March 3, 2009

「充たされざる者」(カズオ・イシグロ)

「充たされざる者」●昨日が執事小説に続いて今日は同じくカズオ・イシグロのピアニスト小説を。「充たされざる者」(ハヤカワepi文庫)。現代三大ピアニスト小説のひとつには確実で入るであろう問題作。何が問題かといえば、この文庫、分厚すぎる……ってのはウソ、いや中身はよっぽど問題作だ。
●主人公は世界的な名声を獲得したピアニスト、ライダー。この人、誰からも「ライダー様」と呼ばれるばかりで、ファーストネームがない。「日の名残り」や「わたしを離さないで」と同じく、主人公の一人称視点で物語は始まり、いわゆる「信頼できない語り手」の形をとる。ライダーはどこかヨーロッパの片田舎に招かれて、これからピアノを弾かなければならないらしい、しかもそれは単なるリサイタルではなく、住人にとっては町の命運がかかった重大イベントのようだ。町のあらゆる名士たちが「ライダー様」を待ち構えており、歓迎行事をはじめこれから凄まじくタイトなスケジュールをこなさなければならない、しかしマネージャーはどこだ、ライダーはスケジュールがまったく見えないまま、町の人々の丁重すぎる歓待を受ける……。
●で、読み始めてすぐに気づくのだが、主人公の一人称視点で書かれているはずなのに、あっさりと三人称視点でなければ見えないはずの情景が描写されて混乱させられる。なんと、これは前衛的なスタイルで書かれた小説なのだ。次から次へと町の人々があらわれ、「ライダー様」をあちこちに連れまわすのだが、その間に小説中の設定が変化していたり、町の中の地理関係が無茶苦茶になっていたりする。
●あれれ、この町はライダーが始めて来た町のはずだが、いつの間にか生まれ故郷のようになっていて、同窓生とばったり出会ったりするじゃないか。この女性と子供、他人のはずなのに、なんだかライダーの妻と子という設定にすり替わっているぞ。町の中をクルマで移動しているはずなのに、建物の中の扉を開けたら最初の出発点につながっているとか、なんだこれは。そうだ、これは夢ではないか。まるで夢の中のように、ここの「現実」は不安定で脆い。
●何百ページも悪夢世界を漂流させられながら徐々に見えてくるのだが、どうやらこの世界の登場人物たちには、「ライダー様」自身の若き日の分身や老年期の分身などがいるらしい。あるいは分身ではなくともある程度は「ライダー様」の一部を体現したような存在のようだ。そして、誰も彼もが世界的名ピアニストである「ライダー様」に対してへりくだった態度をとっているのだが、むしろ慇懃無礼というべきか、町の文化的芸術的成功のための催しがどうのこうのと立派な題目を並べてはいるが、一皮向けば失礼千万な連中ばかり。みなウジウジと自分の過去の失敗を悔やんでいるくせに妙に自己肯定的で、次から次へと「ライダー様」に厚かましい頼みごとばかりしてくる。ライダーは大人物らしく皆の要望に応えようとするが、そのうちどんどん手が回らなくなって破綻をきたす。つまりみんなヤなヤツ。町のみんながどれくらいヤなヤツかといえば、すなわち自分自身「ライダー様」と同じくらいヤなヤツだったという、これまたイジワル小説なのだった。やれやれ。猛烈に可笑しいぞ!
●読み始めて実験的な手法で書かれていると気づいたときには、正直裏切られた気分だったが、耐えて読み進めるとすばらしく傑作であったと気づく。この小説世界には一流のピアニストがレパートリーにすべき現代の作曲家として、マレリー、ヤマナカ、カザンといった人がいるようだ。ヤマナカはタケミツだろうか、マレリーはなんとなくブーレーズに置き換えて読んだが……、いやいや、そういう読み方はなんか違うな。
●文庫で全948ページという分厚さ。フツーなら二分冊にするだろうがなぜ? 上下巻だとみんな上巻で投げ出しちゃうから? この厚さに匹敵する文庫は島田荘司の「アトポス」以来。

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