが流されてしまい、溺死したことにされてしまうのだが、九死に一生を得て、妊娠していた女性を救い出す。でも、救ったはいいが、洪水で流されて刑務所に戻れない。そのうち、女が子どもを産む。しょうがないからそのまま3人で旅をして、最後にようやく刑務所に帰るという話。
●ふたつの物語は別々に進み、交わることのないまま終わる。だから無関係な話なんだけど、両者はどちらも「妊娠小説」。ただ「野生の棕櫚」は堕胎小説で、「オールド・マン」は出産小説という対照がある。「野生の棕櫚」の恋人たちが安定した生活を嫌い、崖っぷちを全力疾走することでしか生きられないタイプであるのに対し、「オールド・マン」の主人公は自我が希薄で、物語に喜劇的な性格がある。最後に刑務所に帰った囚人が、書類上は死んだことになってるから困ったなということになり、じゃあ脱走を企てたことにして10年の刑期を追加すればいいんじゃね?ってことで話がまとまる。ひどい話だけど、落語みたいなとぼけたテイストの「オチ」にクスッとさせられる。

●フォークナー関連記事一覧
フォークナー「響きと怒り」(平石貴樹、新納卓也訳/岩波文庫)
http://www.classicajapan.com/wn/2021/08/241103.html
「八月の光」(ウィリアム・フォークナー著/光文社古典新訳文庫)
http://www.classicajapan.com/wn/2020/08/172222.html
「サンクチュアリ」に鳴り響くベルリオーズ
http://www.classicajapan.com/wn/2004/04/130333.html
フォークナーの「納屋は燃える」
http://www.classicajapan.com/wn/2021/10/061025.html

●「アブサロム、アブサロム!」についての記事が見当たらないが、書かなかったのか。あれも強烈な小説。フォークナーからひとつ選ぶなら「響きと怒り」、もうひとつ選ぶなら「アブサロム、アブサロム!」にすると思う。

April 10, 2025

東京・春・音楽祭 2025 アンサンブル・アンテルコンタンポラン I ~ ブーレーズ 生誕100年に寄せて

東京・春・音楽祭 アンサンブル・アンテルコンタンポラン
●9日は東京文化会館大ホールで東京・春・音楽祭「アンサンブル・アンテルコンタンポラン I ~ ブーレーズ 生誕100年に寄せて」。指揮はピエール・ブルーズ。ピエール・ブーレーズではなく、ピエール・ブルーズ。わかっちゃいるけど、ドキッとする校正者泣かせの名前。よりによってアンサンブル・アンテルコンタンポランの音楽監督がピエール・ブルーズとは! で、プログラムが生誕100年を迎えたピエール・ブーレーズに寄せて。もう絶対まちがえる。
●プログラムにはブーレーズ作品に加えて、スイスの現代の作曲家ミカエル・ジャレルの作品も加わっている。前半がジャレルの「アソナンス IVb」(ホルン独奏はジャンヌ・モーグルニエ)、レ・メタボールの合唱が加わってブーレーズ「カミングスは詩人である」、ジャレル「常に最後の言葉を持つのは天のようだ」(日本初演)、後半がブーレーズの「シュル・アンシーズ」。ジャレル「アソナンス IVb」はホルンのみの作品で、特殊奏法と超絶技巧の嵐といった様子で凄まじい曲。どこかで聴いたことがあるかなとも思ったけど、ないはず。いちばん楽しめたのはブーレーズの「シュル・アンシーズ」。録音で聴いてもピンと来なくて、どうしようかなと迷った末に日程を理由にこの日を選んだんだけど、結果的に正解だった。ピアノ、ハープ、パーカッション3人ずつの編成で、減衰する音の組合せによる打楽器アンサンブル的な響きのおもしろさはライブならではで、きらびやかでほとんど陶酔的。現代音楽には、キラキラと元気が必要(なんだそりゃ)。
●前回の来日が小ホールだったので、今回も小ホールだと思い込んでいたのだが、会場は大ホールだった。さすがに客席はガラガラで半分も埋まっていない(控えめな言い方)。小ホールだったら問題なく盛況だったわけで、このあたりは編成の大きさとの兼ね合いもあって難しいところか。
---------
●余談。ピエール・ブルーズっていう名前、今は検索エンジン泣かせ、あるいはAI泣かせというべきか。ChatGPTに「フランスの指揮者ピエール・ブルーズについて、100字程度で紹介してください」ってお願いしたら、案の定、「ピエール・ブーレーズ(Pierre Boulez)はフランスの指揮者・作曲家で、現代音楽の革新者として知られる。鋭い解釈と精緻な指揮で、20世紀音楽の普及に貢献した」って帰ってきた。
●で、同じ質問をPerplexityにしたら、やっぱり「ピエール・ブーレーズ(1925-2016)はフランスの作曲家・指揮者で、現代音楽の革新者として知られる。IRCAM設立や『ル・マルトー・サン・メートル』などの傑作で音楽界に多大な影響を与えた」って帰ってきたんだけど、Geminiは偉かった。「ピエール・ブルーズは1977年生まれのフランスの指揮者です。元々はヴァイオリニストで、トゥールーズ室内管弦楽団のコンサートマスターと副指揮者を務めました。現在、最もエキサイティングな指揮者の一人として注目されており、2023/24シーズンからアンサンブル・アンテルコンタンポランの音楽監督を務めています。東京春祭2025にも出演予定です」と来たもんだ。珍しくGeminiが勝利(自分比)。ただし、100字の指定を無視している。
●と、AIと戯れてはいるが、日進月歩だからこんなのは過渡期のぶれにすぎなくて、あっという間に革命的な変化を社会にもたらすのだろう。これは成長の記録。

