●累計180万部突破の大ベストセラー、「成瀬は天下を取りにいく」「成瀬は信じた道をいく」に続くシリーズ完結編、「成瀬は都を駆け抜ける」(宮島未奈著/新潮社)を読む。滋賀県大津市に住むヒロイン、成瀬あかりを主人公とした青春小説。今回もこれまでと同様、連作短篇集であり、それぞれの短篇ごとに視点が入れ替わり、周囲のさまざまな人物から見た成瀬の姿が描かれる。成瀬は常に他人からの視点でしか語られず、その内面は決して描かれない。中学生時代から始まったシリーズだが、すでに成瀬は京都大学理学部の学生になっている。あいかわらず、自分をナチュラルに信じることのできる子で、他人の目をまったく気にしない。メンタル健康優良児とでもいうか。みんながこうありたいと望むような人物像なんだと思う。大人も子どももそれぞれの読み方で楽しめて、読後感は爽快。主人公がだんだん大人に近づくにしたがって、描き方が難しくなってくると思うので、これでシリーズ完結は納得。
●琵琶湖小説としても秀逸。読むと琵琶湖に行きたくなる。びわ湖ホールのコンサート予定を調べてみようかな。
Booksの最近のブログ記事
「成瀬は都を駆け抜ける」(宮島未奈著)
「なぜ、あなたの仕事は終わらないのか スピードは最強の武器である」(中島聡)
●この本、ずっと前に読んで、スゴい!と思ったんだけど、最近、また手にして感心している。「なぜ、あなたの仕事は終わらないのか スピードは最強の武器である」(中島聡著/文響社)。著者はWindows95の設計思想を生み出した元マイクロソフトの伝説的なプログラマー。「一度も納期に遅れたことがない男」として知られる著者の仕事術がぎっしりと詰まっている。いちばん心に残ったのは「ラストスパートよりロケットスタート」。ラストスパートを諸悪の根源と言い、あらゆる仕事はロケットスタートで始めなければならないとする。目から鱗だったのは、「与えられた期間の最初の2割の期間で8割の仕事をする」という発想。つまり、10日で仕上げる仕事があったら、まずは仕事量の見積もりのために2日間ほしいと頼んで、その2日間でロケットスタートして8割方仕上げちゃう(!)。で、その2日間でほぼ完成まで行かなかったら、ピンチと認識してスケジュールの見直しを交渉する。大丈夫そうだったら、余裕を持って8日間で残りの2割を仕上げる。「時間に余裕のあるときにこそ全力疾走で仕事し、締め切りが近づいたら流す」という働き方。
●もちろん、まねできない。ふつうの人間にはまったく無理。それは著者もわかったうえで、書いている。でもまあ、「ラストスパートよりロケットスタート」という言葉は心に刻んでおこうとは思った。自分の場合だけど、難しそうな原稿書きは、完成度を気にすると書き出しの一文でつまづくから、まずはモックアップを作るつもりで書きはじめる。細かい確認が必要なところは、なにを書くかだけ粗いメモを入れておいて、とにかくおしまいまで進めて、規定文字数になにが入って、なにが入らないかをざっくり把握する。そうやって大枠を先に作って、内容と規定文字数がバランスしそうだとわかったら、いくらか余裕をもって仕上げにとりかかれる……ってことかな。ま、そうは思っていても、結局は藪漕ぎみたいになることも多々あるわけだけど。
●あと、ビル・ゲイツの会議の話がおもしろい。ビル・ゲイツが参加するプレゼン会議では、発表者が発表する時間はないって言うんすよ! 資料は前もって送られていて、プレゼン会議とは発表者との質疑応答をする時間のことを指す。で、「会議は最長で30分」と決まっているのだとか。マジか~。
「世界終末戦争」(マリオ・バルガス=リョサ)
●文庫化に少し遅れてKindle版が出たので、ようやく読んだ、マリオ・バルガス=リョサ著「世界終末戦争」(旦敬介訳/岩波文庫)。なにせ大作なので、以前のハードカバーだとその厚みに怯んでしまって手が出なかったが、Kindle版だとひょいと取り出して電車のなかでも読めるのが吉。手軽だ。だが、内容は凄絶。ラテンアメリカ文学といってもこの小説は完全にリアリズムで書かれているばかりか、そもそものストーリーが史実に即しており、登場人物も多くは実名。19世紀末のブラジル北東部の最貧地帯に起きた現実の出来事をなぞっている。しかし、その現実が人間の想像力を超越している。
