March 8, 2016

ラ・プティット・バンド「マタイ受難曲」

●5日は東京オペラシティでシギスヴァルト・クイケン&ラ・プティット・バンドの「マタイ受難曲」。字幕付き。歌手は第1群と第2群に各パート1名ずつ計8人のソリストを置くOVPP(One Voice Per Part)方式。プラス、ペトロやユダ、女中等で男声2、女声1が加わって声楽は計11人のみ。クイケンはいちばん下手側でヴァイオリンを弾いて、ごくたまに指揮の動作をする(途中でヴィオラ・ダ・ガンバも弾いてびっくり)。そういえばプログラムにはどこにも「クイケン指揮」とはうたっていないのだった。音楽監督&ヴァイオリンの位置づけ。ごく小編成での「マタイ」であるが、サイズに不足を感じることはまったくない。求心的なカリスマが率いるというよりは、自然体のバッハ。とはいえ第2部のドラマには圧倒される。
●非キリスト者が受難曲にどう向き合えばいいのか、というかねてからの問いがあって、ひとつの答えとしては仮想クリスチャン視点で聴く、というのがあると思う。ハリウッド映画で第二次世界大戦の場面になっても、主人公のヒーローに共感してアメリカ人視点で映画を見るのに近い感じ。もうひとつは、物語を抽象的で普遍的な祈りの感情みたいな枠にいったん閉じ込めてしまって、器楽作品同様にバッハの音楽として聴く、という形。これは葛藤が少ない。たぶん、通常はこの方法で乗り切っている。しかし字幕が持つ力は侮れず、この立ち位置がとれなくなったとき、自分の異教徒ポジションががぜん顕在化することがある。つまり、イエスに共感する理由がひとつもなくなる。自明のはずの物語の前提が崩れ、彼らはなぜ危険なカルト集団ではないのか、「やっぱ、そこはバラバでしょ!」と民衆と声を合わせかねない自分を発見する。あっちの神さまと、こっちの神さまは違うし。でもそうなるとテキストとバッハの敬虔な音楽とで衝突が起きるんすよね。この居心地の悪さを解決する方法はいまだ見つけられていない。だいたい墓からよみがえって復活するというのは現代的な理解ではどう考えてもゾン……、あ、いやいや、なんでもないっす。

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