April 9, 2025

「職業は専業画家」(福井安紀著)

●コロナ禍以降、美術展に足を運ぶ機会が増えたのだが、たまに若手アーティストの作品を見ながら、ふと思う。「こういう人たちって、絵で生計を立てていけるものなのかな?」。きっと、この道を志す人の99%以上の人は食べていけなくて、ほんのほんの一部の人だけが脚光を浴び、多忙を極めるのだろう。漠然とそう考えていた。
●そんな先入観を打ち破ったのが、「職業は専業画家」(福井安紀著/誠文堂新光社)という一冊。著者は30歳までサラリーマンを務め、その後、絵だけで生計を立てている画家。だが、有名な賞を獲ったわけでもなければ有力な画商がついているわけでもない。ではどうやって絵で身を立ててきたのか。
●その答えは本の最初のほうに書いてあって、全国各地で数多くの個展を開いてきたから。年に4回から8回のペースで個展を開き続け、2020年には13回もの個展を開いたという。もちろん個展を開いても絵が売れるとは限らないし、なぜそんなにたくさん個展を開けるのかという疑問がわくが、そこもかなり詳細かつ具体的に記されている。絵の値付けをどうするか、販促活動をどうするか、など。画家であってもわれわれと同じくフリーランスの自営業者であるわけで、「仕事」としてすべきことはしなければならないという理にかなった話ばかり。
●絵の注文も受けるけど、営業はしないという話にも納得。値付けに大きな幅のある業種では「あるある」だと思うけど、営業で得られる仕事は最低ランクの値段がつきがち。逆に依頼される仕事なら値付けが少々強気でも、むしろ依頼者の見識の確かさを証明することになるってことなんだと思う。