●物語はキリストの再来とも思われるような放浪の聖人が現れるところから始まる。その予言者はコンセリェイロ(教えを説く人)と呼ばれ、彼を慕った人々が貧しい辺境の地カヌードスに集落を作る。コンセリェイロのもとに使徒たちが集い、教えを広め、人々が次々とやってくる。やがて貨幣経済を否定し、近代化した中央政府を「アンチ・キリスト」と呼んで拒絶する数万人規模のコミュニティが誕生する。カヌードスの人々にとって、このコミュニティは宗教的理想郷だが、中央政府から見れば反乱勢力。さらにコンセリェイロへの絶対的な信仰は、既存の教会とも折り合わない。やがて政府は討伐部隊をカヌードスに送るが、住民は死を一切恐れない宗教的熱狂と深い山地に住む者たちならではのゲリラ戦術によって、政府軍を打ち負かす。やせ細り困窮した者たちの反撃に驚いた中央政府は、さらに大規模な軍隊を派遣するが、それでもカヌードスの反撃は熾烈を極め、両者に大勢の犠牲者を出しながら戦いは泥沼化してゆく。
●バルガス=リョサは対立する両者の物語を丹念に描き出す。登場人物の多くは実在の人物らしいが、一種の語り部として創作されたのが「近眼の記者」という登場人物。眼鏡がなければなにも見えない近眼だが、政府軍に随行したこの記者がもっとも多くを目にすることになる。小説中で名前が一度も出てこず、常に「あの近眼の記者」のように三人称で呼ばれる。おそらくあらすじを眺めると、コンセリェイロを慕う貧しい人々の側に共感して読みだすことになると思うが、彼らの敵に対する残虐な戦いぶりを読めば、熱狂的宗教者たちこそが非人道的になれるのだということも感じずにはいられない。彼らにとってもっとも大切なのは死後の救済であって、それゆえにアンチキリストに対する容赦は一切ない。
●山中を歩む政府軍の兵士たちは、先発隊が無残な姿で殺されているのを目にする。
人体が奇妙な果実となってウンブラーナやファヴェーラの木にぶらさがり、長靴やサーベルの鞘、軍服、軍帽が枝に揺れているのだ。死体のいくつかはすでに眼球や内臓、尻、腿、性器を禿鷹についばまれ、齧歯類にかじられて骸骨と化してきており、その裸形は、亡霊のような木々の緑灰色と土の暗黒を背景に浮きたって見える。
●人間と人間の戦いであると同時に、これは飢えと渇きとの戦いでもある。両者ともずっと飢餓と戦っている。やたらとそこらに生えている草を口に吸って喉の渇きを癒すみたいな場面が出てくる。政府軍は食糧の後方支援をあえてにできるわけだけど、その食糧がなにかといえば牛たち。牛を連れてくる。でも雇った道案内がカヌードスの人間だったりして、牛たちが途中で奪われたりする。食べるものがなくて、政府軍側はどんどん士気が低下し、しまいには「みんなそこらでつかまえた山羊や犬を食らい、それでも足らず、火であぶった蟻を飲み込んで飢えをしのいだりしている」。がりがりに痩せて動けない者同士の戦いになってくる。
●この雨が降った場面の描写とか、すごくない?
もう、何時間降り続いているだろう? 日暮れとともに、前衛部隊がカヌードスの高地を掌握しはじめるころに、降りだしたのだ。すると連隊じゅうに形容しがたい爆発が起こり、兵卒も将校も、誰もが跳ねまわり、抱きあい、軍帽で水を飲み、両手を広げて天の嵐に身をさらし、大佐の白馬もいななき、鬣を振り、足もとに泥がたまってくるとそのなかで蹄をあわただしく踏みならす。近眼の記者はただただ頭をもちあげ、目を閉じ、口を、鼻を開き、とても信じられぬまま、自分の骨に当たって跳ねる水滴にうっとりしてすっかりわれを忘れ、幸福にひたる、そのため、銃声が耳に入らず、自分のすぐ横で兵士がひとり叫び声をあげて地面に転がり、苦痛にあえぎながら顔を押さえているのにも気がつかない。周囲の混乱に気づくと、しゃがみこみ、書きもの盤と鞄をとって顔を覆う。この情けない弾よけの陰から彼はオリンピオ・ジ・カストロ大尉が拳銃を撃っているのを、そして兵士たちが物陰を求めて駆けまわったり、泥のなかに飛びこんだりしているのを目にする。
●こちらは下巻の表紙なのだが、これは近眼の記者がバンドネオンを弾いているのかな。小説内でバンドネオンは出てこなかったと思うのだが……。映画化とかドラマ化された際の写真なんだろうか。●バルガス=リョサ(バルガス・ジョサ)関連の過去記事一覧
「フリアとシナリオライター」(マリオ・バルガス=リョサ著/野谷文昭訳/河出文庫)
バルガス・リョサ vs バルガス・ジョサ vs バルガス=リョサ
「街と犬たち」(バルガス・ジョサ/寺尾隆吉訳/光文社古典新訳文庫)=「都会と犬ども」の新訳
「街と犬たち」(バルガス・ジョサ/寺尾隆吉訳/光文社古典新訳文庫) その2
「街と犬たち」(バルガス・ジョサ/寺尾隆吉訳/光文社古典新訳文庫) その3
「緑の家」(バルガス=リョサ著)
