December 28, 2006

リゲティ、グラン・マカブル、デスノート

ネクロツァール:「うわばみピート、お前の時は尽きかけている、オレの無情な知らせを聞け、この世の者はみな死ぬと!」
ピート:「そんなことはどんなバカだって知ってるぜ!」
ネクロツァール:「だがいつ死ぬかは知らぬ」
(リゲティ:オペラ「グラン・マカブル(大いなる死)」第1場より)

●共通の話題が訃報ばかりという状況は避けたいもので、なるべくそういうエントリーは控えたいのだが、でも白血病だったカンニングの中島忠幸氏(享年35)の死は衝撃的だった。あまりに若い。お笑いコンビ、カンニングが全国区になる前、中野区のケーブルテレビが制作する「東京ビタミン寄席」なる大変ローカルな番組で、彼らを知った。作りこんだネタで勝負する若手芸人たちのなかで、カンニングは異彩を放っていた。脈絡もなく相方の竹山がただブチ切れる。それを中島が宥める。ネタもなにもない。おもしろいけど、これは絶対に一般の視聴者にはウケないだろうと思ったワタシは本当に見る目がなくて、大ブレイク。超ローカルな番組だから、中島が中野北口駅前の惣菜屋さんでバイトをしているっていうのがネタになったりして、ワタシはその惣菜屋を気に入っていたからきっと何度か遭遇していたに違いない。故人のご冥福をお祈りします。
グラン・マカブル●リゲティのオペラ「グラン・マカブル」のなかでネクロツァール(死神)の言ってることは正しい。いずれ死ぬのはわかっていても、それがいつかはわからない。「グラン・マカブル」は最初のバージョンが1975-77年、改訂版が1996年。リゲティは1923年生まれだから、少なくとも人生の後半を生きているという自覚のもとで、このオペラを書いていたはず。ある架空の国家を舞台に繰り広げられるスラプスティック調のオペラで、どす黒いユーモアも含んではいるが、これは愛と生の喜びを称えた作品だと思う。ネクロツァールにああ言わせておいて、そのまま死神に死を弄ばせたままストーリーを終えることなんて、なかなかできないと思うのだ。死すべき運命だから、日々を大切に生き、生を称える。だから「グラン・マカブル」のラスト・シーンでは、アマンダとアマンドの恋人たちが愛を賛美し、続いて合唱がこう歌う。

死を恐れるな、良き人々よ!
いつ時が尽きるかなど誰にもわからない!
そのときが来るなら、来るがまま、
さよなら、楽しく生きよう、そのときまでは!

 もっとも舞台を観たことはなくて、ただCDを聴いて、台本を読んでるだけなんだけど。「グラン・マカブル」なんていうタイトルがついているから、おどろおどろしい音楽かと思われがちだが、そうでもない。第1場と第2場はクラクションによる前奏曲、第3場はドアベルによる前奏曲で始まる。普通、笑う。
●ではリゲティと違って、死神に死を弄ばせることができる者が書いた作品はなにかといえば、それは「デスノート」(原作大場つぐみ、作画小畑健)。漫画のほうは未読だが、現在放映中のアニメ版を見ている。死神が落としたデスノートを拾った人間は、そこに名前さえ書けばだれの命でも奪うことができる。主人公はこのノートに犯罪者たちの名前を次々と書いて、この世を善なる者だけの世界にすべく大量殺戮を行う。「グラン・マカブル」と違って、ここではなんのためらいもなく作者は人の命を奪ってゆく。こんなのを書けるのはきっと若者だろうと思って、原作者の名前をググってみたら、なんと覆面作家というか、正体は不明なんだそうである。
●「グラン・マカブル」を日本で上演する機会があったら、ネクロツァールに「デスノート」の死神リュークのコスチュームを着せるというのはどうか。あ、それじゃ歌えないか。

トラックバック(0)

このブログ記事に対するトラックバックURL: http://www.classicajapan.com/mtmt/m--toraba.cgi/763

このブログ記事について

ひとつ前の記事は「低気圧vs自分」です。

次の記事は「「えんぴつでモーツァルト」」です。

最新のコンテンツはインデックスページへ。過去に書かれた記事はアーカイブのページへ。

ショップ

国内盤は日本語で、輸入盤は欧文で検索。