April 8, 2025

映画「ロブスター」の音楽

●今さらながら、ヨルゴス・ランティモス監督の怪作、映画「ロブスター」の話を。この映画では、結婚が義務付けられており、独身者は身柄を拘束されてホテルに押し込まれ、そこで45日以内にパートナーを見つけなれば動物に変えられてしまうという不条理な世界が描かれる。どの動物になるかは自分で選べる。で、妻に捨てられた主人公(コリン・ファレル)が選んだのがロブスター。かなりシニカルかつブラックなテイストで、後味が悪すぎて人に勧めようとは思わない。ただ、よくできている。
●で、この映画にはやたらと弦楽四重奏曲が出てくる。ベートーヴェン、ショスタコーヴィチ、ストラヴィンスキー、シュニトケ、ブリテンあたり。とくに映画のテーマ曲ともいえるほど執拗に登場するのが、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第1番の第2楽章と、ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲第8番の第4楽章。たぶん、この選曲には意味があって、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第1番の第2楽章はシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」の一場面に触発されて書かれたという話がある。この映画で恋愛を強要されていた主人公はうまくいかず、やがてホテルを脱走して森の中で暮らす独身者たちのコミュニティに加わる。コミュニティには恋愛禁止の掟があるのだが、皮肉にもそこで恋が芽生える。この許されざるカップルというテーマが「ロミオとジュリエット」につながるのだろう。そして、恋人同士は他人にはわからないが、自分たちだけが理解可能なジェスチャーでコミュニケーションを図る。体制に悟られないように真意を表現する。まさにソ連共産党体制下のショスタコーヴィチの世界だ。
●でも、本当にイヤ~な感じの映画で、おしまいの場面はとても観ていられない。若い頃だったら喜んで観たかもしれないが。

April 7, 2025

ルネ・ヤーコプス指揮ビー・ロック・オーケストラのヘンデル「時と悟りの勝利」

●4日は東京オペラシティでルネ・ヤーコプス指揮ビー・ロック・オーケストラ。この日はほかにも魅力的な公演があったのだが、これを聴かないわけにはいかない。30年も来日がなかったヤーコプスがやってくること、ピリオド楽器オーケストラのB'Rock Orchestra(インパクト抜群のネーミング)がやってくることもさることながら、ヘンデルのオラトリオ「時と悟りの勝利」を聴ける貴重なチャンス。この作品、言及される機会は多いのに、実際にライブで聴いたことがなかった。コレッリがこの作品を指揮しようとしたけどフランス風序曲のリズムをどうにもうまく扱えないので、しょうがなくヘンデルがイタリア風序曲を作り直したっていうエピソードがあったと思うけど、そのヘンデルには珍しいイタリア風序曲を聴けた。
●で、この作品はオラトリオって呼ばれるじゃないっすか。当時、ヘンデルが滞在していたローマではオペラの上演が教皇令で禁じられていたから、代わりにオラトリオ。でも、合唱が入らないんすよね。「オラトリオとは主に宗教的題材を扱った合唱が活躍する作品」というのが基本的な理解だと思うけど、こういったタイプのオラトリオもあったのだとか。となれば、独唱者の役割が格段に大きくなる。きわめて技巧的な歌唱が求められるなど、すこぶる華やか。オペラを禁止してオラトリオにしているのに、かえってオペラ的な興奮を呼び起こすというおもしろさ。しかも今回の上演では軽い演技も含まれたりして、すっかりオペラの演奏会形式みたいな趣に。歌手陣は「美」がスンへ・イム(ソプラノ)、「快楽」がカテリーナ・カスパー(ソプラノ)、「悟り」がポール・フィギエ(アルト)、「時」がトーマス・ウォーカー(テノール)。とても高水準の歌手陣がそろっていて、とくにソプラノのふたりは印象的。第2部で客席に降りてきて歌う部分はドキドキした(1階席だったので)。オペラ「リナルド」の名アリアとして有名な「私を泣かせてください」の原曲を聴けたのも吉。
●ヴァイオリン、オルガン、オーボエのソロなど、オーケストラの聴きどころもふんだん。ここでも「オペラではなくオラトリオ」という看板を掲げつつ、エンタテインメント度が高い。前日のフライブルク・バロック・オーケストラに続いて、この日はビー・ロック・オーケストラを聴いたわけだが、なんともぜいたくな体験。ヤーコプスは第一部でも第二部でもおしまいの部分をたっぷりと引き伸ばして、余韻を残していたのが印象的。
●じゃあ、こんなに音楽的にすばらしい作品がどうしてあまり上演されないのかといえば、それはひとえにストーリーゆえか。すでにタイトルがすべてを言い尽くしているが、説教臭いというか説教そのもの。「美」が「快楽」の誘惑に負けそうになるが、「時」と「悟り」がそれを戒めて、信仰の道に誘い、勝利を収める……。この物語にある種の傲慢さを感じずにはいられない。ヘンデルの音楽とストーリーが釣り合っていないというか、矛盾しているというか。こんなにサービス精神旺盛な音楽で、そんな主張をされても。
●終演後は大喝采で、あっという間に客席総立ち。写真を撮れなかったので、その様子を残せないのが惜しいが、まれにみる成功だったと思う。

