March 12, 2016

新国立劇場「イェヌーファ」

●11日は新国立劇場でヤナーチェクの「イェヌーファ」。最終日の平日マチネにようやく滑り込んだのだが、もう圧倒されっぱなし。ブリテン「ピーター・グライムズ」以来の衝撃。これがオペラだ、って気がする。クリストフ・ロイ演出でベルリン・ドイツ・オペラで2012年に初演されたプロダクションで、キャストもシュテヴァ役以外は当時と同じなんだとか。この方式はいいっすね、これだけのクォリティで観られるんだったら。オケはトマーシュ・ハヌス指揮東響。
●怖い話なんすよ、「イェヌーファ」。先日、ヤナーチェクの伝記映画「白いたてがみのライオン」を見せてもらったじゃないすか、ここの中劇場で。その印象からすると、いかにも閉鎖的な田舎の村で起きそうな事件で、舞台イメージとしては水木しげる級のおどろおどろしさなんだけど、この舞台は真っ白すっきりモダン仕様。男たちもスーツ姿で都会風。真っ暗な舞台を矩形で真っ白に切り取って、妙な潔癖さと閉塞感が同居している。イェヌーファ(ミヒャエラ・カウネ)とその厳格な継母コステルニチカ(ジェニファー・ラーモア)の母娘関係は、スティーヴン・キングの「キャリー」の母娘を連想させる。コステルニチカはみんなからコステルニチカ(=教会のおばさん)と呼ばれ、本当の名前で呼んでもらえない。そして、いつも鞄を抱えている。あの鞄は罪のシンボルだろうか。その鞄を持って、どこにでも行ってしまえばどうなのか。しかし彼女はどこにも行かない。
●美しい娘イェヌーファの周囲にはふたりの男がいる。イェヌーファはイケメンのシュテヴァ(ジャンルカ・ザンピエーリ)と恋仲になり、彼の子を宿す。イェヌーファはシュテヴァに結婚を求める。しかし継母コステルニチカは酒癖の悪いシュテヴァとの結婚を思いとどまらせようとする。イェヌーファに思いを寄せていたラツァ(ヴィル・ハルトマン)は、嫉妬のあまりイェヌーファの顔にナイフで傷をつける。コステルニチカはイェヌーファを世間から隠し、ひそかに子を産ませる。彼女はシュテヴァを呼んで、イェヌーファと赤ん坊に会わせようとするが、シュテヴァは赤ん坊の顔すら見ようとしない。もう彼はイェヌーファとかかわり合いたくないのだ。すでに別の婚約者までいる始末(お前はモラヴィア版ピンカートンかっ!)。コステルニチカはこう考える。かくなるうえは、イェヌーファとラツァをくっつけるしかない。だが、そのためには……。彼女は赤ん坊を抱えて雪と氷で覆われた野外へとでかける。そして、ひとりで帰ってくる。「私の赤ちゃんはどこ?」とうろたえるイェヌーファに向かって、コステルニチカはこう言う。「お前は何日も高熱でうなされて幻覚を見ていたのだね。赤ん坊が死んでしまったことを覚えていないのかい?」。コステルニチカが凶行に及ぶ場面が恐ろしい。波打つような管弦楽のうねりは川の流れだろうか、水車小屋の水車の動きだろうか。ヴァイオリンがかん高く赤ん坊の泣き声を発する。
ヤナーチェク●伝記映画で描かれたヤナーチェクは、必ずしも実際のヤナーチェクと同じではないかもしれない。だから、あの映画で描かれた作曲家を仮想ヤナーチェクと呼ぶことにしよう。ヤナーチェクは実際にふたりの子供を亡くしている。仮想ヤナーチェクはひとりめの子の悲劇について、妻に責があるようになじっていた。ふたりめはまさに「イェヌーファ」の作曲と並行して、病で旅立ってしまう。仮想ヤナーチェクにとって、コステルニチカはその妻だったのだろうか。その後、仮想ヤナーチェクはまったく妻のことなど顧みずに、次々と若い女性に熱を上げるようになる。とりわけ人妻カミラへの情熱は常軌を逸しており、その燃え上がる恋の炎は創作活動にも火を付け、晩年の傑作群を生み出すことになる。あれを見て思ったのは、仮想ヤナーチェクはバトンを渡すべき子を失った結果、自らバトンを持ってふたたび青春期からを生き直したのだな、ということ。
●この物語の結末には、一応の救いが訪れる。コステルニチカの罪が明らかになるが、ラツァはすべてを知ったうえで、それでもなおイェヌーファを愛し、ふたりで生きることを決意する。ここには多少の余白が残されていると思う。ラツァはイェヌーファの顔に傷をつけたことにいまだに自責の念を抱いている。この罪の意識が原動力となっている限り、ラツァとイェヌーファの前途は決して明るくないことを予感させる。ラツァはそもそも「シュテヴァが愛しているのはイェヌーファの美しい頬だけだ」と挑発してイェヌーファの顔に傷をつけたのだが、ではラツァが愛しているのはイェヌーファの傷だけなのではないかという疑念がわいてくる。ラツァとシュテヴァはまるっきり対照的な男であるが、彼らは一人の男が持つふたつの面を描き分けたにすぎない存在のようにも思える。罪を認めたコステルニチカは、イェヌーファを愛していたようにふるまっていたが、自分が本当に愛していたのは自分自身だったと悔いる。しかし、ここにも逆説を感じずにはいられない。たとえ実母だって、そんな問い(お前が愛したのは娘なのか、わが身なのか)を自らに投げかけて平気でいられるだろうか。ここに顕わになっているのは、歪んだ愛ゆえに持ちうる絶対的な力強さだと思う。

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