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September 11, 2017

Bunkamura バッティストーニ指揮東フィルの「オテロ」演奏会形式

●8日はBunkamuraでバッティストーニ指揮東フィルのヴェルディ「オテロ」(演奏会形式)。ライゾマティクスリサーチによる映像演出が付くということで話題を呼んだ公演なのだが、いざ始まってみればバッティストーニ指揮東フィルのよく鳴る雄弁なオーケストラが主役だった感。歌手陣はフランチェスコ・アニーレのオテロ、エレーナ・モシュクのデズデーモナ、イヴァン・インヴェラルディのイアーゴ。モシュクは初のデズデーモナ役だというのだが、とてもそうとは思えない見事さ。カーテンコールでの一番人気はインヴェラルディのイアーゴか。可能な範囲でそれぞれ演技をしながらの歌唱だが、演技の濃淡はけっこうばらつきがあったと思う。安定の新国立劇場合唱団。
●「オテロ」については比較的最近、新国立劇場でマリオ・マルトーネ演出があったが、そのときにも書いたように、エミーリアが事件の真犯人ともいえるわけで、彼女がハンカチの行方をさっさとだれかに報告しておけば、こんなことにはならなかった。もう一回書く。

オテロ 「あのオレが贈ったハンカチをどこにやった!」
デズデーモナ 「あら、あのハンカチならイアーゴに無理やり奪われたってエミーリアが言ってましたよ」
オテロ 「へー、そうなんだ」

●ね。報告、連絡、相談。オペラには「ほう・れん・そう」で助かる命がたくさんある。
●それと毎度の「オペラは見たままに理解する」キャンペーン絶賛開催中なので、今回もそういう目で見た。演奏会形式だからそうなんだけど、アニーレのオテロは顔を黒く塗っていないし、オテロにしてはかなり老いている。そう、オテロはムーア人ではなく老人だった(とあえて理解する)。栄光をつかむのが遅すぎた英雄が、老いからくる弱さと戦うオペラとして見直すと、いくつか話の筋道がすっきりしてくる。たとえば昔贈ったハンカチに異様にまでに拘泥するあたりは、若さへの執着を表現しているんすよ!
●さて、いちばん気になっていたライゾマティクスリサーチの映像演出だが、白と黒を基調とした(オテロだから?)幾何学的な映像がホール内にプロジェクションマッピングされたもので、主に抽象的な絵柄で嵐だったり登場人物の心理だったりが表現されていた。想像していたよりはずっと控えめな表現で、もっと好き勝手にやってくれてもよかったのでは? でも、方法論としては興味深いし、共感できる。というのも彼らは制作過程で、「オテロ」の鑑賞者の反応をなんらかの方法で測定して数値化するとか、演奏中の指揮者の身体の動きなどをセンサーで情報化するみたいなアプローチを試みていたようなので。つまり通常の演出家のように、確固たる視点を持って作品に踏み込むといったものとぜんぜんちがうやり方から出発しているがゆえに、なにか新しい表現が生まれるのではないかという期待があった。なんというか、洗練されたスマートなアルゴリズムが、経験豊富なその道のベテランの知恵を軽々と凌駕していくような痛快さを見たかったわけだ。その意味では先端テクノロジーを駆使して出力した Hello world といった感もあって、その先をもっともっと突きつめたところに広大な沃野が広がっているんじゃないか、と思っている。千里の道も一歩から。