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February 29, 2024

「人類の深奥に秘められた記憶」(モアメド・ムブガル・サール著/野崎歓訳/集英社)

●昨年末、この一年間に刊行された翻訳小説のなかで絶対に読んでおくべき一冊と思って手にしたのが「人類の深奥に秘められた記憶」(モアメド・ムブガル・サール著/野崎歓訳/集英社)。年末年始にあらかた読み進めたところで、いったん脇に置いて頭を冷やしてから、今頃読み切った。傑作。フランスに住むセネガル生まれの若い作家による凄まじくパワフルな長篇小説で、2021年のゴンクール賞受賞作。大きなテーマは「書くこと」について。本についての本とも言える。
●主人公は作者の分身のようなセネガル出身でパリに住む若い作家。主人公はあるとき同郷の作家による幻の名作といわれる「人でなしの迷宮」を手に入れる。その作家T・C・エリマンは「黒いランボー」と呼ばれ文学界にセンセーションを巻き起こしたが、剽窃騒動により作品が回収されることになり、作者は行方知れずとなっていた。「人でなしの迷宮」に圧倒された主人公はエリマンの足跡を追いかけ、その真実の姿に迫る。枠組みはミステリー的だが、くりかえし語られるのは、書くという行為について、そしてアフリカ系作家であることの懊悩。主人公の探索の合間にエリマンとその周辺の人々の物語が、フランスやセネガル、アルゼンチンなどを舞台に重層的に語られる。リアリズムで書かれているのだが、セネガルで起きた過去の物語は神話的でもあって、ラテンアメリカ風の魔術的リアリズムやフォークナー的な土着性も漂う。
●一か所、村上春樹の名前が登場する。村上春樹が神宮球場でヤクルト戦を観戦していたときに、突如「小説を書いてみよう」と思い立ってデビュー作「風の歌を聴け」を書いたという有名なエピソードがあるが、その話が出てくるのだ。主人公がどうして作家になったのかを尋ねられる場面。これってすごくない?

誕生をめぐるすごいエピソードなんかぼくにはない。たとえばハルキ・ムラカミみたいなね。彼が作家の天職に目覚めたときの驚くべき話を知ってる? 知らない? 野球の試合を見に行ったんだそうだ。ボールが、純粋なハーモニーを奏でるように宙を飛んでいった。その完璧な軌跡を見て、ムラカミは自分がなすべきこと、なるべきものを悟った。つまり、偉大な作家だ。そのボールこそが彼にとっては文学的啓示であり、しるしだったんだ。ぼくにはそんなボールも、しるしもなかった。