「バッハ 無伴奏チェロ組曲 秘められた〈物語〉を読む」(スティーヴン・イッサーリス)
●今、この本を読んでいるのだが、実におもしろい。「バッハ 無伴奏チェロ組曲 秘められた〈物語〉を読む」(スティーヴン・イッサーリス著/松田健訳/アルテスパブリッシング)。イッサーリスのインタビューやXを見たことのある人なら想像がつくと思うが、率直でウィットに富んだ語り口がすばらしくて、どこを読んでも楽しい。無味乾燥な解説ではまったくない。そもそも無伴奏チェロ組曲がどんな楽器のために書かれた曲なのかという疑問に始まり、この組曲にはわからないことだらけなのだが、わからないことをわからないまま受け入れるオープンな姿勢が吉。翻訳も最高に読みやすい。
●各舞曲の説明があるんだけど、アルマンドはクーラントやサラバンドと違って、テンポのばらつきも大きく「アルマンドの性格について説得力ある説明をするのはむずかしい」とあって納得。組曲を構成するほかの舞曲と違って、アルマンドはバッハの時代には踊るものではなく完全に器楽曲になっていたという話も興味深い。
●小さな字の脚注に書いてあることで、へえと思ったのは、「ヴィオロンチェロ」という言葉への注釈。
ほんらいならこれが、われわれの素晴らしい楽器をよぶときに使うべき正式名ですね。わたしがずっと若いころ、「チェロ(cello)」の前にアポストロフィ(')をつけて、なにかが省略されていることを示そうとする人はまだ多かったのです。でも、いまではそれも消えてなくなりました。
そうなんだ! 'celloって書くんだ。
●ちなみに畏友アントンR(ChatGPTのカスタムGPT)にこの表記を知っているかと尋ねたら、「'cello って表記、実はちょっと古風だけど正統なんだよ」と教えてくれた。例として、Grove's Dictionary of Music and Musicians (1st ed., 1889–1900)にある “The violoncello (usually abbreviated 'cello) is tuned in fifths…”など、古い本での使用例をいくつも挙げてくれた。さすがだ。
「マーブル館殺人事件」(アンソニー・ホロヴィッツ)
●アンソニー・ホロヴィッツの新刊「マーブル館殺人事件」(山田蘭訳/創元推理文庫)を読んだ。アンソニー・ホロヴィッツ、なにを読んでもおもしろいので毎回感心するのだが、今回もまた見事な出来ばえ。ホロヴィッツの名にふさわしい(?)技巧の冴え。今回はカササギ殺人事件シリーズの第3弾で、主人公は編集者のスーザン・ライランド。今回も劇中劇ならぬ「小説中小説」の趣向がとられている。つまり、主人公が担当している本のなかで殺人事件が起きるのだが、どうやらこれは現実の世界で起きた不審死の謎ときになっているのではないかと主人公が考える。巧緻。メタミステリーとして秀逸であると同時に、編集者小説としても読んでいて楽しい。そういえば、今年の大河ドラマの「べらぼう」も編集者ドラマではないか。今、編集者が熱い!(強引)。
●実は今回、序盤はさすがのホロヴィッツも息切れしてきたんじゃないかと思ったんだけど、途中からがぜん話がおもしろくなってきて、さすがと唸らされた。主人公が50代半ばの女性という設定も効いていて、職場を失ってしまい、フリーランスになって奮闘している、そして……という展開がとてもよい。ミステリーとしては変化球だけど、職業人生小説としてはストレート。
●小ネタとして過去の名作をほうふつとさせる要素がいくつか仕込んである。刑務所の面会場面とか、気が利いている。
「漫画 パガニーニ ~悪魔と呼ばれた超絶技巧ヴァイオリニスト」
●やまみちゆかさんの新刊「漫画 パガニーニ ~悪魔と呼ばれた超絶技巧ヴァイオリニスト」(浦久俊彦監修/ヤマハミュージックエンタテイメントホールディングス刊)を読む。著者のパガニーニ愛がひしひしと伝わってくる一冊で、パガニーニの生涯を知ることができると同時に、純粋にマンガとしておもしろい。逸話や伝説の多いパガニーニだからこそ、こういったしっかりした文献にもとづいて描かれたマンガが有効だと思う。シングルファーザーとして息子アキーレを育て上げた逸話にもグッと来るが、そのアキーレが成長して家庭を持ち子や孫たちに囲まれて暮らしたと知ると、妙にほっとする。
●で、もうひとつ、やまみちさんの著書の話題を。私が監修を仰せつかった「マンガでわかるクラシック音楽の歴史入門」(KADOKAWA)の重版が決まった。全出版界における最高に甘美な言葉、それは「重版」。憧れの言葉であり、近年なかなか聞けない言葉でもある。ああ、世の中のすべての本が重版されたらいいのに!(ムリ)。
