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January 20, 2022

イプセンとグリーグの「ペール・ギュント」

●「ペール・ギュント」くらい音楽と原作でテイストが異なる作品もないと思う。グリーグの名曲を先に耳で知ってから、イプセンの原作を読むと必ず驚くはず。グリーグの音楽にはのびやかでみずみずしいロマンティシズムが息づいているが、イプセンの原作は鋭く風刺的で、あちこちに棘がある。グリーグの有名な「朝」みたいな爽やかな場面はまったくない。イプセンは「ペール・ギュント」でノルウェー文化を揶揄しているというのだが、19世紀後半時点でのノルウェーっぽさがどこにあるか、今の日本人が読んでもピンと来ない。にもかかわらず、ここには普遍的なテーマがあり、端的にいえば「いかに生きるか」が問われている。
●イプセンの原作で、ペールの冒険とは別に強い印象を残すのが、第3幕、森の奥の場面。びくびくして周囲をうかがう若い男が、隠し持った鎌を取り出す。で、木の株に手のひらを乗せて、自分の指を切り落とすのだ。その場面を目にしたペールは、男がなんのためにそんなことをするのか訝しむが、すぐに理由に思い当たる。徴兵を逃れるためだ。どうしても兵隊になりたくないから、そうする。そう思いつくのはわかるが、実行に移すなどとても理解できないとペールは思う。
●この場面は本筋とは直接関係ないが伏線になっていて、第5幕で老いたペールに向かって、牧師がその若い男の行く末を語る。指を一本失った男は徴兵検査で唾を吐かれ、出て行けと怒鳴られて山に向かった。そして半年後に母親と新妻と幼子を連れて戻ってきて、荒れ地を耕し、家を建てた。だが洪水に流されたり、雪崩に襲われたりして、なんども家と畑を失う。その度に男はまた畑を耕し、家を建て、3人の子供を育てあげる。だが、子供らは成人すると新大陸に渡り、故郷の父親のことなど忘れてしまう。男は民衆や祖国など高尚なことは目に入らない人間であり、徴兵検査以来、ずっと身を低くし、恥じとともに生きてきた。立派な市民でもなく、立派な信徒でもない。ただ自分の家では偉大だった、なぜなら男は己自身であり続けたから。牧師はそんなふうに説教をする。
●おっと、ほかに書きたいことがあったのだが、本題に入る前に長くなってしまった。この話、つづく