April 4, 2025

フライブルク・バロック・オーケストラ with クリスティアン・ベザイデンホウト I

●3日はTOPPANホールで「フライブルク・バロック・オーケストラ with クリスティアン・ベザイデンホウト I」。フォルテピアノのクリスティアン・ベザイデンホウトとフライブルク・バロック・オーケストラによる2夜にわたる公演で、その第1夜のみを聴く。プログラムは前半がモーツァルトのオペラ「偽の女庭師」序曲、ハイドンの交響曲第74番変ホ長調、モーツァルトのピアノ協奏曲第17番ト長調、後半がヨハン・クリスティアン・バッハの交響曲ト短調Op.6-6、モーツァルトのピアノ協奏曲第9番変ホ長調「ジュノム」。ベザイデンホウトが弾くフォルテピアノは、ポール・マクナルティ(2002年作)によるアントン・ワルター・モデル(1800年頃)。オーケストラは指揮者を置かず、コンサートマスターのゴットフリート・フォン・デア・ゴルツがリード。弦楽器の編成は44321、だったかな?(うろ覚え。54321かも)。座って演奏。
●このプログラム、少しおもしろかったのは最初のモーツァルト「偽の女庭師」序曲がアレグロ~アンダンテの「急─緩」の変則的な2部構成になってて、そのままつなげてハイドンの交響曲第74番に入った。そのため、第1楽章が終わったところで「急─緩─急」の3部構成が終わったみたいな錯覚が生じて、実際に拍手が起きた。これは狙い通りなのかな。拍手の後に、ハイドンの緩徐楽章が始まって「あれれ?」ってなる。モーツァルトとハイドンの親和性を示してくれたことになる。後半のヨハン・クリスティアン・バッハの交響曲ト短調は疾風怒濤といった趣で、これもモーツァルトの交響曲第25番ト短調に近い性格がある。ただ、類似性があるだけに、かえってクリスティアン・バッハとモーツァルトの間の大きな隔たりを感じるような……。オーケストラは鋭利でざらりとした質感の響きで、ぐいぐいと進む。
●2曲の協奏曲が圧巻。ベザイデンホウトのソロは洗練され、ニュアンスに富む。生気にあふれ、しっとりとした情感も十分。オーケストラのトゥッティの部分でも、ベザイデンホウトはなんらかのバスを弾いてアンサンブルに加わるわけだが、フォルテピアノの音色は無理なくオーケストラと調和する。モダンピアノであればなにも弾かない人が大半だと思うけど、長い提示部の間、ソリストがずっと沈黙しているのはなんだか落ち着かないといつも感じる。よく「ジュノム」は冒頭でオーケストラの呼びかけにソロが応答して、すぐにソリストの出番が用意されているところが特徴的と言われるけど、こうしてトゥッティ部分もずっと弾き続ける前提だと、これはそんなに特別なことって感じでもない。ところで長い提示部といえばショパンのピアノ協奏曲だが、あれは当時からソリストはずっと沈黙してたのか、それともなにかしら弾いていたのか、どっちなんでしょ。
●モーツァルトの「ジュノム」で不思議なのは、第3楽章のロンドの途中で突然、メヌエットが混入してきてがらりと雰囲気が変わるところだろう。それまでノリノリではっちゃけていたのに、急にしかつめらしいというか古臭い感じの曲調になる。この曲はモーツァルトの友人である舞踏家ジャン・ジョルジュ・ノヴェールの娘、ヴィクトワール・ジュナミーのために書かれたそうなので、ノヴェールが踊った誰かのメヌエットがここに引用されていて、聴いた人はみんなでにっこり微笑むという趣向だったのかもしれない。想像だけど。このメヌエットからアインガングを挟んで、もとの活発なロンドに戻るところが最高にカッコよかった。
●アンコールにモーツァルトのアルマンド ハ短調。バロックを装うモーツァルト。
●ピアノ協奏曲第17番の第3楽章は、モーツァルトのペットのムクドリが主題をさえずったというエピソードで知られている。このエピソードは微妙に細部が違ったいろんなパターンで伝えられており、そのあたりの話題を以前、ONTOMOの「モーツァルトがペットとして飼ったムクドリと、あの名曲との真実の関係は?」に書いた。ちなみにその際に知ったのだが、ヨーロッパのムクドリは日本中にいるムクドリと違ってクチバシが黄色くないのだとか。なので、見かけてもムクドリとは気づかないと思う。