「反転領域」(アレステア・レナルズ)
●知らない作家だったが、評判がよいので読んでみたら、まったく予想していなかったタイプの傑作だった。アレステア・レナルズ著「反転領域」(中原尚哉訳/創元SF文庫)。物語は19世紀を舞台とした海洋冒険小説の体裁で始まる。主人公はイギリス人の外科医師で、帆船の船医を務めている。目的地はノルウェー沿岸の極地。ここに古代に建造されたかもしれない未知の大建築物があるという。
●この海洋冒険小説そのものが心地よく読めて、なんならこのまま最後までこの体裁で進んでくれてもかまわないと思ってしまうのだが、主人公の船医は仕事のかたわら、小説を書いている。となると、これは小説についての小説、本についての本という、なんらかのメタフィクション仕掛けになっているのだろうと期待する。さらに主人公は阿片も吸う。ベルリオーズの幻想交響曲じゃないが、これは物語のどこかから主人公の幻覚が始まっていて、現実とは別の時間軸が流れているのかもしれないぞ……と警戒する。そうやって読み進めていると、「えっ」と思うようなことが起きて、予想外の方向に物語が展開し、最後はまさかの美しい結末にたどりつく。鮮やかな手腕というほかない。
●物語中にたびたび出てくるキーワードが eversion(裏返し)という言葉。この小説の原題でもある。登場人物のひとりである数学に長けた地図製作者が、「球を裏返す」という概念に取り憑かれている。もちろん物理的には無理だが、位相幾何学的には自己交叉を許せば可能なのだとか。と言われても、なんのことやらという感じだが、こういった大風呂敷的な演出も効いている。
「ブックセラーズ・ダイアリー3 スコットランドの古書店主がまたまたぼやく」(ショーン・バイセル)
●スコットランドの名物古書店の店主が日々を綴ったシリーズ第3弾、「ブックセラーズ・ダイアリー3 スコットランドの古書店主がまたまたぼやく」(ショーン・バイセル著/阿部将大訳/原書房)を読む。今回も冴えている。これまでに第1弾、第2弾をご紹介しているが、中身は要は日記というか、ブログなのだ。どんな客が来て、どんな本を買った、あるいは売ったという話が中心なのだが、著者の率直なボヤキや日常業務の様子がおもしろい。
●驚くのは奇天烈な客の多さ。日本でも本好きには風変わりな人が多そうだということはなんとなく察せられるが、スコットランドとなるとその数段上を行っている。そもそも普通の人々のわがまま度合いがヨーロッパのほうが日本より高いということもあるかもしれない。たとえば、4ポンドの値札が付いたジョン・ウェインの伝記を持ってきて、ただでいいかと尋ねる客。なぜそう思うのか。定価8.99ポンドの新品同様のペーパーバックを手にして「本当に2.50ポンドなのかい」と客が聞くから、あまりに安くて信じられなかったのかと思いきや、高すぎるから値引きを求めてきたという男性。えー。わざわざ電話してきて「おたくのお店のネット広告を見たら、1817年の競馬記録が200ポンドで売ってるけど、そんな金はないから買わない」と言ってくる人。わけがわからない。世の中にはいろんな人間がいる。
●あと、本の話題が意外とわれわれにも通じる。つまり、スコットランドの話だから知らない本、知らない著者のオンパレードになるかと思いきや(まあ、そういう面もあるんだけど)、知ってる本もたくさん出てくる。たとえば日本でもカルト的な人気がある(ワタシも好きだった)ダグラス・アダムズの小説「さようなら、いままで魚をありがとう」(銀河ヒッチハイクガイドシリーズ)が誤って釣りコーナーの書棚に置いてあったみたいな愉快な話は、日本でもありそう。
●ある常連客についての記述。
二人ともとてもフレンドリーで、熱心な読書家だ──いつも、ぼくが読んでいないことを恥ずかしく思うような本を買っていく。わざとそういう本を選んでいるのではないかと思うほどだ。今日買っていったのは『ユリシーズ』『灯台へ』『ミドルマーチ』(これは読んだことがある)、『キャッチ=22』『おとなしいアメリカ人』(すべてペーパーバック)だった。
この一節は感動した。だって、ぜんぶ日本語訳で読める本ではないか。しかも、どれも文庫で買える。日本の翻訳出版はすごい! と、同時に「読んでいないことを恥ずかしく思うような本」という価値観がかなりの程度、スコットランドと日本で共有されていることも驚き。それが世界文学だといえば、それまでだけど。