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June 26, 2019

「モスクワの伯爵」(エイモア・トールズ著/早川書房)

●あらすじと書影だけを目にして「これは傑作ではないか」と確信して読み始めたが、期待を上回る傑作。最近、これほどおもしろくて味わい深い小説を読んだだろうか。「モスクワの伯爵」(エイモア・トールズ著/早川書房)の舞台はモスクワの高級ホテル、メトロポール。帝政ロシアが革命を経てソ連へと変貌する時代が描かれる。1922年、主人公であるロストフ伯爵は革命政府により裁判にかけられ、反革命的な詩を書いた罪により、ホテルから一歩でも外に出れば銃殺されるという軟禁刑に処される。生涯をホテルの屋根裏部屋で暮らすことになった元貴族が、移り行く時代をホテルから一歩も出ずに生きる。
●伯爵の人物像が魅力的。ユーモアと教養があって、官僚的なソ連時代にまったく似合わない貴族的なふるまいを貫く。伯爵の口からは箴言が次々と出てくるが、終生の軟禁刑に直面して、まず彼が指針として掲げたのが「自らの境遇の主人とならなければ、その人間は一生境遇の奴隷となる」。その通り、伯爵はホテルのなかでさまざまな人々と出会い、豊かな人生を味わう。その展開が秀逸。どんな結末もありうる設定だが、読後感は悪くない。
●なにしろ舞台が高級ホテルで、伯爵が食通ということもあって、食事にまつわるシーンの描写が詳細なのも特徴的。あと、クラシック音楽ファンであればより楽しめる箇所がいくつか。ホテルの宴会用食器置き場で、ある少女からこの道具はなに?と尋ねられて、伯爵はこんなふうに答える。

「アスパラガスを取り分ける道具だよ」彼は説明した。
「宴会では本当にアスパラガスの道具が必要なの?」
「オーケストラにはバスーンが必要だろう?」