ドミノ・ピザ
March 9, 2012

ショスタコーヴィチというサカヲタ

驚くべきショスタコーヴィチ●「驚くべきショスタコーヴィチ」(ソフィア・ヘーントワ/筑摩書房)を読むと、ショスタコーヴィチのサッカーへの熱狂が並大抵のものではなかったことがよくわかる。「作曲家なんだけど意外とサッカーも好きなんです」とか「趣味でサッカー見てました」とか、そういうレベルではない。どう見ても完全に「コアサポ」。作曲家という人生とは別にもうひとつサカヲタ生活を抱えていたようにしか見えない。
●30年代前半、「ムツェンスク郡のマクベス夫人」が成功したあたりから、ショスタコーヴィチのサッカー熱は高まっていったようだ。このときに審判員をやったりしているが、本筋はディナモ・レニングラードのサポ。1936年、あの「プラウダ」の「音楽ではなく荒唐無稽」があって、交響曲第4番を完成させるかたわら、ショスタコーヴィチは唯一人々と交わえる場所としてサッカー・スタジアムに通いつめた。ディナモの選手と積極的に近づいて、クラブについての情報を手に入れていたほど。交響曲第5番で公的な名誉を回復し、作曲家として多忙を極めるようになってからも、ディナモの試合は追いかけていた。

ショスタコーヴィチは、たとえどこにいようと、腹をすかそうが、疲れはてていようが、雨であろうが、風であろうが、スタジアムへ駆けつけていった。チケットがうまく手に入らないこともあった。そんな時、彼はスタジアムのまわりを、ダフ屋さながらに、「十ルーブル、十ルーブルでチケットはないか」といらいらした顔で聞いてまわるのだった。(「驚くべきショスタコーヴィチ」)

●唯一、普通のサポと違うのは観戦スタイル。音楽を聴くときのようにサッカーを観戦したという。叫ばず、黙って、感情を表に出さず、選手たちの動きを記憶に焼き付けながら集中して観戦していた。少しでも高く腰掛けるために、いつも古い書類カバンを持ち歩いていたという。
●ショスタコーヴィチはディナモのサポたちと日常的な交流を持っていたが、音楽関係の交友をサッカーには持ち込まないように配慮していたようだ。盟友ソレルチンスキーを含めて、音楽関係者に「コアサポとしての自分」をさらけ出すことは避け、その一方でサッカー仲間のジャーナリストとはともに連れ立ってスタジアムに通い、また大量の手紙(もちろんサッカーの試合についての)を交わしている。このサッカー書簡が残っているおかげで、彼がディナモの試合をどんなふうに見ていたのかがわかるのだが、その観戦記はまさに今のワタシらが熱心なサポのブログで読むようなスタイルのもの。とても親しみを持てる。
●このサッカー書簡の中で、いくつかショスタコーヴィチがそれぞれのチームのメンバー表を書いている。ディナモ・レニングラード、スパルタク・モスクワ、「赤い曙」(ってどこのこと?)など。たとえばディナモの選手をショスタコーヴィチはこう書く。

フォーキン(GK)
ラジコルスキー、スタンケーヴィチ
?、チェルヌィショフ、エリセーエフ
イリイン、デメンチエフ、ソロヴィヨーフ、ベフテネフ、トロフィーモフ

?は名前のわからない選手。他のチームも40年代前半まではおおむねこのような並びで書かれている。つまり、これは当時のソ連のチームは標準的に 2-3-5(Vフォーメーション) のフォーメーションを採用していたということだろう。2バックで守り、前線にワイドに5人の選手が並ぶ。歴史的フォーメーションだ。当時の西側サッカーもまだこの原始のフォーメーションを用いていただろうか?

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