April 3, 2025

東京国立近代美術館 ヒルマ・アフ・クリント展

東京国立近代美術館 ヒルマ・アフ・クリント展
●東京国立近代美術館のヒルマ・アフ・クリント展へ。アフ・クリント(1862~1944)はスウェーデン出身の抽象絵画の先駆者。神秘主義やスピリチュアリズムに傾倒して、交霊術の体験から抽象表現を生み出したという人。そう聞くと自分とは相性が良くなさそうな気もするのだが、作品を目にすると、ぐっと引き込まれてしまう。上の写真は「白鳥、SUW シリーズ、グループ IX:パートI、No. 18」(1914/以下、すべてヒルマ・アフ・クリント財団所蔵)。まあ、白鳥と書いてあっても、ついレコード盤を思い浮かべてしまうのだが。

東京国立近代美術館 ヒルマ・アフ・クリント展
●ハイライトは「10の最大物」(1907)。「神殿のための絵画」と呼ばれる作品群に属し、巨大なサイズの10の絵画が一部屋にぐるりと囲むように並べられている。高さは3メートル以上、かなり迫力がある。10作品はそれぞれ「幼年期」「青年期」「成人期」「老年期」と題されていて、自然と「幼年期」から順番に見ていくわけだが、「老年期」のあとにそのままもう一回「幼年期」から眺めて、輪廻鑑賞できるのが吉。
東京国立近代美術館 ヒルマ・アフ・クリント展

東京国立近代美術館 ヒルマ・アフ・クリント展

東京国立近代美術館 ヒルマ・アフ・クリント展
●これは「成人期」の一枚。わかるような、わからないような……。ともあれ、この大きな部屋は座るところがたくさんあって、ゆっくりと見ることができる。

東京国立近代美術館 ヒルマ・アフ・クリント展
●いろんな作風があって、これは「無題」(1934)。だいぶ肩の力が抜けた感じになってて、巨大な巻貝を背負っている。なんだか、今っぽい脱力加減があるというか、どこかで見た絵柄というか……。
●高解像度の写真はインスタで。

April 2, 2025

金沢の兼六園 2025

金沢 兼六園
●「オーケストラ・アンサンブル金沢 オーケストラの日 2025」の翌日、久しぶりに兼六園へ。春に訪れたのはいつ以来か思い出せないほど。かつて兼六園のほぼ隣にある中学校に通っていたのだが、当時は1ミリも関心を持てなかったこの場所が、今ではとてつもない規模の日本庭園であることがよくわかる。加賀歴代藩主により形作られてきた大名庭園で、池あり橋あり築山あり茶屋ありで、歩きがいがある。周辺エリアも含めてすっかり整備されており、来園者の大半は外国人観光客。その点は新宿御苑あたりと同様の見慣れた光景。平日だったのに、入場券を買うための行列ができていることに驚嘆。スマホで電子チケットを購入すれば並ばずに済む。

