May 27, 2014

METライブビューイング「コジ・ファン・トゥッテ」

●METライブビューイング「コジ・ファン・トゥッテ」を東劇で。復活したレヴァインは健在で、オーケストラへの影響力は絶大。精彩に富んだ、そしてウルトラ・リッチなモーツァルトをたっぷりと堪能できた。幕間のインタビューにあるように、METのオーケストラもずいぶんメンバーが変わって新陳代謝が進んでいるらしいんだけど、聞こえるのは紛れもなくレヴァインのモーツァルト。歌手陣も見事。スザンナ・フィリップス(フィオルディリージ)、イザベル・レナード(ドラベッラ)、マシュー・ポレンザーニ(フェルランド)、ロディオン・ポゴソフ(グリエルモ)、ダニエル・ドゥ・ニース(デスピーナ)、マウリツィオ・ムラーロ(ドン・アルフォンソ)。第1幕終わりの六重唱なんて、鳥肌級の楽しさ。お目当てのドゥ・ニースは、デスピーナという役柄は少し違うかなという気もするんだけど、でもたしかに典型的デスピーナになりきっていた。音楽面では超強力。
モーツァルト●で、レスリー・ケーニッヒの古い演出はきわめてオーソドックスなものなので、最近の「コジ・ファン・トゥッテ」に求められるような、男女の関係についてのドキッとするような考察なんてものはない。4人の男女はあんなことがあったのに、最後は元の鞘にもどってしまう。なので、初めて「コジ・ファン・トゥッテ」を見るには最適ともいえるけど、踏み込みが足りず作品の魅力を伝えきれていないと感じる人も多いはず。
●ここからは「オペラになにを求めるのか」という話になるんだけど、もしオペラの持つストーリーにシリアスにつきあうなら、つまりすぐれた小説を読むのと同じように、傑作に触れた後は生き方が変わってしまったり、日々目にするものが違って見えるようになるべきだとするならば(ワタシはそう信じてるわけなんだけど)、演出家が絶えず作品を更新し続けない限り、作品は力を失っていく。「コジ・ファン・トゥッテ」に触れて、「ま~、これってモーツァルト時代の女性観だからね。現代の物語じゃないから、ハハハハハ」で済ませてしまうなんていうのは、ありえないんである、選択肢として。作品へのリスペクトは、ダ・ポンテやモーツァルトがなにを期待していたかを伝えることではなく、今のワタシたちに作品がどんな意味を持ちうるかという問いで表現されるべきと思っているので。
●じゃあ、こういう保守的演出は無価値で退屈であると片づけられるのかというと、それも違うんじゃないかって気もする。この場合、ボールは観客側にあって、なにか意味を読みとることを求められている。で、今回改めて感じたことは、この4人の男女は幼いっていうことなんすよね、実年齢が。デスピーナが「女も15歳になれば~」と歌うことからして、妹が15歳、姉が17歳とか、そんなイメージ。今、この作品は恋人の交換というテーマから「男」と「女」を描くことが前提になりがちだけど、「少年」と「少女」の物語でもあったはず。「女はみんなこうしたもの」というより「女の子はみんなこうしたもの」「少女はみんなこうしたもの」。そう思って、世間というところに一歩も足を踏み出していない女の子の姉妹(とバカなボーイフレンド)の物語として見ていると、うっすらと浮びあがってくるのは「少年少女時代への苛立ち」みたいなものなんじゃないだろうか。こまっしゃくれたガキども(=過去の自分であったり、自分の子であったりする)の救いがたいメンドくささ、未熟さへの嫌悪。そういうクソガキティーンどもへのイライラした気分を、ドン・アルフォンソやデスピーナの立場から共有するのが、このオペラの根っこにある醍醐味なのかもしれない。イライラを満喫するためのオペラ。大人向けだなあ。

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