ドミノ・ピザ
June 6, 2013

新国立劇場でヴェルディ「ナブッコ」、グラハム・ヴィック演出

ジュゼッペ・ヴェルディ●4日、新国立劇場でヴェルディ「ナブッコ」。グラハム・ヴィック演出。今シーズンはこれが最大の見物かなと期待していたんだけど、最終日だったこともあり事前にSNS経由で演出がどんなものになるかある程度伝わっていた。しかも意外とウケていないような……。劇場に入るとすでに幕は開いていて、舞台がショッピングモールに置き換えられている。ブランドショップみたいなのが並んでいるので、典型的にはこれは「デパートの1階」じゃないかな。エスカレーターもあるし(が、中身は階段で、みんな自分の足で昇ったり降りたりしていたのが少し可笑しい)。
●オペラを過去の古典芸能としてではなく「今の私たちの物語」とするために、読み替え演出は歓迎すべきというか、必須なものだとは思う。「ナブッコ」自体、初演時に聴衆が熱狂したのは、みんなが紀元前のバビロニアとエルサレムの物語に共感したからじゃなくて、それを自分たちイタリアの物語と受けとるだけのコンテクストが共有されていたからのはず。で、じゃあ「デパートの1階」ってのはどういう対立軸があるって読み替えなの?
●演出家のプロダクション・ノートを読んでもぜんぜんピンと来ない。ここではナブッコは武装したギャングなんすよ。つまり、デパートのブランドショップでお買いものをするお金に少々余裕のある人々vs武装したギャングっていう対立。これにどうして説得力を感じないのかなーと考えてみたんだけど、この両者って対立する階級というよりはむしろ構成員を共有しかねないのが今のニッポンじゃないかなって気がする。社会の対立軸はたしかにいろんなところにあって、たとえばブランドショップのお客vs安売り店のお客とか、裕福な老人vs仕事のない若者とか、正規雇用vs非正規雇用とか、いろんな切り口が可能なんだろうけど、デパートのお客vs武装ギャングっていうのはどうかなあ。お店とギャングならまだしも。
●なので、アビガイッレは武装ギャングのボスである父ナブッコと奴隷女の間に生まれた子供として己の出自に苦悩するわけなんだけど、出自を引け目に感じるとしたらそれはギャングの側じゃなくて、デパートの客の側じゃね?とか、「行け、わが想いよ、黄金の翼に乗って」を歌うデパートのお客さんたちは、いったいなにを想ってどこに行きたがってるの?とか、肝心なところの読み替えが整合性を欠いているように見える。
●これ新国のための演出だから言っちゃうと、ヴィックの書いていることを読むと、彼は「物欲にまみれ、所有欲を露わにする現代人」に批判的な目を向けているみたいなんだけど、これが今の日本にはピントがずれてる感じ。日本人はむしろ物欲を失ってて、一方で金銭欲にまみれているんじゃないのかな。みんな物を買わない(買ってくれない)。物の価値は下がってて、一方でお金の価値が上がっている。つまり「デフレ」だ。問題の設定が逆なのでは。
●と、文句言いつつも、それでもなにも問題意識のない演出よりはずっといい。音楽面では充実していたし。マリアンネ・コルネッティのアビガイッレは迫力十分。樋口達哉のイズマエーレがすばらしい。美声で声量もあって、容貌も映える。指揮はカリニャーニ、オケは東フィル。澄明な響きによる、精彩に富んだヴェルディ。合唱はいつものようにため息の出る美しさ。

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