金沢 兼六園
●有名なことじ灯籠。ここで写真を撮るために順番待ちの行列ができていた。とはいえ、混んでいたのはここだけ。なにせ広大な庭園なので、ゆったりと過ごせる。

金沢 兼六園
●桜も咲いていた。本格的な桜の季節はまだ先だと思うが、今は桜も梅も同時に楽しめる。

金沢 兼六園
●いい感じで苔むしている。あちこち苔だらけ。兼六園には約70種類もの苔があるとか。苔マニアにはたまらない場所だろう。

金沢 兼六園
●至るところに灯籠や塔があり、ポケモンGOを開いてみるとだいたいポケストップやジムに設定されている。大名気分でポケモンをゲットするチャンス。かつて前田利家もここでピカチュウを捕まえていたのかなあと想像を巡らせて、歴史ロマンに浸る。

April 1, 2025

オーケストラ・アンサンブル金沢 オーケストラの日 2025

●30日は石川県立音楽堂で「オーケストラ・アンサンブル金沢 オーケストラの日 2025」。3月31日がオーケストラの日なのは「ミミにいちばん」からの語呂合わせなのだが、その前日の開催。オーケストラの日が学校の春休み期間中に設定されているということもあり、公演内容としては地域密着型のファミリーコンサート。子どもたちによる地元音楽団体がいくつも出演し、OEKはそれを支える役回り。休憩なし90分ほどの公演で、客席は大盛況。
●まず、いしかわ子ども邦楽アンサンブルが筝曲「三段の調」、長唄「共奴」より、「ひゃくまんさん小唄」を演奏。オーケストラの日と言いつつ、邦楽で始まるのは土地柄だが、邦楽アンサンブルも広義のオーケストラのひとつか。初心者も含むそうだが、子どもたちが立派な演奏を披露。続いて、珠洲市にある石川県立飯田高校の有志による合唱「朝の光が照らすカーテン」。これは「イマを謳おうプロジェクト」として、作詞も作曲も高校生たちが自ら行ったもので、阿部海太郎が編曲。高校生たちの日常に向ける前向きなまなざしがとても率直に歌われていたのが印象的だった。眩しく、頼もしい。
●OEKのみによる演奏は一曲のみで、モーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」第1楽章。新鋭、石崎真弥奈が指揮。さらに児童合唱団のエンジェルコーラスが加わって小田美樹作曲の「群青」、続いて石川県ジュニアオーケストラとOEKの共演で、チャイコフスキーの交響曲第5番より第4楽章。シンバルまで入った大編成による合同演奏ならではの迫力で、ひたむきさがひしひしと伝わってくる。おしまいは参加者全員で定番の杉本竜一「ビリーブ」。この曲、今やすっかり卒業式、卒園式、学校行事の音楽として定着しており、年代を超えて思い出深い曲になりつつある。アンコールはヨハン・シュトラウス1世「ラデツキー行進曲」。石崎真弥奈は客席を向いて、ニューイヤー・コンサートばりに拍手を指揮。客席とのコミュニケーションがうまい。司会はフリーアナウンサーの徳前藍。
●「ラデツキー行進曲」で指揮者が客席に向かって拍手の開始や強弱を指示するようになったのは、ウィーン・フィル・ニューイヤーコンサートでロリン・マゼールが始めたことだと記憶しているのだが、このスタイルが今や世界の隅々まで行き渡っていることを実感する。

このアーカイブについて

このページには、2025年4月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2025年3月です。

最新のコンテンツはインデックスページへ。過去に書かれた記事はアーカイブのページへ。