●同じ著者の前作「火星の人」に感心したので、この「プロジェクト・ヘイル・メアリー」(アンディ・ウィアー著/小野田和子訳/早川書房)も大いに気になってはいたのだが、ようやくKindleで読んだ。もうびっくりするほどおもしろい。伝統的なスタイルの純然たるSF小説、つまりサイエンスフィクションの「サイエンス」の部分がストーリーの核心をなしているのだが、それでいて万人向けの上質なエンタテインメントになっている。ジャンル小説としてこれ以上は望めないくらい完璧。上巻の途中で予想外のダイナミックな展開が起きて、思わず「うおぉ!」と声が出た。
●物語は主人公が宇宙船のなかで目を覚ますところから始まる。長期の睡眠で記憶が曖昧になっているのだが、次第に自分のミッションを思い出す。全人類に深刻な危機を及ぼすある種の環境問題を解決するために、恒星間宇宙船に乗っているのだ……。その先の展開はあらすじすら紹介できない。巻末の解説でもしっかり配慮されているのだが、そこらのレビューとか紹介文は遠慮なくネタを割っている可能性が高いので、これ以上なにも知らないまま読むのが吉。圧倒的に。
●かなり物理や化学に強くないとこの話は書けないと思う。アイディアも思いつかないし、思いついたところで自信を持って書き進められない。
●読み終えた後に、いちばんいいシーンを読み返して反芻している。やっぱり上巻のあの場面だな。
Books: 2025年7月アーカイブ
「プロジェクト・ヘイル・メアリー」(アンディ・ウィアー著)
「成瀬は天下を取りにいく」(宮島未奈著)が文庫化
●これは青春小説の名作だと思う。シリーズ累計135万部(!)を突破した2024年本屋大賞受賞作ということで、今さら紹介するまでもないが、「成瀬は天下を取りにいく」(宮島未奈著/新潮文庫)はとてもよい。連作短編集の形をとっており、滋賀県大津市に住むヒロイン、成瀬あかりの中学2年生から高校3年生までのエピソードが描かれる。成瀬は自分をナチュラルに信じることができる人間で、やりたいと思ったことをなんでもやってしまう。とてもまっすぐで優秀な子で、他人の目を一切気にしない。特徴的なのは各ストーリーごとに視点が入れ替わり、周囲の人物から見た成瀬が描かれるところ。成瀬は常に他者から見つめられる存在で、本人の内面は一貫して描かれない。そこがいい。読後感は爽やか。子どもは子どもの読み方で、大人は大人の読み方で楽しめる。
●で、クラシック音楽ファン的に見逃せないのは、これが膳所(ぜぜ)を舞台にした物語であるところで、膳所で思い出すのはびわ湖ホール。びわ湖ホールはJR膳所駅から徒歩圏内。駅を出ると、小説の舞台にもなったときめき坂だ。びわ湖ホールに向かう途中にあるショッピングセンター、Oh!Me大津テラスの食料品売り場、フレンドマートで成瀬がアルバイトをしていたという設定。惜しい、一昨年、びわ湖ホールに遠征した際には、まだこの本を読んでおらず、Oh!Me大津テラスには立ち寄ったものの、食料品売り場には行かなかった。今だったら、聖地巡礼できたのに!
●続編の「成瀬は信じた道をいく」もおもしろい。成瀬は大学生になる。フレンドマートにやってくるクレーマー主婦と成瀬の交流が秀逸だと思った。
「フリアとシナリオライター」(マリオ・バルガス=リョサ著/野谷文昭訳/河出文庫)
●未読だったバルガス=リョサの「フリアとシナリオライター」(野谷文昭訳/河出文庫)を読む。夏に岩波文庫から「世界終末戦争」が刊行されると聞き、その前に軽く読めそうなものを一冊と思って。いやー、怖いくらいに傑作。こういう軽快なタッチの小説を書いても、やっぱりバルガス=リョサは偉大だ。後にノーベル文学賞を受賞する(そしてペルー大統領選に出馬してフジモリに敗れる)作家の半自伝的青春小説。主人公はラジオ局で働く作家志望の大学生で、義理の叔母であるフリアとの恋がストーリーの軸になっている。フリアは実在の人物で、このロマンスは実話なんだとか。びっくり。
●が、ロマンスだけではバルガス=リョサの小説にはならないわけで、主人公のストーリーが描かれるのは奇数章だけ。偶数章ではぜんぜん関係のない奇想天外な物語が混入してくる。これが妙に通俗的で、でもやたらとおもしろい。なんなんだこれはと思って読み進めていると、やがてこれらのサブストーリーは、登場人物のひとりである天才シナリオライターが書いているラジオ劇場なのだと気づく。一種の枠物語なんである。で、この天才シナリオライターがまたとびきりの奇人で、やはり実在のモデルがいるのだとか。メタフィクション的な仕掛けを施し、さらに作家志望の主人公と奇人のシナリオライターというふたりの物書きを登場させることで、これは「書くことについての物語」になっている。
●そういえば「都会と犬ども」(街と犬たち)でも章ごとに複数の視点が使い分けられ、そのなかで一人称の「僕」がだれなのかわからないまま進むという趣向がとられていた。あれに比べればシンプルだが、「フリアとシナリオライター」でも語りの構造のおもしろさは健在。
●笑ったのは、放送局がラジオ劇場の台本を目方で買っていたというくだり。70キロもの紙の束を読めるはずがないから、中身なんか読まずに台本を買う。読まないのだから、中身の質もわからないし、単語数やページ数を数えることもできない。だから牛肉やバターのように目方で原稿を買うというわけ。
●関連する過去記事
「街と犬たち」(バルガス・ジョサ/寺尾隆吉訳/光文社古典新訳文庫)=「都会と犬ども」の新訳
「街と犬たち」(バルガス・ジョサ/寺尾隆吉訳/光文社古典新訳文庫) その2
「街と犬たち」(バルガス・ジョサ/寺尾隆吉訳/光文社古典新訳文庫) その3
「緑の家」(バルガス=リョサ著)
バルガス・リョサ vs バルガス・ジョサ vs バルガス=リョサ