November 8, 2016

柴田南雄生誕100年・没後20年記念演奏会 山田和樹が次代につなぐ~ゆく河の流れは絶えずして

●7日はサントリーホールで「柴田南雄生誕100年・没後20年記念演奏会 山田和樹が次代につなぐ~ゆく河の流れは絶えずして」。山田和樹が自らプロデュースする公演で、先立って開かれた記者会見の様子を以前に当欄でご紹介している。曲は柴田南雄の「ディアフォニア」、シアターピース「追分節考」、交響曲「ゆく河の流れは絶えずして」。山田和樹指揮日本フィル、合唱は東京混声合唱団と武蔵野音楽大学、尺八は関一郎。すばらしいコンサートで、自分のなかではほとんど著述家として記憶していた柴田南雄を作曲家として再発見した……と言いたいところなんだけど、もともとこれまで聴いてこなかったので再発見どころか発見そのもの。この日の三作品で作曲家について感じたことを端的にあらわすと、「なんでも書ける」、でも「創作は気恥ずかしい」。
●どれも1970年代の作品なんだけど、前半の2曲はあたかも後半のメインプログラムの「予習」みたいになっている。オーケストラのための「ディアフォニア」ではベルク風に始まって戦後前衛音楽のスタイルを経て、終盤は後期ロマン派風に化けるという多様式ぶりが、シアターピース「追分節考」では客席のあちこちに配置された合唱が歌いながら移動し、指揮者が文字を書いた団扇で指示を出すという演奏形態が、それぞれ後半の交響曲へのイントロダクションも兼ねている。「追分節考」はもう3000回以上演奏されているという、とてつもない作品。数パターンの民謡素材や尺八が空間内に移動する音源となって響きの層を作り出す。実際に会場で聴かないと伝わらない作品。民謡、上手すぎ。特大団扇ラブ。
●で、メインの交響曲「ゆく河の流れは絶えずして」なんだけど、自伝的交響曲でもあり、音楽史総集編というか、楽章ごとに多様式が大胆に混在する音楽であって、音楽についての音楽、メタ音楽でもある。先日聴いたウィーン国立歌劇場のシュトラウス「ナクソス島のアリアドネ」がオペラについてのオペラであったことと、まさかのつながりがここでできてしまったわけなんだけど、作曲家は古典派スタイルの曲も書けるし、12音技法でも書けるし、後期ロマン派風にも書けるとなったときに、じゃあそれをそのまま作品として書けるかといえば書けない。創ることは恥ずかしすぎて、耐えられない(きっと)。だから書くことについて書く。音楽についての音楽を創る。それだったら作品は作者の厳しい批評眼に耐えられる。「追分節考」だって「考」って付いちゃうじゃないすか。「創る」は気恥ずかしいけど、「考える」は恥ずかしくない。
●そこで「えいやっ!」って開き直って美しすぎる音楽を書いたほうが、後世に聴かれるような音楽になるのかなー、なんてこともふと思う。創作とは開き直り、かも。でもそこで開き直らないで、メタ化するほうが圧倒的に共感できるのも真実。もうメタメタに。

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